第2章 燃ゆる南海の国(3)

「……何故だ」

 アーヘルが愕然と呟く理由を、シュリアンも知っている。今少年が使ったのは、間違い無くアルテアだ。この神のわざを行使するのは、破神の血を有する者のみ。一人が人為的に習得したが、彼女が死んだ今、アルテアの執行者は世界にただ一人、エレしかいない。しかもアルテアはヒノモトの「濁り無き言の葉」を用いなければ発動しないはずである。言葉が濁る事は禁忌として封じられている。その制約を、この少年は容易く破ってみせたというのか。

「鈍いなあ」

 面倒くさそうに頭をかきながら、少年が吐き捨てる。

「僕もあの人達の同類だからに決まってるでしょ?」

 あの人達の同類。それだけでシュリアン達は理解する。しかし、『神の力』の能力者は十四年前大陸に破神が降臨した時にその血を受けた者だけであって、イシャナが把握している以外にいないはずだ。

「エレをアルセイルに留めておいてくれればそれで良かったのに、大陸に帰しちゃうなんてさあ。ここに来て色々小細工したのが無駄になったよ。折角血をあげたレスナも好き勝手しちゃったし」

 だから。と唇がにたりと持ち上がる。

「消えちゃえよ」

 その言葉に応えるように、炎の中を突っ切って飛んで来る影がいつつ見えた。影はカナタの前に次々と降り立つ。それを見てシュリアンもアーヘルも息を呑んだ。

 破獣だった。破獣が少年の前に並んでいる。まるで彼につき従って守る兵隊のように。

 更に驚くべき事に、

「やっちゃいなよ」

 カナタの声にたしかに反応して、破獣は唾の糸を引く牙を見せてどこか嬉しそうに咆哮し、こちらへと飛びかかって来た。

「動くな」

 短刀をつかむ手を震わせるシュリアンを片腕で遮り、かばうように前へ出て、アーヘルが剣を握り直した。最初に襲いかかって来た一匹の首をはね、返す刀で右から迫った小柄な一体を空竹割り。動きを止める事無く振り返って、背後の敵の胴を薙いだ。

 アルセイル王の名は伊達ではない。たちまち五体の破獣は床に倒れ、黒い霧を巻き上げながら消滅した。

「大事無いか、シュリアン」

 肩で息をしながらもアーヘルがこちらを向き、気遣う言葉をかけてくれる。わななきながらもしっかりとうなずき返すと、少年王の口元がわずかにゆるんだ。

 だが。

 ぱん、ぱん、ぱん、と。やけにゆったりした拍手が二人の耳に届く。

「お見事」

 カナタが満面の笑顔で手を叩いていた。その笑みは本当に相手を褒めたたえる親愛あるものではない。いかにも馬鹿にした風情だ。

「王妃を守る為に、自国の民を斬りまくった王様! アルセイルにぴったりだね!」

 アーヘルの表情が凍りついた。シュリアンも硬直して、思考を止めかけた頭を叱咤し、少年の言葉の意味を必死に探る。

「どういう事だ」

「本当に鈍いなあ。王様ってもやっぱり子供?」

 黒い瞳で睨みつけるアーヘルの詰問に、がりがり頭をかきながら、さも大した事ではないかのように、カナタは驚くべき事実を口にした。

「今のは、アルセイルの人間を僕がアルテアで変えた破獣だっていうの。アルセイルには破神の血を持つ人間が多いからね。材料はごろごろ転がってて、選ぶまでもなかったよ」

 アルセイルの人間の多くが破獣になる素養を持っていた事は、先日、今は亡き第二王妃が引き起こした事件で証明されている。同じ事を目の前の少年が行ったというのか。しかも微塵の罪悪感も無く、アーヘルに自国民殺しの罪を背負わせたのだ。

 少年王はしばらく立ち尽くし、ぶるぶると全身を震わせていた。だが、すぐに己を取り戻すだけの精神力を、彼は持ち合わせていた。

「……おのれ!」

 激昂して剣を握り直すと、カナタ目がけて斬りかかる。胴を薙ぐ一撃が己に叩き込まれるのを、少年はにやにやとしながら見ていたのだが、ふっと笑みを消し翠眼に殺意を宿すと、腰の剣の柄に手をかけ素早く引き抜いた。

 きん、と鋼水晶がぶつかりあう甲高い音。瞬きすら許さぬ居合に跳ね飛ばされ床を滑ったのは、アーヘルの剣の方だった。

 武器を失った敵に少年は容赦しなかった。数日ぶりに獲物にありついた獰猛な獣のごとく嬉々として、透明な刃を振り下ろす。アーヘルの右肩から胸が袈裟懸けに斬り裂かれて、血の花がぱっと咲いた。信じられないという表情を顔に満たして、少年王ががくりと膝をつき、前のめりに倒れてゆく。あっという間に血溜まりが床へ広がってゆく。

「アーヘル! アーヘル!」

 シュリアンは半狂乱になりながら夫の元へ駆け寄り、必死に身体を揺さぶる。低い呻きが返って来るが、アーヘルはもう身を起こす事がかなわないようだ。

「わたくしを置いて逝かないで!」

 恐怖はべっとりと心に張りついているのに、こんな時にどうしてこんな口調しか出ないのだろうか。自分の気の強さを恨めしく思い唇を噛んだ時。

「……置いて、逝かないで」

 おうむ返しのように呆然と呟く声を聞いて、シュリアンは顔を上げた。たった今凶行に及んだ少年が、翠の瞳に涙をためて立ち尽くしている。その姿は無慈悲な殺人者ではなく、置いてけぼりを食らった孤独な子供のようだった。

「僕を置いて逝かないで、エレ」

 一筋の感情が頬を伝い落ちる。突然殺意をかき消して悲しみに沈む少年の言動が全く理解出来ず、シュリアンはその場にへたり込んだまま、唖然とその姿を見つめている事しかかなわない。

「置いて逝かないで」

 それまでの不敵さが嘘のように頼り無く身体を揺らしながら、カナタが背を向け炎の中をのろのろと立ち去ってゆく。今、手にした短刀で背中を突けば、シュリアンでも容易く生命を奪う事が可能な気がした。しかしいざ少年の後ろ姿を凝視すれば、血をかぶる覚悟が決まらず、手がかたかた震える。

 行くか、行くまいか。逡巡するシュリアンの手に、血濡れの手が重なった。

「よせ」

 黒の瞳が力無く見つめている。浅い呼吸を繰り返しながら、アーヘルが言葉を発した。

「そなたに、血に汚れて欲しく、ない。そんなのは、おれだけで、充分だ」

 己が彼岸を見ている時に、どうしてそんな風に言えるのか。普段の不遜な態度に隠された優しさに触れた胸が、締め付けられて苦しい。

「……生きて」

 自分の衣が汚れるのも構わずに、王妃は夫の手を取って頬に押し当てる。

「誇り高きアルセイル王が死ぬ事は許しません。国の為に生きてください」

 そう言ってから、いいえ、と首を横に振り、腹に手を添える。

「わたくしと、生まれ来るこの子の為に」

 アルセイルは千年前のように燃え落ちた。しかしそこに残る希望が全て奪われた訳ではない。

 生きる。その決意が失われない限り、蘇るだろう。力持つ言の葉が無くとも、人の意志がそれを成すだろう。

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