夏が過ぎたら(1)

 雨上がりの水のにおいを含んだ風を切り、栗毛の馬が一頭、翠の草原を駆けてゆく。その背で手綱を握る人物は、肩口までの赤銀の髪をなびかせ、燃えるような赤い瞳で前を見すえている。

 気合ひとつ。鋭い手綱さばきで馬は更に速度を上げる。イシャナのすらりとした馬や、セァクの小柄ながら力を秘めた馬とも違う、肉付きの良い屈強な馬は、乗り手の期待に応えて力強く地面を蹴り、襲歩ギャロップで駆ける。

 馬の背に乗る経験は、まだ物心ついたばかりの頃、英雄の前に座らせてもらったくらいしか無い。普段暮らしていては見られない視界の高さにきゃっきゃと両手を打って喜ぶ我が子を、『はしゃぎすぎて転げ落ちないでくださいね』と、同じ髪色の女性が心配顔で見ていたのを、よく覚えている。

 自分で手綱を握るようになったのは、この西方に来てからだ。しかし少女は、父親譲りの身体能力か、はたまた天性の才能か、初めて鞍にまたがったその時に易々と西の荒馬を乗りこなした。この馬との相性も合ったのかもしれない。

 人間の足では到底出せない速度で駆けると、まるで風そのものになったような感覚を得て、快い。口元にゆるい笑みすら浮かべて、少女――ミライは、本格的な夏間近の草原を駆け抜けた。


「お帰りなさい、ミライさん」

 厩舎に帰ると、耳慣れた声がミライを出迎えた。灰色の瞳が、呆れ半分といった様子でこちらを見つめている。

「そんなにその子がお気に入りですか?」

 責めるような声音ではないが、確実に皮肉が混じっている。

「……すみません」

 馬を引き、所定の場所に繋ぎながら、ミライは相手の顔を直視する事ができずにそっぽを向いていた。

「つい」

 自分以外の足で自分の思い通りに走る事が楽しくて楽しくて、ミライは暇を見つけては速駆けに出かけてしまう。この馬が借り物である事を知っていながら、風に溶ける快感を味わいたくて、何度も繰り返してしまうのだ。その度に、彼が厩舎前で腰に手を当てて待っているとわかっていても。

「……ごめんなさい」

「まだ何も言っていないでしょう」

 白い髪をかき上げて、青年がやはり呆れ気味の溜息を洩らした。

 わかっている。今、自分と目の前のこの青年、ソキウスの為すべき事は。西方に入り込み、相手に恩を売りこちらの弱みを握らせない事で、フェルム新生統一王国を優位に立たせ、泥沼の戦争の未来を繰り返さない事。その為には、軽々な行動は控えなくてはいけない。

 わかってはいるのだが、ミライはやはりまだ十六の娘だった。今まで重責に抑圧された人生を送って来た分、そこから解放されて自由を得た反動は大きかった。羽目を外してみたい悪戯心を抑えきる事ができないのだ。ソキウスが強く咎める事が無いのも、少しくらいなら良いか、と彼の優しさに甘えてしまう理由になっている。

「『すみません』とか『ごめんなさい』ばかり繰り返して、あなたはエレですか?」

「……すみません」

「本当にそっくりですよね」

 肩をすくめて縮こまると、ソキウスが眉間をおさえて唸った。

 以前はエレに似ていると言われると、劣等感を刺激されたものだ。希望の無い日々の中、己が身を張ってでも子供達を守ろうとしてくれた彼女はとても大きな存在で、自分は永遠に彼女に追いつく事などできないと思っていたからだ。

 しかし今、自身が成長してから見ると、彼女は思っていた以上に幼くて、意外と抜けている部分があるし、わりかし鈍感で、インシオンが隣に立ってつかまえておかないと、ふらっとどこかで迷子になってしまいそうな頼り無さを持っている。かつてより自分と歳が近いというのもあるが、子供の頃非常に大人びて見えていた年齢に近づくと、意外とそうでもない事を悟るのは、人生においてそうそう珍しい事ではないらしい。

 しかし頼り無く見えるからこそ、未来で何も助けられなかった分、この人は自分が守らねば、という思いが強くなる。もうすぐ生まれ来るはずの、もう一人の自分と弟が健やかに育つ世界を創りたい、という願いは常に胸にあった。

「ミライ殿は、その馬を大層気に入られたようだな」

 第三者の声が場に入って来た事で、ミライはびくりと肩を震わせ、ソキウスと共にそちらを向く。そして反射的に身を固くした。

 三十の齢を越えた筋肉質な背の高い男。茶色の髪を香油で後ろになでつけ、顎髭をたくわえている。長剣と短剣それぞれ一振りずつを腰に帯び、隙の無さが感じて取れる。ミライが目にした男本人とは違うし、将来そうなる確率は低いと言われても、過去に刻まれた記憶は、心の中におびえを宿して緊張させるに充分であった。

