第3章 与えられた名前(2)

 リリムの言葉に反応したインシオンとシャンメルが即座に抜剣し、ソキウスがエン・レイの傍へ駆けて来る。

 急速に迫り来る殺気。その気配をエン・レイも知っている。

破獣カイダ四匹」

 短弓に矢をつがえて待ち構えるリリムの宣告通り、黒い獣四体が、小川の上流から風を切って飛んで来た。

「エン・レイさん、こちらへ」

 ソキウスがエン・レイの腕を引く。

「でも」

「邪魔だ」

 自分はアルテアが使えるのだ。加勢するべきではないだろうかと逡巡するエン・レイの耳を、雪より冷たいインシオンの声が刺した。

「引っ込んで、終わるまでじっとしてろ」

 言い残して、インシオンはシャンメルと共に破獣に突っ込んでゆく。彼は三つ編みを翻しながら剣を軽々と振り回し、速さに優れるはずの破獣をかく乱する。獲物を捉えるのが上手くいかずに、破獣は苛立ち混じりの唸り声をあげた。

「いっただき!」

 混乱して隙が生まれたところへ、シャンメルが飛びかかる。血しぶきと共に破獣の首が飛んだ。

 リリムも小柄な体格を活かして飛び跳ね破獣を翻弄し、短弓につがえた矢を放って二人の補佐をしている。しかしくぼみに足を取られて、彼女の小さな身体があおのけに倒れた。

「危ない!」

 ソキウスが止めるより早く、エン・レイは叫びながら飛び出していた。無我夢中で言の葉の石を唇につけて、アルテアを口にする。

『炎の矢よ、空を走れ』

 アルテアの巫女に応えて虹色の蝶が生まれる。蝶は赤い光を放つと破獣に向かって高速で舞いながら紅蓮の矢に姿を変え、リリムに襲い掛かろうとしていた破獣の心臓を串刺しにした。

 リリムが、シャンメルが、ソキウスが、そしてインシオンが、驚きの視線をエン・レイに向ける。しかしインシオンがいち早く立ち直ると、正面から向かって来る破獣目がけて剣を振り下ろし、一刀両断した。

 シャンメルが最後の一匹を斬り伏せ、辺りに沈黙が戻る。

「……増援の気配無し」

 リリムがむくりと上体を起こし、雪の中に座り込んだままぽつりと呟く。雪の上に赤黒い染みを作った破獣達はやがて、しゅうしゅうと煙をあげて周辺の雪を溶かしながら消滅した。死んだ破獣は跡形無く消える。それがセァクにもイシャナにも通じている常識だ。

 当面の脅威が去った事に安堵の息をつくエン・レイの前に、苦虫をかみつぶしたような表情のインシオンが立つ。

「お前どんだけ阿呆だ?」

 開口一番、彼は容赦無く切り捨てた。

「引っ込んでろと言われた人間がしゃしゃり出て来てどうする。他人の足を引っ張る可能性に気づけねえのか」

「あのままではリリムが危険でした」

 今まではこの赤い瞳に見すえられると怯んで縮こまっていた。だが今は、自分が間違っていないという自信がある。

「私の力が役に立つのなら、目的地までは協力し合うべきです」

 アリーチェの時のように、何もできないままこの人達の命を失わせたくない。その思いがエン・レイの胸にある。

「私を、戦力として扱ってください」

 ソキウスが目をみはり、シャンメルが口笛を吹いて、リリムが神妙な顔でじっと見つめる。インシオンは半眼でエン・レイを見下ろしていたのだが、やがて。

「……ついて来い」

 と背を向け歩き出した。

 後を追うまま歩いてゆくと、開けた場所に出た。障害物の無い一面に積もった雪が、なだらかな白い世界を作り上げている。

「試してやる」

 後から三人が追って来たところで、エン・レイから十歩ほどの距離を置いたインシオンが振り返り、びっとこちらを指さした。

「一回でいい。どんな手を使ってもいい。俺にこの雪をぶつけてみろ。そうしたらお前を認めてやる」

「インシオン、それは」

 ソキウスが口を開きかけるのを目で制して、インシオンがエン・レイに視線を戻す。

「どうだ。やるか、やらないか。お前にとっては楽な条件だろ」

 静かな気迫に圧されて、生唾を呑み込む。心臓はどきどき高鳴っている。ぐっと拳を握り込んで目をつむり、静まれと言い聞かせると、エン・レイは再度目を開いて相手をしっかりと睨み返し、きっぱりと言った。

