第4章 終焉を見た者(4)

「ミライ!」

 弾んだ声が自分を呼ぶのに気づいて、ミライは対照的に憂鬱そうな表情を顔に満たし、足を止め振り返った。紅の組紐でゆるく結った三つ編みが跳ねる。

『こうすると、イシャナに向かう時に出会った頃のインシオンと同じですね』

 結わせてやると想い人を思い出すらしく、エレはとても喜んだので、今でも髪を結ぶ時は三つ編みにする癖が残ってしまっている。

 廊下を駆けて来るのは、浅黒い肌に尖った耳介を持つヒノモトの民の青年だった。真っ白い上衣に身を包んでいるのは、彼が『研究』を行う人員である事を示している。

「セイ・ギ」

 つりがちの目を細めて名を呼ぶと、彼はミライに追いつき、「相変わらず君は歩くのが速いな」と、乱れた呼吸を整えた。研究室にこもってばかりの彼が貧弱なだけだと思う。

 カナタのアルテアで千年前のアルセイルに流れ着いたミライ達は、まずエレを海の見える丘に埋葬し、『大好きなアルテアの巫女エレ、ここに眠る』とカナタが墓標を刻んだ。

 そして、彼女が持っていた赤と緑の硝子製の腕輪ふたつを、カナタと共に、それぞれの瞳の色で分け合い、髪から解いた組紐はミライがもらった。カナタは『ずるい』と唇を尖らせたが、弟の髪は結う程の長さは無い。年季の入った組紐は、ミライの赤銀の髪におさまった。

 それから六年が過ぎた。

 丁度アルセイルは、ヒノモトから流れて来た人間と共に文明を発展させ、究極の生命体『竜』についての研究に着手した時期であった。

 ミライとカナタが千年後の破神タドミールによる世界の終焉を語ったところ、研究者達ははじめ、漂着した人間の夢見た妄想として笑い飛ばした。しかし。

『アルセイルを燃やしちゃってもいいんだよ』

 カナタが唇を噛み切ってにやりと笑いながらアルテアを紡ぐと、虹色の蝗が飛び出して、テーブルの上にちょこんと飛び乗り、赤く輝いて燃え始めた時には、さすがに彼らもぎょっとして早く火を消せと大騒ぎした。

『なあんだ、腰抜けばっかり?』

 カナタがつまらなそうにそっぽを向いてひらひら手を振ると、炎はすぐに消えたが、その場はしんと静まり返り、少なくともアルテアの存在を彼らに知らしめるには充分なデモンストレーションとなった。

 千年後の破滅を防ぐ為の、破神とアルテアの研究。その研究者の顔ぶれに、若きセイ・ギの姿があった。

 将来――ミライからすれば千年の過去だったが、今は逆だ――フェルム大陸に破神の血をばらまきセァク帝国の始祖となる人間はしかし、ミライの目から見れば全く頼り無い、ひょろひょろした弱気な青年であった。身体を動かすより書き物をしている方が似合っている。先日など、渡り廊下で書類を風に飛ばされおたおたしている所を、結局ミライが廊下の手すりを飛び越えて書類を追いかけ、一枚残らず拾ってやったのだ。

 小柄ながら軽やかに立ち回るミライに、セイ・ギがほのかな好意を寄せている事には気づいている。しかしこんなもやしなどミライの好みではない。

 それに彼は、突き詰めれば千年後のフェルムに大災害をもたらしたそもそもの始まりを作った人間という事になる。ミライはその未来を変える為、破神の誕生前にそれをアルセイルで止める為に、敢えて竜研究に手を貸す事を決めた。セイ・ギに情を移して道を踏み外す失態を犯す訳にはいかない。

 だからミライは腰に手を当て、赤の瞳を細めて、そっけなく言い放つのだ。

「研究は進んでいるの?」

 それを訊くと、セイ・ギの瞳にかげりが差し、彼はわずかにうつむいて、書類を握る手に力を込めた。それ以上を問い詰めずとも、また失敗したのだろうという事は、容易くわかる。

 ヒノモトでは、『竜』の試作品プロトタイプとも言える因子――媒介としては血――を研究対象に打ち込む事で竜への進化を目指していた。しかし所詮試作品。出来上がったのはミライ達の知る、理性を失った破獣カイダばかりであった。