 ミライの知る未来で、騎馬帝国の頂点に君臨した皇帝ユーカートは、今この時代においては、西方に複数存在する騎馬民族の中でも有力な一派を率いる長である。まだ一勢力の主にしか過ぎないが、圧倒的な戦闘力と、冷静な交渉をする政治力をもって、いつかは西方をまとめ上げる存在になるだろう可能性を、存分に秘めている。

「ミライ殿の為に選んだ馬だ。気に入っていただけたら、イシャナやセァクにも広めてもらいたい」

「ありがとうございます。是非そのように」

 焼きつけられた心的外傷トラウマはなかなか消えない。おののきを押し込め、ミライは至極平静を保ってユーカートに頭を下げた。

「時に、ユーカート殿」

 真顔を保ったままソキウスがユーカートに訊ねる。

「長自らこちらまでいらっしゃるという事は、我々に何事かご用でしょうか」

 さすがインシオンの先手を取った事すらある男だ。どんな場面でもけろりとした顔で立ち振る舞うのは上手い。ユーカートは「いや、何」と腕組みしながらにっかりと白い歯を見せて笑った。

「イシャナの客人が来たのでな。折角のそなたらの同郷の志だ、交わしたい話もあるだろうと思い、呼びにまいった」

 ミライは思わずソキウスと顔を見合わせる。自分達以外に大陸東側の人間が来るとは珍しい。いや、西に来てから初めての事だ。一体どんな人物なのだろうか。しかし直後。

「俺は知らぬが、有名人か?」

 首をひねりながらユーカートが告げた名に、二人は驚きに目をみはる羽目になる。

「インシオン……古代語の『英雄』などという大仰な名前を持つ男であったぞ」


 インシオンの名前を騙らないでください。

 そう叫び出しそうになるのを、ミライはぐっと息ごと呑み込んでこらえた。

 ユーカートも同席した昼餐で、獣皮の敷物を敷いた床に車座になって座る中、ミライの左隣に座す男は、彼女達の知るインシオンではなかった。当然だ。彼は統一王国の軍人としての大事な務めがある。遊興で国を離れられる身ではない。それに彼はエレを守る為、使える限りの時間全てを費やして彼女の傍にいる。それほどまでに深く彼女を愛している人が、一人でふらふらと国を出る訳が無かった。

 インシオンを名乗る黒装束の男は、二十代後半に見えた。ソキウスと同じくらいか、もう少し年かさだろう。背が高く、整った目鼻立ちをしているが、インシオンやソキウスの方がずっといい男だとミライは思う。

「噂の『黒の死神』殿にお会いできて、光栄の至りですよ」

 西方の人間達も見ている手前、相手の目的がわからない内は、本物と知り合いである事を表に出さない方が良い。事前にそう示し合わせた通り、右隣のソキウスはしれっとした様子で言い放った。

「……はじめまして」

 不本意だと思いながら、ミライもおずおず頭を下げる。相手は金髪を揺らし、青い目を細めながらゆるりと笑った。

「そんなに恐縮しないでくれ。英雄の名など、イシャナを出てしまえば宙に浮いたあだ名のようなものだ」

 そうして山羊の乳から作った酒が注がれた杯を手に取り、鷹揚に仰ぐ。大した演技だ。本物でも同じ事を言いかねない。というかあの人は恐らく、

『「英雄」なんて肩書きはここじゃ腹の足しにもならねえよ』

 と、自分の事なのにばっさり切り捨ててしまいそうだ。

「しかし、英雄殿は何故西方へ? 統一王国での務めも多々ありますでしょうに」

 自らも乳酒を一口なめて、ソキウスがさりげなく水を向ける。相手の出方がわからない内は、口の達者な彼に任せておくのが良いだろうと判断して、ミライは黙ったまま、味噌を塗って豪快に焼いた鹿肉をのせた米飯が盛られた椀に手をつけた。ナイフとフォークではなく箸を使うのはセァクと同じだ。かつてエレ――自分を産んだ方のエレ――に教わった通りに箸を握り、肉にかぶりつく。味噌味のついた肉汁がじわっと口の中に広がり、その美味さに思わず状況を忘れて満足げに口元をゆるめてしまった。が。

「いや、何」

 インシオンを騙る男が喉の奥で洩らした笑いに、はっと現実に立ち返り表情を繕う。

「その務めの一環だ。陛下の意向でな。西方とも友好関係を築く為に一肌脱いでくれと頼み込まれて、断りきれなかった」

 よくもまあ見事になりきれたものだ。ヒョウ・カ王――ヒカがその役目を命じたのは、まさに今目の前にいる二人なのだと知ったら、一体この男はどういう反応を示すのか。いっそ暴露したい衝動がミライの胸中でむくりと頭をもたげたが、ソキウスがちらりとこちらを向き、苦笑ひとつで制した。彼もこの男の舌先三寸に辟易しているのだろう。偽インシオンにもユーカートにも気づかれない程度に、一瞬肩をすくめた。

