第1章 セァクの巫女姫は今(1)

 アルテアにはいくつかの制約がある。


 ひとつ、アルテアを行使するには破神タドミールの血を身に宿している事。

 ひとつ、発動には己の血、もしくは破神の血を持つ人間の血を凝縮した『言の葉の石』を必要とする事。

 ひとつ、アルテアは濁り無きヒノモトの言葉において行使する事。


 セァク皇国の始祖にしてアルテアの巫女ライ・ジュが定めし以上の制約を破った場合、報いを受けるのはアルテアの使用者だけではない。世界そのものが崩壊する大災害を招きかねない。

 故にアルテアを用いる者は心せよ。

 己が摂理を握っている事を。己の発言一つで世界が動きかねない事を。

 覚悟と責任のもとにアルテアを行使せよ。決して自分一人の欲望の為にアルテアを紡ぐ事が無きように、心せよ。

 遵守できぬ者には、死よりなお辛い報いがあるだろう。

 心せよ。


 秋風渡る黄金色の草原に、突風が吹き荒れた。

 夕陽きらめくどこか幻想的な光景の中を、全く似つかわしくない黒の影がよっつ、草をなぎ倒しながら低空飛行してゆく。

 破獣カイダ。破神の血により生み出された破壊の使者は、元は人でありながら、既に人の姿と心をとどめていない。衝動に駆られるまま他者を襲い、時に数で押し寄せては街を滅ぼしせしめる。

 だが、その破獣に果敢に立ち向かう者が皆無という訳ではなかった。

 今、破獣を追って走る人間達もその一員である。

「右手方向、二。左に二」

 短弓を構えたまま栗毛を揺らして走る少女がぼそりと呟くと、彼女の背後から二人の男達が抜き身の剣を手にして飛び出した。

 一人は萌葱色の髪に青灰色の瞳を持つ少年。やんちゃそうな顔に八重歯ののぞく笑みをひらめかせ、「ひゃっほーい」と歓声をあげながら、破獣に向けて身軽に大地を蹴った。

 空中で見事な一回転。落下の勢いを剣の威力に乗せて、少年の一太刀は破獣を頭から叩き割った。

 仲間が倒された事で、心が無いはずの破獣も何かの感情を覚えたのだろうか。二体が苛立たしげな唸り声をあげながらくるりとこちらへ向き直る。

 しかし彼らが、仲間を屠った少年の元へ飛びかかる猶予は無かった。透明な刃が一閃、破獣の一匹の首をはね飛ばしたのである。

 剣の主は青年だった。全身黒ずくめの衣装に身を包んだ姿はさながら死神のようだ。返り血を頬に浴びて舌打ちしつつも、返す刀でもう一体に向けて剣を突き出す。一撃で心臓を貫かれた破獣は、断末魔の叫びをあげながら黒い霧となって消滅した。

 その様を感情のこもらぬ赤い瞳で見下ろしていた死神は、ふと顔をあげると、声を張り上げる。

「――エレ!」

 それに応えるように、彼の視線の先で手を掲げてぶんぶん振る者がいた。

「あの馬鹿。呑気してねえで、さっさとやれっての」

 青年がぼやく内にも、残り一匹の破獣が手を振った人間に向かってゆく。しかしその人物は動じる事無く破獣を待ち受けた。

 紅の組紐で左寄りに結った赤銀の髪が、夕陽を受けてことさら赤く輝く。若草色の瞳に凛とした決意を宿したその顔は、まだ年若い少女。彼女は細い鎖を通して首から提げた硝子製の小瓶に唇をつける。瓶の中で踊っていた赤い液体がすっと流れ出て薄く唇を彩ると同時、なめらかな織物を紡ぐように声が発せられた。

『炎の矢、疾く駆けて敵を滅せよ』

 破獣を狙い撃つように掲げた指先から、ふわり、虹色の蝶が舞い上がった。めまぐるしく色を変転させながら漂っていた蝶は、ある瞬間に赤く輝いたかと思うと、鋭い紅蓮の矢に姿を変え、破獣に向けて疾走する。矢が破獣の胸に吸い込まれるように突き刺さると、炎はぶわりと黒い体躯を包み込み、一気に燃え上がった。