 そこに自分の血を混ぜる事を提案したのはカナタだった。『神の血』とアルテアを持つ人間の血で、試作品と相殺し合って新たな効果を生み出せる可能性は、素人のカナタが言い出すまでも無く、研究者達も考えていた事であった。

 竜化の血と、元より破神の因子を持つ血を混ぜ合わせる。しかしその結果生まれたのは、より凶暴な破獣。破獣化しないで理性を保った人間も、周期的に破獣化の衝動に襲われる事になった。その際、他の被験者の血を与える事で、衝動を抑えられる事も証明されている。

 のたうち回る被験者を見ながら、エレもこうして苦しんでいたのだろうな、と今更ミライは理解した。彼女も月に一度ほど、ひどく青い顔をして、人前から姿を消す事があった。『神の血』の影響で破獣化の衝動が訪れるのだと教えてくれたのはリリムだ。そういう時は、破神の因子を持つ人間の血を採れば良いのに、インシオンと約束したからと、エレは馬鹿正直に誰の血も得ずに独りで苦痛に耐えていたのだとも。

 死んだ男との口約束など律儀に守らなくても、自分やカナタに血をくれと言えば良かったのに。特にカナタなら、エレの役に立てるならと喜んで血を差し出しただろうに。呆れつつも、エレはそういう誠実すぎる人だったのだろうと、認めずにはいられなかった。

「……ミライの」

 セイ・ギが言いにくそうに口を開いた事で、ミライの意識は現在に立ち返る。

「君の血ももらえたら、少しは変わるかもしれないんだけど」

 協力すると言いながら、ミライはまだ、研究に自分の血を一滴も供与していない。より強い『神の力』を持つカナタの血を与えた方が効果が見込める、というのが建前だったが、心の底では、自分の血を差し出す事に抵抗があるというのが、本音だった。

 自分はカナタほどの『神の力』を持っていない。血を与えて何の効果も得られず、弟に及ばない事を思い知らされるのが嫌だった。それ以上に、自分の血も混じる事で余計に破獣が狂う事になったら、その責任をひっかぶるのが嫌だった。

 世界を救う為に破神の誕生を止めると誓ったのに、実際にはミライはまだ何も行動に起こしていなかったのである。

 カナタの言動も気になった。弟は率先して研究に手を貸し、自分の血を提供して、アルテアを人の間に広める事さえ厭わない。ヒノモトの言語学者と共に、破神の血を得た人々にアルテアを教え、どういう言葉を紡げばどういう効果を得られるかを熱心に調べている。

 その中で、アルテアが濁り無きヒノモトの言葉でなければならない理由も少しずつ判明した。濁りある言葉でアルテアを行使すれば、必ず反動があるのだ。エレのように全身から血を噴き出して死んだ者。発狂して海に身を投げた者。今まで無かった破獣化が訪れて人間に戻れなくなった者。作用は様々であったが、いずれにしろ、ライ・ジュが課した制約を守らねば、死が大きな口を開けて使用者を待っているばかりだった。

 死んでゆく被験者を見る時のカナタは、冷静だった。いや、平然としていた、と言った方が妥当だろうか。失血死した被験者の返り血を浴びて白い上衣を真っ赤に染めた弟は、やけに嬉しそうに目を細めて笑っていたのである。

 それだけではない。研究以外の時でも彼は不自然に口を歪める事が多くなった。先日などは、研究室に迷い込んだ野鼠をつかんだかと思うと、手加減無くぐしゃりと握り潰し、恍惚とした表情で流れる血を見つめていて、周りの研究者達が思わず身を引いたものだ。

 もしかして、カナタも濁り無きアルテアを紡いだ代償を受けているのではないだろうか。そして今の弟の言動から察する限り、失われているものは、人としての。

「でも、見えて来たものもあるんだよ」

 努めて明るく話題を振ろうとするセイ・ギの声で、ミライは自分が再び思索に耽ろうとしていた事を知った。青年は書類の中から一束を選び抜き取ると、こちらに向けて差し出す。

「君達の言う、鋼水晶の効果がわかった。あれには破獣の身体構造を狂わせる情報が組み込まれている。大量生産できなくとも、幾つか武器を造り出しておけば、破獣が暴走した時の抑止力になるだろう」

