第2章 暗転(1)
イシャナ王都イナトに来るのは、実に半年ぶりだった。とはいえ、前回は立て続けに事件が起こり、ゆっくりと観光などという状況ではなかったので、エレは実質初めて城下街を歩く事になる。
セァク皇都レンハストを遙かに上回る人口が暮らすイナトは、大通りの広さもそこを行き交う人の数も、規模が違う。各地から集った商人が露店を広げて様々な品物を売り、眺めながら歩くだけで飽きない。その中には、褐色の肌と尖った耳を持つ人間の姿も見受けられた。セァク人である。
半年前、セァクとイシャナの王が和平条約を結んだ。それにより両国の緊張が緩和され、故郷の人々がこうやってイシャナ首都にまで胸を張って出入りできるようになった事を、エレは嬉しく思う。同じように、レンハストでもイシャナの商人が商いを営んでいるだろうか。機会があれば見に行ってみたいものだ。
目抜き通りを抜け、王都の最奥にそびえる白亜の建物へ。イナト王城に辿り着いた遊撃隊一行は、門兵がインシオンの顔をみとめるだけでびしりと見事な敬礼をされ、丁重に城内へと通された。
「ここでお待ちください」
四人が通されたのは、上客をもてなす客室だった。毛足の長い鮮やかな緋色の絨毯に、硝子のテーブル、座れば身が沈むふかふかのソファ。素人目にも高価いとわかる見事な調度品がしつらえられている。壁には、大陸外から取り寄せたと思われる時を刻む装置と、イシャナ国内では捕まえる事ができないはずの鹿の首の剥製までもが飾られていた。
「いえーい、さっすがお城は違うね!」
シャンメルが歓声をあげてソファにダイブし、リリムはかちかち針の音を立てる時計を興味深そうに見つめている。エレはシャンメルのはす向かいに腰を下ろし、インシオンを視線で追った。
インシオンはソファにかける事もせず、窓際に寄りかかって外を見つめていた。吹き込む涼やかな風に黒髪がなびき、太陽の光で蒼くすら輝いて見える。目を細めるその姿はさながら憂国の王子のようで、エレは知らず知らずの内に心拍数を上げながら見入っていた。
(そういえば、本当に王子様なんですよね)
今回イナトに来たのは、彼の双子の兄であるレイ王に会う為だ。育ちが違うとはいえ今も連携して物事を行うので、兄弟仲が悪いという訳ではなさそうだが、一体顔を合わせたらどんな会話をするのか。エレには想像がつかず、だからこそ興味深い件でもあった。
やがて、部屋の扉がノックされて、衛兵が顔を見せる。
「お待たせしました、インシオン大尉、エン・レイ様。陛下がお呼びです」
「私もですか?」
てっきりインシオンだけがレイ王に会うものだと思っていたので、エレは思わずぽかんと口を開けて自身を指差してしまったが、衛兵は淡々と、
「陛下はエン・レイ様もご指名です」
と返すのだった。
「エレ、いいから来い」
窓際から身を離しながら、インシオンが言う。
「俺は何人いても構わん」
「えーっ、じゃあオレ達はー?」
「お二方には、お茶をご用意してあります」
おいてけぼりを食らって不服の声をあげるシャンメルだったが、衛兵のその言葉で目の色が変わった。メイドがカートを押して、香り良い茶と焼き立ての茶菓子一式を運んで来ると、待ち切れないとばかりに手を叩く。リリムがやや呆れ顔で向かいに座る。
「やった! これだからお城はいいよね!」
すっかりおやつを与えられた子供そのものになってしまったシャンメルを一瞥して、「行くぞ」とインシオンはエレの手を引いて歩き出した。
いきなり手を繋ぐ形になって、「あああの」とエレは顔を真っ赤にして慌てたのだが。
「何だよ、言いたい事があるなら言え」
「何でも、ありません……」
じとりと睨まれて、消え入りそうな語尾で返してうつむいてしまう。でも、折角手を握ってくれたのだ、今は離さないでいて欲しい。そう願いながらエレは廊下を歩いた。
「やあ、二人とも、久しぶりだね」
イシャナ国王レイは、初めて会った時と同じく、広葉樹に囲まれた中庭のあずまやで長椅子にかけて、インシオンとエレを出迎えた。前回と違うのは、周囲の葉がすっかり赤く色づいている事と、王の顔が少しやつれ、長椅子に、座るのではなく、クッションを敷き詰めて半ば寝そべるようにおさまっているのが気にかかる事か。
「お久しぶりです、陛下」
いつまで経ってもインシオンが黙りこくっているので、沈黙に耐えかねてエレが口を開いて頭を下げると、レイ王はゆるりと笑んで「まあ、座りたまえ」と向かいの椅子を示す。エレは一礼した後静かに座り、インシオンはどっかりと腰を下ろして、足をテーブルの上に投げ出した。
「用件は何だ」
メイドが紅茶を注いでいる間に、インシオンがぶっきらぼうに問いかける。いくら身内とはいえ、表向きは他人、しかも相手は一国の王だ。大した態度である。エレは内心冷汗をかいていたのだが。
「せっかちだね。王が臣下の顔を見るのに、絶対に用件が必要だというのかい?」
