第3章 異郷の地にて(5)

「……それが、アルセイルが調べた全ての結果だ。王族しか知らぬ書物に残されている」

 そこまで語ったアーヘルが、ひとつ大きな息をついて口を閉じた。

 エレは完全に言葉を失って呆然とするしかできなかった。知らず知らずの内に握りしめた手は細かく震え、汗でじんわりと濡れている。

 セァク帝国初代皇帝セイ・ギの名はエレも知っている。始祖ライ・ジュの源流として、皇国の伝説にも登場する人物だ。だが、アーヘルの話が本当ならば、正義の名を持つ初代皇帝は、救世主どころか人類史上最悪の大罪人だった事となる。

 しかし、納得してしまう部分もある。最初の破神が突然現れて消息が知れない事。破獣が大陸に現れた事。破神の血はセァク皇族をはじめとして広く人々の間に潜んでいる事。そして、透明な刃とアルテアが破神に抗するのが可能な事。全ての点が線で繋がってしまうのだ。

『セァクの姫エン・レイ』だった頃なら、神聖なる皇国とアルテアを侮辱する話、と切って捨てていただろう。しかし、実際に破神を目にして戦った経験のある今のエレには、全てが真実味を帯びて迫って来る。

 だが、それが本当なら、尚更エレは大陸に戻らねばならない。またいつかどこからか破神が生まれた時、止められる力を持つ人間がいなくてはならない。この閉ざされた島に囲われている訳にはいかない。

 その意志をアーヘルに伝える前に、すっかり渇いてしまった喉を湿らせようと、エレは赤い杯を手にして、茶を口に含む。途端、やけに鼻につんと来る刺激臭を伴った液体が喉を突いた。顔をしかめつつもそういうものなのかと思って我慢して飲み下したが、直後、耐えがたい吐き気がせり上がって来て、エレはその場に身を屈めると、胃の中のものを全て吐き出す羽目になった。それに赤いものが大量に混じっていて、驚きながらよろめく。受け身を取れずしたたかに頭を打ち、アーヘルが驚愕して腰を浮かせ駆け寄って来るのが斜めの視界に入った。

「エン・レイ!? どうした、エン・レイ!」

 この不遜な王が気遣ってくれるなど、夢を見ているのだろうか。どうせ優しい夢を見るなら、あの人が語りかけてくれたら良かった。

 焼けつく胃と喉の痛みが麻痺してゆく。視界がぼんやりと歪んで次第次第に暗くなってゆく。インシオンが自分を呼ぶ幻聴を聞きながら、エレの意識は闇に沈んだ。


「――レ、エレ!」

 誰かの呼びかける声で、エレは夢の無い眠りから覚めた。自分が何故寝台に横たわっているのかしばらくわからなくて呆然と天井を眺めていたが、次第に人事がはっきりして来ると、がばりと起き上がり、空っぽの胃が引きつれて痛み、その場にうずくまった。

「ああ、無理をしては駄目よ、エレ」

 優しい声色と手つきで背中を撫でてくれるのは、薄紫の髪と瞳の少女。

「レ、ス」

 相手の名を呼ぼうとすると、喉の奥が刃で切り裂かれたかのように激しく痛み、声を発する事ができなかった。咳き込めば、のたうち回りそうなほどの更なる苦痛が襲いかかる。

「毒を口にしてしまったんですもの、今は大人しくしていないといけないわ」

 毒。あのひどい吐き気を思い出してぞっとする。あの茶に毒が盛られていたというのか。

 しかし、あの茶は同じ茶器から注がれたものをアーヘルも飲んでいた。何故、エレが口にしたものにだけ毒が入ったのだろうか。

「杯よ」

 エレの疑問に答えるように、レスナが忌々しげに吐き捨てた。

「あなたの杯の内側にだけ、あらかじめ猛毒が塗られていたの。それが茶に溶け込んだのね。命があって本当に良かったわ。私は友を失いたくないもの」

 レスナは目の端にじんわりと浮かんだ水分を指で拭う。麻薬、暗殺者、そして毒。自分は本当に命を狙われているのだという感覚が、恐怖のびろうどとなって覆いかぶさって来る。

 この痛みでは、まともに声が出せない。声が出せなければ、喉を癒すアルテアを行使する事さえかなわない。あらゆる力を奪われた事に愕然とするエレの肩を、レスナのほっそりした手がやんわりと包み込んだ。

「きっと第一王妃の仕業。自分の地位がアルテアの所有者に脅かされる事を恐れて、こんな事をしたんだわ」

 言われて思い出す。シュリアンと顔を合わせた時の、あの刺すような視線を。あの目の奥には、これほどまでの殺意が込められていたのだろうか。そう考えて、いや、と首を横に振る。

 まだ彼女を犯人と決め付けるのは時期尚早だ。先入観で疑ってかかってはいけない。かつてそれをして、インシオンを陥れようとしていた犯人を見つけられなかった失態を思い出す。今大事なのは、状況を見抜く冷静さだ。それでも。

「可哀想なエレ。大丈夫よ、私がついている」

 レスナの温かい囁きが耳に流れ込んで来ると、涙が零れる。味方がいてくれる事がこんなにも頼もしいのに、心の底では別の事を考えている自分への羞恥もこもっている。

 もしも今、自分を抱き締めて言葉をかけてくれるのが、あの人であったなら、と願わずにはいられない。

(インシオン)

 あの人は今、どうしているだろうか。無事だろうか。生きているだろうか。それを案じずにはいられなかった。

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