第1章 セァクの巫女姫は今(3)
宿に帰ってエレが最初にするのは、血の補充である。
首から提げていた小瓶の蓋を開けてテーブルの上に置くと、短剣を掌に滑らせる。滴り落ちる赤い流れが瓶を満たすまで、拳を握り締めて血を絞り出すのだ。
やがて小瓶が血で満たされると、唇に掌の血をつけ、小さく呟く。
『痛みを癒せ』
白い蝶がふわりとエレの手に宿ると、傷は跡形無く消えて、流血の痕を微塵も残さなかった。
アルテアの発動には、破神の血を持つ人間の血を唇につける事を条件のひとつとする。以前エレは『言の葉の石』と呼ばれる、血を凝縮した石を媒体としていたのだが、それは戦いの中で失われてしまった。
その代わりにエレ自身の血を媒介する事にしたのだが、発動の度に手を切ったり唇を噛み切ったりして傷つけるのは、『嫁入り前の娘がする事じゃねえだろ』とインシオンが呆れきった顔で言い放ったので、譲歩案として、数日に一度、血が凝固しない作りをしたこの小瓶に入るだけの血を注ぎ、それを使用制限とした。
今日はいつも以上に治療すべき人間が多くて、小瓶の中の血を使いきってしまった。だがこれだけ補充しておけば、またしばらくはもつだろう。
「……やめれば?」
憂鬱な雰囲気をまとった声をかけられて、小瓶の中で揺れる己の血を眺めていたエレは、そちらを振り返った。同室のリリムが、困ったような顔を向けている。
「あなたがアルテアで誰も彼もを癒してたら、きりが無いわよ。その内皆調子に乗って、もっと無茶な注文をつけて来るわ」
「でも、私にできるのはこれくらいですし。遊撃隊の役に立たないと」
「できなくなった時に、反動がひどいって言ってるの」
リリムは溜息をつきながら、湯気を立てるカップを差し出した。カモミールの甘い香りが、気持ちを落ち着かせてくれる。
「大体、あの言い方は無いわよ。自分達を助けてくれた相手を『魔女』呼ばわり。あなたに対するイシャナ人の見方がわかるわ」
エレはきょとんと目をみはる。そういえば、町長は『アルテアの魔女』と言っていたか。
セァクの皇女として生きていた頃は、『アルテアの巫女』として奉られていた。インシオン遊撃隊と旅をする内、エレを神聖視するのはセァクの人間だけで、半ば冷戦状態にあったイシャナの人々には『敵国の魔女』として恐れられていた事を知り、衝撃を受けたものだ。
しかし遊撃隊の一員として各地を巡る半年で、その感覚が麻痺してしまっていたらしい。慣れとは恐ろしいもので、「そういうものだ」と無意識に納得していたのである。
「私は大丈夫です。心配してくれてありがとうございます、リリム」
礼を言いながら茶を受け取ると、リリムは紫の瞳を驚きに見開いて、たちまち頬を赤く染める。
「べ、別にあなたを心配した訳じゃないわ。インシオンが不機嫌になるのが、あたし達も面倒なだけよ」
そっぽを向いてぼそぼそ洩らすその姿も見慣れた。はじめは無口でとっつきにくい少女だと思っていたが、人見知りなだけで、打ち解けてしまえば、ちょっと恥ずかしがり屋な年相応の娘だとわかる。
シャンメルも普段は好戦的で少々常識に欠けた部分が目につくものの、性根はまっすぐだ。インシオン遊撃隊の面々は、深く付き合ってみれば人の好さがわかるのだ。勿論、隊長のインシオン自身も。わかり合えないまま別れてしまった人もいるが、彼とも言葉を重ねれば歩み寄る事ができたのではないかと、エレは考えながら茶を口に含んだ。
甘い果実に似た芳香が鼻を通り抜け、爽やかな感覚が喉を滑り落ちる。戦いと治療で疲れ果てた身体に
サシェの町外れに古めかしい酒場がある。椅子やテーブルは使い込まれて疵が目立ち、客もまばらで、それぞれがちびちびと酒をなめて、互いに干渉する事は無い。
はずなのだが。
今夜は誰もがちらちらと視線を送る相手がカウンター席に一人座って、琥珀の液体が入ったグラスを揺らしていた。波打つ茶色の髪、整った顔の中でもたっぷりと紅を含ませふっくらとした唇が艶めかしい。太股を見せる大胆な服からのぞく脚はほっそりとしていて、男達の目を惹きつけずにはいられない。
こんな場末の酒場にこれだけの美女が何の用だろうか。客達の興味は、店の扉が開かれる時に鳴るベルの音で中断された。
黒装束に身を包んだ黒髪の男が入って来る。彼は迷う事無くまっすぐカウンターに向かうと、当然のごとく美女の隣に腰を下ろし、酒を注文した。
美男美女の組み合わせに、客達は「やっぱりな」という些か諦めのこもった苦笑を互いに交わして、めいめいの酒を楽しむ事に戻った。
「相変わらず調子に乗った変装しやがって」
注文したコーツ産の地酒が運ばれて来ると、黒髪の男――インシオンは軽く酒を含んだ後に、苦々しく呟いた。
「あら。これは変装の内に入りませんわ。お仕事用の格好ですもの」
女はころころ笑いながらつまみのナッツを細い指でつまみ上げて口に運び、前歯で噛む。
「で」
インシオンが半眼を崩さないまま女を見すえる。
「お前がわざわざ来るって事は何だ、アーキ。何かあったか」
「無ければわざわざ私が来たりしないでしょう」
アーキと呼ばれた女性は、インシオンが面倒くさそうに顔をしかめるのを見て、ことさらおかしそうに妖艶な笑みをひらめかせる。普段はイシャナ王妹付きの冴えない侍女を演じている彼女は、その実王家お抱えの凄腕の密偵であり、優秀な戦士でもある。まともに剣を交えたらきっと互角だろうとインシオンは思っている。その機会は今まで訪れた事が無いが。
「用件は何だ」
「相変わらず、女の扱いがなっておりません事」
むすっとした顔を崩さないままグラスを傾けるインシオンに向け、アーキはふふっと微笑み返す。
「その様子では、エレ様にもその調子と見ましたわ」
「用件を早く言え」
一段低くなったインシオンの声に、「あら恐い」と形ばかり肩をすくめてみせて、アーキはふっと笑みを消し、先を続けた。
「光の君直々のお達しです。一度イナトに帰還して登城せよと」
酒を口に含んでいたインシオンの表情が、更に苦々しいものに変わった。
「あいつの状態が悪いのか」
「それはご本人に直接お訊きくださいませ」
アーキは底の知れない笑みを返して、ナッツをひとつつまみ上げると、インシオンの唇に押し付ける。
「たまには、それみたいに、笑いましたら?」
口の両端を持ち上げるような形をしたナッツを押し当てられて一層不機嫌になるインシオンに冗言を投げかけると、アーキは髪を翻して席を立った。胸を張り腰を振る、男の気を惹く歩き方を意識して作ると、悠々と酒場を出てゆく。
それを見送ったインシオンに、店主が伝票を突きつけた。
「あんたのおごりだって、あの姉さんが言ってたよ」
インシオンはぎょっとして、伝票を奪い取るように手にして見る。大した額ではないものの、遊撃隊の懐具合を把握しての行動だろう。実にちゃっかりしているものだ。
「あの女」
呪詛のように呟きながら、彼は悔し紛れにナッツを噛み砕いたのだった。
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