「やります」

 言い切ると同時、雪をすくい上げて拳大の雪玉を作った。大きく振りかぶって、インシオン目がけて放り投げる。だが雪玉はインシオンがひょいと頭をずらすだけで当然のごとく避けられた。

 次々雪玉を作っては投げる。そのいずれもが、インシオンがその場から軸足を動かす事すら無くかわされた。

「……なめてんのか?」

 苛立ち混じりの声と共にざっと雪を蹴る音がする。気づけば至近距離にインシオンの顔があった。驚きで心臓がめちゃくちゃな早鐘を打つ。

 次の瞬間、どん、という衝撃と共に、身体の中心に痛みが訪れた。インシオンの肘で手加減無く胸を打たれたのだ。息が上手く出し入れできなくなって、エン・レイは崩れ落ち、人型のくぼみを雪原に刻んだ。

「これでわかったろ」

 インシオンが呆れたような嘆息を洩らす。

「魔女と言っても所詮お前はこの程度だ。大人しく俺達の後ろにいろ。王都までは守ってやる」

 エン・レイからの返事は無い。ぴくりとも動かない。

「インシオン、いくらなんでもやりすぎです」

「あーあ、死んじゃったんじゃないの?」

 ソキウスが眉をひそめ、シャンメルがからかう。

「この程度で人間が死ぬか」

 インシオンはちっと舌打ちして、倒れたままのエン・レイに声をかけた。

「どうせ、動けないふりをして、俺が起こしに近づいた所へぶっつけようって魂胆なんだろ。見えすいた演技はやめろ」

 しかし。

「いいえ」

 心なしか愉快そうなエン・レイの声がした。

「近づく必要も無いんです」

 その口元に赤が光っている。インシオンがはっと身を引く前に、アルテアが紡がれた。

『雪よ、狙う先へ疾く駆けよ』

 途端、インシオンへ向けて蛇が素早く這うように雪が盛り上がったかと思うと、彼の足元で弾けて顔面を直撃した。完全な不意打ちにインシオンは見事にひっくり返り、この雪原二つ目の人型を刻んだ。

「ぶつけましたよ」

 身を起こしてエン・レイが満足げに笑う。インシオンは頭から雪をかぶった状態でしばしぽかんとしていた。初めて見る彼の醜態に吹き出しそうになったが、ぎんと睨まれて肩を縮こめる。

「……小賢しくはあるようだな」

 雪を払いながらインシオンが立ち上がり、忌々しげに吐き捨てた。さすがに悪ふざけが過ぎただろうか。エン・レイは雪の上に膝を揃えて正座し、訪れるだろう叱責を、肩をすくめて待つ。

 ところが。

「お前、『エン・レイ』ってすげえ呼びにくい」

 背を向けながらインシオンが淡々と告げた。

「『エレ』にしろ」

 彼はそのまま三つ編みを揺らしてすたすた歩き出す。どういう事だろうか。ぽけっとしていると。

「良かったじゃん」

 シャンメルがにこにこしながら近づいて来て、「あのね」と秘密を共有するかのように楽しげに囁いた。

「あの人が呼び名をつけるって事は、この隊の一員として認めたって事だよ」

 エン・レイは驚いて翠の目をみはってしまう。

「本当ですか」

「うん、本当」

 むずむずと胸の奥からせり上がって来るものがある。セァクを出てから今まで味わった事の無い、しかし不快ではない思いだ。

「嬉しい?」

 シャンメルに問われてエン・レイは自覚する。そうか、これは嬉しさなのだ、と。笑顔を浮かべて大きくうなずくと、シャンメルも邪気無く笑み返して手を差し出す。

「ようこそ、エレ」

 エン・レイ――いや、エレはその手をしっかりと握り返すのだった。

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