第4章 狙われた巫女姫(1)
セァクとイシャナ国境の街ハリティンは、両国の交易の要として栄えた都市である。大量の雪が屋根から落ちる危険性があるため低い建物しか建てられないレンハストと違い、二階建て三階建ての建造物は当たり前。地上だけでなく、街の傍を流れる大河ヴォミーシアの流れも商品の運搬に使うので、街中に水路が張り巡らされ、船頭が小舟を漕ぎながらゆったりと人と物を運んでいる。
その小舟のひとつに揺られながら、エレが物珍しそうに辺りを見回していると。
「きょろきょろするんじゃねえよ。田舎者だと思われるだろうが」
向かいに座るインシオンの嫌味が飛んできた。彼は舟の縁にふんぞり返るようにもたれかかり、狭いところへいつも通り足を投げ出している。
「まあ、良いではないですか、インシオン」
エレが赤くなって身を縮こめると、ソキウスが苦笑しながら援護をしてくれた。
「エレにとってはイシャナの全てが珍しいのですから。気持ちはわかります」
「あっれー?」
シャンメルがひやかすような笑みをこぼしながら小首を傾げる。
「ソキウスってば、いつの間にエレを呼び捨てするようになったのさ。なれなれしいー」
「一時的とはいえ、エレはもう我々の仲間です。親しくなるにはこう呼ぶのが自然でしょう」
ソキウスはさらりと受け流し、エレに柔らかい微笑みを向ける。
「エレは嫌ですか?」
「いいえ、構いません」
エレはふるふる首を横に振って、抱え込んだ膝に赤くなった顔をうずめた。
セァクでは皆が「エン・レイ様」「姫様」あるいは「巫女様」と呼んでいた。呼び捨てにされる、しかも愛称で呼ばれるのは新鮮な体験だ。胸のあたりがくすぐったくてしょうがない。
少しだけ顔を上げ、上目遣いでインシオンを見る。彼は部下達のじゃれあいなどどこ吹く風とばかりにそっぽを向いていた。心地よく吹きつける風が彼の髪を揺らしている。その黒髪は太陽の光を受けて蒼くすら輝いていた。
そういえば、『エレ』の名をつけてくれたものの、インシオン自身がエレを呼んでくれた事は無い。『おい』だの『お前』だのばかりだ。
彼が名前を呼んでくれたら、どういう風に呼んでくれるだろう。いつも通りそっけないだろうか。それとも少しは優しい声色になるだろうか。ぐるぐる思考を巡らせていると。
「……おい」
不機嫌そうな声に、エレはびくりと身をすくませた。
「言いたい事があるならはっきり言え。こそこそされるのは気に食わん」
「な、なんでもないです!」
慌ててまた下を向く。
優しさの欠片も無い。やっぱりこの人は死神だ。そう思いつつも、まだ心臓がお祭り騒ぎをしていて、頬も熱い。話しかけてくれた、それだけでこうも動揺するのは一体何故なのか。エレの中で答えが出ないまま、小舟は繁華街の一角に着いた。
舟を降りたインシオンは、入り組んだ道もお構い無しにすたすた歩き出す。シャンメルとリリム、ソキウスも当然のごとく後に従った。
置いて行かれないように小走りで後を追おうとした時、影のごとく静かに左後方に近づく気配があり、
「エン・レイ姫様」
耳元で囁かれた。
「私はヒョウ・カ皇王の遣いです。陛下からの言伝をお伝えにまいりました」
その台詞にエレはどきりとして足を止め、視線だけ左に向ける。セァクの旅衣装に身を包んだ遣いは「急ぎ、こちらへ」と脇道を指し示していた。
先を行くインシオン達の背中を見つめる。はぐれるのは良くない。一言断ってゆくべきだろうか。しかし、ヒョウ・カからの伝言という誘惑が、判断力を鈍らせた。エレはひとつうなずくと、遣いの男と共に脇道へ逸れた。
大都市ハリティンでもひとたび裏道に入ってしまえば表通りの喧噪は遠く、薄暗い道を歩くのは野良猫ばかり。その裏道を、皇王の遣いは早足に進む。
「あの、陛下の伝言というのは」
あまりにもインシオン達と離れてしまった事にいよいよ不安になって声をかけた時、建物の陰から伸びて来た腕が横様にエレの身体をすくい上げる。悲鳴をあげる間も無く、エレは突然現れた大柄な男の肩に担ぎ上げられていた。