「しかし、英雄と呼ばれるほどの男だ。さぞかし多くの武勇伝をお持ちだろう」

 ユーカートが酒を口に含み、にやりと髭面に笑みを満たす。

「是非、お聞かせ願いたいものだ」

「いやいや」

 ここでぼろが出るかと思ったが、偽インシオンは意外にも平然を保ってゆるゆると首を横に振った。

「西方一の猛者であるユーカート殿に比べたら、俺の武勇など誇れるものは何もありはせぬよ」

『いちいち語るのめんどくせえ』

 と吐き捨てる本物の幻聴が聞こえて来そうだ。ミライが知っているインシオンは、自分がこの世に生を受けてからの四年間と、ここ数ヶ月の間だけだが、身内の繋がりとでも言うべきか。こういう事を言われたら彼ならこう反応しそうだ、という想像は、簡単につくようになっていた。

「そんなに謙遜するほどの事でもないでしょう」

 明らかにこの話題をかわそうとしている偽インシオンに向け、ソキウスがわざと話を引き戻す。

「十五年前、アイドゥールに現れた破神タドミールを倒した英雄殿の話は、我ら王国の民にも広く知られています」

 ゆるやかな笑みを浮かべて、ソキウスは淡々と話を続ける。

「戦場では敵に情け容赦なく剣を振るって、『死神』などという異名を戴いているとか。しかし本物はとてもそうとは見えない美丈夫でいらっしゃる。これならセァクの姫君が心惹かれるのもうなずけますね」

 これにはユーカートが興味を示したようだ。愉快そうに笑って身を乗り出して来る。

「ほう、英雄殿には色恋話もついてくるのか」

「異国にさらわれたエン・レイ姫を、戦争状態に持ち込む事無くお助けしたそうです」

 食い付いてくる長にさらりと答えて、ソキウスは偽英雄に向き直る。

「ご結婚を目前に、仲むつまじい様子だと聞き及びました。まったく羨ましい限りですが、姫君は今回の西方訪問をよくお許しになりましたね? 寂しがられたでしょうに」

「あれはできた女だ。遠出ひとつにいちいち愚図ったりはしないさ」

 即座に返って来たもっともらしい答えに、思わず横を向いて嘆息してしまう。まあたしかにその通りなのだが、実際そんな事になったらエレは、

『……わかりました』

 と口では言いつつも、おいてけぼりの子犬のような顔をして、しゅんとうつむくだろう。ついでに言えば、インシオンはエレを「お前」とか「あいつ」とぞんざいに呼ぶ事はあっても、「あれ」などと物のような言い方をする事は、絶対に無い。決して彼女を見下しはしない。

 それにしても、だ。

 こもっている。ソキウスの言葉に嫉妬の音がこもっている。ミライはそれをひしひしと感じた。

 ソキウスは自分と行動を共にしてくれているが、本当は、イナトに残ってエレの傍にいたかったのではないだろうか、と思う事がある。

 彼の想いが誰に向いていたかは知っている。かつてミライがいた時代でも、彼はインシオンの参謀ではあったが、誰かと言うと特にエレの利になるよう動いていた気がする。今わの際に『神の手』で幼いミライにアルテアの力を与えてくれたのも、結局はエレの助けになるように、という意図だったのだろう。

 この時代でも、彼はエレとインシオンの気持ちがお互いに向き合っている事にいち早く気づいて、身を引いた感がある。

 エレは頼り無い部分もあるといえど、実の娘から見ても魅力的な女性だ。黙って座しているだけで可愛いし、言動の端々に姫君育ちの可憐さがあるし、こうと決めたら曲げない強い意志はまぶしく映る。それでいておぼつかない所があるのが、男性の『守らねば』という庇護欲を刺激するのだろう。父親似のきつい顔立ちをし、全部一人で抱え込もうと周りをつっぱねる青春時代を生きて来た自分には、到底真似できない。セイ・ギはよくこんな自分に好意を寄せてくれたものだ。

 相手は本物のインシオンではないのに、いやだからこそなのだろうか、こうしてありありと嫉妬心を向けるソキウスを見ていると、やはり今も彼の一番はエレなのだろうかと思ってしまう。自分と一緒にいてくれるのは、ヒカに頼まれた義務感からだろうか。ちくちくした針が心を刺して、ミライは痛みよ消えろとばかりにそっと胸に拳を当てる。

 しかし今は、そんな自分一人の感傷に振り回されている場合ではない。悠然と鹿肉を口に運ぶ偽英雄を見すえながら、密かに決意する。

 インシオンの名を彼の関知しない場所で汚させはしない。彼とエレの名誉の為にも、絶対にこの男の正体と、真の目的を暴いてみせる、と。

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