第2章 燃ゆる南海の国(2)

 ざわり、と嫌な感覚がして、シュリアンは目を覚ました。いくらアルセイルは南国といえど、航路の都合もあり、秋深くなれば夜はそれなりに冷える。しかし覚醒したのは、寒さのせいではない。彼女は破神の血を継いでいる訳でもない凡人だが、幼い頃からアルセイルの王妃として生きて来た経験からか、虫の知らせのようなものがあった。

 暗がりの中、隣に視線を転じる。寝台は既に空だった。夫の方がいち早く異変を察して、シュリアンの眠りを妨げぬよう気を遣って出て行ったのだろう。

 手早く衣をまとって、シュリアンは寝台を降り、そっと部屋を出る。王宮内は異様なまでに静まり返っていた。いつも部屋の前にいるはずの不寝番の姿も見えない。

 ひたひたと裸足で歩くシュリアンの足音以外、音も無い。不気味な静けさにぶるりと身を震わせる視界を、何か光るものが横切った気がして、彼女はそちらを振り向き、そしてぎょっとして足を止めた。

 足元に降り立ったのは、虹色に光るいなごだった。

 似たようなものを、つい最近見た事がある。だが彼女の操るそれは、虹色の蝶だった。アルテアを使えないシュリアンでも見惚れるほどに、彼女の放つ言葉と蝶は美しく舞い躍り、人々を救った。だがこの蝗はどうだ。羽根を震わせ不気味ににじり寄って来る。美麗さの欠片も無く、じんわりとした不吉な予感が胸に訪れる。

 頭からかぶった薄布をしゅるりとほどき、手早くたたむと、蝗目がけて降り下ろしたのは、本能的な反射とも言える行動だった。薄布もたためばそれなりの威力になる。叩きつけられた蝗は黒い光の粒になって四散した。

 直後。

 廊下から見える夜空から、火の塊が幾つも幾つも雨になって降った。それは町の方角に落ち、轟音を響かせて、見渡す限りをあっという間に火の海へと変える。シュリアンは瞠目して窓際に駆け寄った。アルセイルが燃える。それはいつか床の中でアーヘルから聞いた、破神がアルセイルの過去文明を焼き尽くした地獄の日を思い起こさせた。

「……陛下」

 がくがく膝が震える。前王の時代から妃として気強くある事を自分に課して来たシュリアンだが、目の前で起こった突然の破壊に、心臓がばくばく言って、汗がだらだらと伝い落ちる。

「アーヘル!」

 夫の名を叫びながらシュリアンは駆けた。今は己が身を大事にして無理をせぬように、と医師に言われていたにも関わらず、走り出さずにはいられなかった。

 また火の玉が降り、今度は王宮の中庭に落ちた。至近距離で熱風が吹き荒れ、木々や壁が吹き飛んで来るのを、柱の陰に隠れてかわす。薄布がその手からさらわれて飛んで行った。ものの燃える煙に咳き込んだ時、急速に迫る殺意を感じ取って、シュリアンは咄嗟に身を屈めた。

 一瞬後、最前まで彼女の頭のあった位置を、ぶうんと黒い何かがかすめていった。ぼうっと突っ立っていたら、首と胴体が永遠に泣き別れていたに違いない一撃だ。つい最近に同じような何かを見た気がする、と短時間で思案して、結論に至る。

 果たして、身を起こし振り向いたシュリアンの予感は、当たっていた。翼持つ黒い獣、破獣カイダが炎にぎらぎら赤く照らし出されて、ゆらりとたたずんでいたのである。

 即座に懐に手をやり、守り刀を取り出す。アルセイルには存在しない植物の細かい装飾が施された短刀は、故郷から持って来る事を許された唯一の品だ。

『お前がこれを抜く日が来ない事を、願っているよ』

 父王は苦笑しながら六歳のシュリアンにこれを渡した。あれから十数年も経って、まさか化け物相手にこれを鞘から解放する事になるとは思わなかった。

 しかしシュリアンは大陸人のように戦い慣れてもいないし、エレのように特殊な力で破獣に立ち向かう術を持ってもいない。こんな短刀ひとつで破獣に勝とうとするなど、蟻が押し寄せる怒濤に立ち向かおうとするくらい無意味な挑戦であった。

 破獣の金色の眼球がぎょろりとシュリアンを捉え、ずらりと歯列の並んだ口が、にたりと笑みを作った気がする。とぐろを巻いた蛇の前に放り出されてしまった蛙の気分を味わって、短刀を構えつつも汗がとめどなく伝い落ちた時。

「――シュリアン!」

 自分の名を呼ぶ声と共に、透明な刃が炎の照り返しを受けて赤く輝き、破獣を一刀のもとに斬り捨てる。その声を聞いてひどく安心する自分がいて、シュリアンは今度こそその場にへたりこんでしまった。そのまま倒れそうになるのを、ぐいと腕を引いて留めてくれる手がある。

「大丈夫か」

 いつもは傲然としている黒い瞳が、心底から案じている、という色をたたえて見下ろしている。その顔を見て、エレがあの『死神』と呼ばれた青年に対して抱く想いはこういうものなのだろうな、と場違いな感想を持ってしまう。

「しっかりしろ」

 シュリアンの腕を引いて立たせながら、アーヘルは決然と言った。

「おれがそなたを守る。アルセイルもこのまま滅ぼさせはしない」

 アッシュブロンドの髪が炎に赤く照らし出され、黒の瞳は、突然訪れた崩壊を前にしても、まだ何も諦めていない強い意志を宿している。ああ、こんな姿だからついて行こうと思ったのだ。不謹慎にも口元がほころびかける。

 しかし。

「滅びるんだよ」

 新たな声が場に飛び込んで来たのは、その時だった。炎を背にしながら、悠然と歩み寄って来る、黒髪翠眼の少年。シュリアンは以前会わなかったが、アーヘルには見覚えがあるのだろう。険しく目を細める。

『アルセイルは、二度滅ぶ』

 王の眼力などどこ吹く風、といった体で、少年――カナタは両手を広げて陶酔したように宣言する。笑みを浮かべた口には、もうアルセイルに無いはずの、赤い石を含んでいる。

 少年の声に呼応するように、彼の手から虹色の蝗が生じた。蝗はあっという間に数を増やし、炎の空へと舞い上がる。それは次々と赤い火の塊に姿を変え、またも破滅の雨をアルセイルに降らせた。

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