 紅の炎は破獣を焼く事があっても周囲の草原を焼く事は無い。使い手の意のままに摂理が動く。それがこの現象――アルテアに与えられた能力である。

 やがて燃え尽きた破獣が黒い塵となり、風に乗って四散すると、少女はふうと息をつき、知らず知らずの内にかいていた額の汗を拭う。そして歩み寄って来る黒服の男に向けて、

「インシオン!」

 ぱっと笑顔を輝かせて再び手を振った。

「私、やったでしょう? もう立派なインシオン遊撃隊の一員ですよね」

 返答は、頭を軽く小突く拳ひとつだった。

「調子乗ってるんじゃねえよ」

 青年が渋面を作って赤い瞳でじろりと見下ろして来る。

「アルテアも万能じゃねえんだ。発動まで油断ぶっこいてたら隙を突かれてやられる可能性があるって、さんざっぱら言ってるだろうが」

「……すみません」

「えーっ、エレは充分やってるじゃん」

「もう、遊撃隊にいないと困る戦力」

 さっきまでの自信はどこへやら、しゅんと肩をすくめて縮こまる少女を見かねたのか、青年の後ろからやって来た少年と少女が弁護するように意見を述べた。

「ありがとうございます、シャンメル、リリム!」

 エレと呼ばれた赤銀髪の少女が嬉々として礼を言うと、青年が苦虫を噛みつぶしたような表情でシャンメルとリリムと言われた二人を振り返る。シャンメルがにかっと白い歯を見せて笑い、リリムは微かに笑んだ後、気恥ずかしそうに視線を明後日の方向に馳せた。

 味方を失った青年が、渋い実を口に含んだような顔のままエレに向き直る。青年とは逆に援護を得て勢いづいた少女は、腰に手を当て得意気に胸を張った。

 青年が溜息をつくと、長い前髪が吹き上げられて揺れる。その黒髪は元は後ろも長くてゆるい三つ編みにしていたのだが、半年前のとある事件をきっかけに、うなじのあたりですっぱりと切り落とし、以後伸ばす事をしていない。

「とにかくだ」

 大きな手がエレの頭に乗せられ、無造作に撫で回す。

「格下だろうが楽勝だろうが、余裕こくな。慢心は歴戦の戦士も殺す」

 呆れ半分の口調で言われ、エレから笑顔が失われた。しょんぼりとした様子で返す。

「……わかりました」

 反省したと認識したのだろう、青年がもう一度くしゃりと髪を撫でて手を離した。

 歩き出す黒い背中を見つめながら、しかしエレは青年の思惑とは別の事を考えていた。

(また、子供扱い)

 頼りがいある手が乗っていた頭にそっと触れる。そこにはまだ温もりが残っているようで、むずむずした気持ちがこみ上げる。

(インシオンにとって私はまだ、『娘みたいなもの』ですか)

 半年以上一緒に旅をして来て、十八歳になった。それでも、青年――インシオンの中でエレの格が上がった気配は一切無い。

 二人の生い立ちを思えば無理も無い。インシオンはイシャナの王族として生まれながら王家を追われ、一軍人として生きる身。対してエレは一般家庭に生まれながらも、かつて得たアルテアの力によって、セァク皇国の王姉として暮らして来た世間知らずの娘。環境も、辿って来た人生も違いすぎる。

「エレー?」

 嘆息した時、シャンメルが陽気に声をかけて来たので、思考の輪から現実に立ち返る。

「町に戻るよ。置いてっちゃうよー」

「今行きます!」

 努めて笑顔で手を振り返し、仲間達の後を追って歩き出す。しかしその胸中ではやはり、もやもやした気持ちが渦を巻いていた。

 少しでも早くインシオンに追いつきたい。彼の隣を並んで歩いて、背中を守れる存在になりたい。

 しかし今のところ、それが果たされる気配は無い。インシオンはひとたび剣を抜けば先陣切って走ってゆき、エレの追随を許さない。平時も淡々とした態度を崩さない。その胸の奥には優しさも温かさも秘めている事をエレも知っているのに、なかなかそれを見せてくれない。

 それもこれも、自分が頼り無い子供だからだろうか。

(早く一人前になって認められたいです)

 そんな焦りこそが子供の証左である事に気づかず、エレは小走りで皆の後を追う。

 しかし。

 認められたい。それが子供の意地だけではなく、インシオンに対する特別な感情が付随している事を認めないほど、エレは幼くもないのだった。

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