「何をするんですか!?」
セァクの姫に対してあるまじき扱いを受け、エレは手足をばたつかせるが、男達が意に介する様子は無い。
「もたもたするな、気づかれる前に」
遣いを名乗った男が大男を鋭く叱咤する。大男もエレを担いだまま走り出した。それでエレはようやく、自分が知らない人間達に連れ去られかけている事を自覚した。
「離して」
頭ががんがん警鐘を鳴らす。混乱して言葉が上手く出てこない。足で大男を蹴るがびくともしない。
(誰か)
何て浅はかな事をしてしまったのだろう。後悔しても、きっと誰もエレを見つけてくれない。
(誰か気づいて)
泣きそうになりながら脳裏に思い浮かべたのは、三つ編みの黒髪を揺らす後ろ姿。そしてそれは幻などではなく、現実の姿としてエレの視界に飛び込んで来た。
しゅっと呼気ひとつ。大男の首に鋭い蹴りが炸裂し、屈強な身体が空気が抜けた風船のように倒れ込む。抱え込んでいた腕の力がゆるんだので、エレは無我夢中で腕をほどいて飛びすさった。
「くそっ、死神かよ!」
もう一人の男が舌打ちしながら腰の短剣を抜いた。
「俺を誰だか認識して刃向かってくるとは、いい度胸だ」
インシオンは赤の瞳を楽しげに細めながら、腰に帯びた剣を鞘から解き放つ。男が短剣を振りかざし、わめきながら突っ込んで来るのをひらりとかわすと、
「だが、実力の差ってのを知っておいた方が身の為だったな」
一閃で敵の短剣を弾き、剣の柄で相手の頭を打つ。ごつ、とかなり痛そうな音が響き、男が泡を吹きながら膝を折った。
一瞬で二人をのしてしまったインシオンの実力を目の当たりにし、エレがぽかんとしていると。
「おい」
インシオンが目の前に立って、威圧感たっぷりに見下ろしてきた。腹の底から怒っている。それがありありとわかる表情と声だった。
「お前はいつどこで狙われてるかわからねえんだ、ほいほい他人について行くんじゃねえよ」
「……すみません」
反論は見つからない。本当に自分が考え無しだった。しゅんとしてうつむき、顔を上げる事ができない。
「俺は馬鹿が嫌いだ、一度でわかれ。勝手にはぐれるな。万一不可抗力ではぐれたらその場から動くな。次にやったら」
切れ長の目が冷淡に細められる気配がする。
「足を斬り落とすぞ」
この人なら、脅しではなく本当にやりかねない。ぞわっと総毛立って、「は、はい!」と裏返った返事をする事しかできなかった。
「口約束だけにするなよ」
インシオンはふっと目をそらし、男達を縛り上げると、彼らがかぶっていたセァク式のフードを引き下ろす。顔を黒く塗りたくっているが、耳は尖っていない。明らかに即興でセァクを模したイシャナ人だとわかった。
「やっぱり、イシャナの中にも過激派がいる訳か」
インシオンが舌打ちする。そこへ。
「あ、エレー。無事で良かったじゃん」
軽やかに手を振るシャンメルを先頭に、リリムとソキウスもやって来る。後ろに白い鎧をまとったイシャナ兵が続いている。憲兵を連れてきたようだ。
エレが安心して脱力すると、きゅうとお腹が情けない音を立てた。インシオンが呆れきった様子で振り返る。
また怒られる。つかつか歩み寄って来るインシオンを前に、エレは肩を縮こませ、ぎゅっと目をつむったが。
「腹が減る余裕があるなら、これ以上心配する必要ねえな。この後飯にするからガンガン食え」
そう言われて、ぽすんと頭を軽く叩かれた。
エレは我が耳を疑った。『心配』と言ったのか、この人が。迷惑ばかりかけて、馬鹿だの足手まといだの罵倒していたのに、少しでも気を配ってくれたのだろうか。
彼の手が触れた部分がうずうずして、思わず両手でおさえる。連れ去られるかもという恐怖はもう去ったのに、心臓がまだどきどき言っていた。
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