 それに、と彼は嬉々として語を継ぐ。

「アルテアを紡ぐ為に、破神の因子を持つ人間の血を形にしておくというのは、順当な発想だね。それなら発動の度に使用者がいちいち流血する必要も無い。こちらは鋼水晶よりも生産がききそうだ」

 セイ・ギが差し出した書類を受け取り、とりあえずぺらぺらめくってみる。千年前のヒノモトの言語は、話し言葉は千年後とほぼ同じなのですぐに慣れたが、書き言葉は全然違う。六年間で必死に覚えたものの、正直まだ読めない部分も多い。なおかつセイ・ギのかなり癖のある字で、専門家にしかわからない用語や数式が羅列しているのだ。ミライが解読する事はかなわず、「そう。わかった」と平坦な返事をしながら書類を突き返すしか出来なかった。

 そっけない対応を取られて、セイ・ギは少しばかり落ち込んだようだった。困ったように眉間に皺を寄せつつも、

「最初の鋼水晶の武器は、君とカナタに合わせて造らせるよ。まずは君達が持っているのが、一番良いと思うから」

 と告げる。気を遣ってくれるのはありがたいが、ここで殊勝に礼を述べられるほど、ミライは人の厚意に甘えられるような人生を送って来てはいない。

 だから彼女はやはり、

「そう、わかった」

 と気の無い返事をするしか無かったのである。


 それから半月ほどした頃、ミライの元に一振りの剣が届いた。鞘に収まった刃を引き抜くと、透明な刀身が光を受けてきらりと輝く。小柄なミライに合わせて刃渡りも通常の長剣よりやや短めに造られた、破神殺しの剣だった。

「あの時にこれがあれば、あいつを殺してエレを助けられたのに」

 同じように自分専用の剣を授かったカナタは、翠眼に昏い炎を揺るがせ、表情を憎々しげに歪めて呟いた。「あの時」「あいつ」が何を示すかは、今も何かにつけてエレはエレがと語るカナタを見ていれば想像のつく事だった。

 綱の切れかけた吊り橋を渡るかのような危うい日々。それが遂に崩壊の音を立てたのは、セイ・ギが何者かに襲われたという報が入って来た時だった。

 人気の少ない夜の研究所で、破神の因子を打ち込まれた被験者を一人で見回っていた所を、背中から一太刀斬られたという。報せを受けたミライが、セイ・ギの運び込まれた部屋に飛び込んだ時には、彼は既に虫の息で、視線は虚ろだった。

「セイ・ギ!」

 傍らにとりついて名を呼ぶと、瞳が焦点を取り戻し、ゆるゆるとミライの方を向いて、嬉しそうに細められた。

 こんな状態なのに、自分に名を呼んでもらったからと喜ぶなんて。馬鹿か、と罵りたい怒りと、彼がいなくなったら研究が頓挫して破神を止めるという目的が果たせなくなってしまう、という打算をしている自分への嫌悪感。そして単純に、彼がいなくなってしまうという恐怖。様々な感情がないまぜになって、ミライの瞳は勝手に潤んだ。

 彼の喪失を止めるにはどうすれば良いか。ぐるぐる考えて、ミライはひとつの結論に辿り着いた。

 瞑目してエレの顔を思い出した後、深々と息を吐く。決意を固めた赤の瞳をまぶたの下からのぞかせると、ミライは破神殺しの剣を取り出して、自分の掌に刃を滑らせた。滴り落ちる血で自らの唇を濡らし、ミライはその言葉を紡ぎ出した。

『あなたの喪失を私は認めない』

 ぽう、と淡い光を発してミライの手から虹色の金糸雀カナリアが現れた。金糸雀はミライの手を離れ、くるくると周辺を舞った後、白く輝いてセイ・ギの身体に吸い込まれ消えた。拳を握り締め傷口を爪で深くえぐると、更に流れ出した血を、半開きのセイ・ギの口の上に運ぶ。一滴、二滴とミライの意志が零れ落ちる。セイ・ギは呆然としながらも、口の中に落ちて来たそれをごくりと嚥下した。

 ミライが初めて、アルテアを行使し、自分の血を誰かに与えた瞬間だった。


 そして、地獄が訪れた。

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