レイ王はやはりインシオンの兄だった。しれっと笑顔で返し、メイドが下がって、話が聞こえる範囲に三人以外がいなくなると、優雅に茶を一口すすってから、エレに視線を向ける。
「弟はいつもこんな調子かい? お守りはさぞかし大変だろう」
「い、いえ!」
エレは慌てて両手を横に振りながら答えた。
「私の方が、いつもインシオンには助けられています」
「ほら、こうしてエレに遠慮して物を言う事を強いている」
レイ王がからかうように笑うと、たちまちインシオンが渋面を作った。
「してねえよ」
「してるよ」
髪と瞳の色が違うだけの同じ顔が、片や不機嫌に、片や揶揄するような表情で言葉を交わす。
「お前の傍若無人ぶりは音に聞こえているからね。エレが橋渡しに骨を折っている事も、アーキから聞いているよ」
紅茶のカップに伸ばしかけていたエレの手が中途に止まった。『お前』? 『お前』呼びをしただろうか、今。レイ王が。天下のイシャナ王でも、弟相手ならこんなに砕けた物言いをするのか。驚きのあまり、唇も中途半端に開いたまま固まってしまう。
「それよりお前だ」
インシオンが話題を振り替えようとしたので、エレの硬直も解ける。改めてカップを取って口をつけると、葡萄のにおいづけをされた茶が甘酸っぱく香った。
「身体の具合はどうなんだよ」
「良くないね」
あまりにもあっさりと、レイ王は認めた。
「風邪をひいたら肺に響いて危険だと、侍医にも言われたよ」
外見から心配ではあったが、そんなに悪くなっているのか。エレはカップを置いて口を開く。
「気休めにしかならないかもしれませんが、私が回復のアルテアを使います」
持病や進行しすぎた病の前では、アルテアでさえ絶対的な効果を持ちえない。それでも、インシオンの身内の不調を放ってはおけない。本心からエレは言ったのだが、レイは片手を掲げてそれを遮った。
「エレ、今の君に言の葉の石は無い。君自身の身を削り血を流してアルテアを行使していると聞く。僕は他人に苦痛を与えてまで自分の安寧を得ようとは思わないよ」
自分自身も苦しいだろうに、他人を気遣える。これこそが、どんなに身体が弱くても、彼が王として立っていられる何よりの財産なのだ。懐の深さに感銘を受けて、エレは深々と頭を下げた。
「だが実際、そんな綺麗事を抜かしてる場合じゃねえだろ」
インシオンが眉根を寄せて紅茶に口をつける。エレも倣うようにカップを再び手に取った。
「本気で妻を娶って跡取りを残す事を考えねえと、後々お家騒動だぞ」
「ああ、その点に関してはあまり心配していない」
レイ王はあっけらかんと笑い、次の瞬間、とんでもない事を言い出した。
「その時は、お前がイシャナ王家に復籍してエレと結婚し、王になればいい」
がしょん、と。
エレとインシオンは同時にテーブルの上にカップを取り落とした。
「へへへへ陛下っ!?」
エレはすっとんきょうな声をあげ、椅子を蹴って立ち上がってしまった。インシオンは隣で目を点にして絶句している。
「ありえない話ではないだろう?」
平然としているのはレイ王ただ一人だ。何事かと近寄って来ようとした兵士に手を振って再び遠ざけ、口元を持ち上げる。
「僕が生きている内に、王の権限でインを王族の籍に戻しておけばいい。エレはセァクの姫だ。申し分も無い」
確かに彼の言う通りである。身分に関して他人がとやかく口を挟む余地が無くなる。しかも、以前エレとレイの間に持ち上がって結局破談になった、セァク皇族とイシャナ王族の婚姻による、両国の関係強化にも繋がる。欠点は無いのだ。恐らく王は、一度この話をエレ達にしておく為に、今回呼び出したのだろう。
しかし。
「それだけは絶対ねえ」
気を取り直したインシオンがカップを持ち直し、切って捨てた。
「王はお前だ。俺は部外者だ。先代がそう決めた。お前が跡継ぎを残さなかったら、プリムラがヒョウ・カ皇王と結婚してイシャナとセァクを統合させろ」
「それこそ難しい話だと思うけどな」
「イ、インシオンの言う通りです」
レイ王が苦笑するので、かぶせるようにエレも言葉を発して、再び腰を下ろした。
「私も今はインシオン遊撃隊の一員です。セァクの皇女ではありません。そのように扱ってください」
「残念だな」レイが本当に残念そうに肩をすくめた。「妙案だと思ったんだけど」
彼に申し訳無いと思いながらも、心の底がちりちりと焦げるような痛みを覚える。
『絶対ない』と言われた。王の衣装をまとって王冠を戴くインシオン。その隣に花嫁衣装に身を包んで立つ自分。その光景を夢想した事が無いといえば嘘になる。幻想だと思ってはいたが、実際インシオン自身から否定の言葉を下されると、胸が痛む。
「まあ、気が向いたら考えておいておくれよ」
レイ王が念を押して焼き菓子を口に含む。
「無い」
インシオンも頑なに返して紅茶を飲み干す。エレの中でまた、ちりっとした痛みが走った。
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