第4章 終焉を見た者(3)

 その頃には、大陸は騎馬帝国が版図の大勢を占め、各地にくすぶる反抗の火種を潰すばかりとなっていた。『神の血』を得た皇帝は自らを神と称し、己の意に沿わぬ人間を片端から捕らえては処刑した。その中に、公開処刑されなかった人間が混じっていたのは恐らく、彼らが破神の血を持っていた為だろう。

 皇帝は『神の力』を有する者にとって究極の存在――竜を目指して、アルテアを持つエレを追及する事を諦めていなかった。

『アルテアの魔女を捕らえた者には、帝国金貨十万』

 得られれば相当な間遊んで暮らせる破格の懸賞金がかけられ、帝国にエレを差し出して身の安寧をはかろうという浅はかな人間と、逆にいっそ自分達の手で破神を生み出して帝国に反旗を翻すべきだという過激派が加わり、エレ達の逃避行は更に困難な道程へと向かう。

 ライ・ジュのように北へ、北へ。吹雪に覆われたセァク山奥の道無き道を進む中、リリムが足を滑らせた。「あっ」と小さな悲鳴だけを残し、彼女は昏い谷底へ消えた。

 雪に閉ざされた視界で、子供達を抱えて途方に暮れるエレを助けたのは、山で猟を生業とする男だった。冬は猟を行わないが、時に人生に絶望して命を断とうと山に入り込む者がいる。そういった人間を探し出し思いとどまらせるのも、彼らの仕事だった。悲愴な様相を呈したエレ達は、心中しようとする母子に見えたのだろう。男はエレ達を山小屋に招き、暖炉の前に座らせて温かいスープとパンを出してくれた。

 しかし、金を管理していたのはリリム。謝礼になるような路銀もほとんど持たないエレ達を、冬が終わるまで山小屋に置いておく義理は無い。エレがそれをおずおずと告げると、男はエレをねっとりとした視線で頭から爪先までねめまわした。そして、子供達に話が聞こえない位置に彼女を連れて行ってなれなれしく肩に腕を回し、毛むくじゃらの髭で覆われた顔に薄ら笑いを浮かべながら何事かを耳打ちした。エレの表情が明らかに凍りついた後、何かを覚悟した様子で、彼女はゆっくりとうなずいた。

 その晩、子供達は温かい布団で眠る事ができたが、エレは傍にいなかった。次の日もその次の日も、男は甲斐甲斐しくエレ達に食事を与え何くれと世話を見たが、夜になるとエレは男と共に別室に姿を消し、朝が訪れるとよろよろと戻って来て、寝台に倒れ込み、日がな一日死んだように眠っていた。何の夢の合間を漂っているのか、涙を流しながらインシオンの名を呼び、「ごめんなさい」と繰り返す声が聞こえる事もあった。

 雪が融け春になっても、エレが山小屋を出て行こうと言い出す気配は無かった。その頃には、男はまるでエレの夫のように傲岸に振る舞い、スープをこぼした、暖炉に薪をくべる間が空いた、などちょっとした落ち度でミライやカナタを殴るようになった。打っても殴ってもたちどころに腫れの引く子供達を気味悪く思ったのだろう、暴力は日増しにひどくなった。

「エレはあいつに脅されてるんだ」

 ぐらぐらする歯まではすぐには治らなかったミライの頬に氷嚢を当てながら、カナタはぎらぎらした怒りを翠眼に宿して、憎々しげに呟いた。

「僕がエレを助ける。あんな奴、僕だってやっつけられるんだ」

 実行はある日突然だった。男がエレの存在を麓の帝国軍へ知らせに行こうとしたのだ。

「どうせ抱くなら、美味い酒を飲みながら若くて上等な女を買いたいってえのが、男の望みに決まってるだろ」

『アルテアの魔女』にかけられた懸賞金に完全に目がくらんだ男は、にたりと笑いながら山小屋を出て行こうとする。

 その背に、短剣を握ったカナタが躍りかかった。潰れた蛙のような声をあげて男が崩れ落ちる。短剣は過たず心臓を刺し、一息で男の命を奪っていた。

「もう大丈夫だよ、エレ」

 青ざめて唇を震わせるエレに向け、返り血を浴びて真っ赤に染まりながら、カナタはやたら無邪気に笑いかけた。

「これからは僕がエレとミライを守るから」


 カナタの誓いは果たされなかった。

 男を訪ねて来た猟師仲間が惨劇を目の当たりにし、麓の帝国軍の駐屯地へ知らせたのだ。帝国兵が押し寄せ、『アルテアの魔女』の存在は明るみに出、エレ達はとうとう帝国に捕らえられた。

 セイ・ギが破神となって飛び立ったというケリューンの山の頂へ連行される。そこでエレ達の前に現れた皇帝は、四十路ながらも屈強な体格を持つ大男であった。

「アルテアを使え。俺を神にしろ」

 ミライとカナタを人質として吊るし上げながら、皇帝はエレの喉元に鋼水晶の剣を突きつけた。その透明な刃は、ミライにも幼い頃に見覚えがあった。ほんのよちよち歩きの頃の記憶だが、黒の英雄が持っていたものと寸分違わない。

 愛した男の剣に命を脅かされながらも、エレは凛とした瞳で皇帝を見すえて、口を開いた。

「子供達の無事を保証してください」

 何故、自分が生命の危機に立たされている時に、自分ではなく他人の事を気遣えるのか。エレの気持ちがわからなくて、カナタがぎゃんぎゃんわめいている隣で、ミライは静かにぽろぽろと泣いた。

「良かろう。我が帝国臣民として丁重に扱おう」

 皇帝がにやりと口元をつり上げつつもうなずくのを確認すると、エレは子供達の方を向き、涙をためた目をふっと細めた。

「ごめんね、最後まで守れなくて」

 今生の別れとばかりに儚げな笑みを向けた後、彼女は翠の瞳に悲愴な決意をたたえて、唇を噛み切る。彼女が何をしようとしているか。直感で気づいたミライが「やめて」と叫ぶ前で、エレは口を開いた。

破神タドミール

 その一言でエレが身体をくの字に折った。

「貴様」皇帝がぎょっとした表情を見せる。「違うだろう、やめろ!」

 それでも彼女はアルテアを紡ぐ事をやめない。

『セイ・ギと同じ世界の支配者よ』

 まるでエレの周りだけかまいたちが起こっているかのように、彼女の白い肌が裂けて、赤い飛沫が舞い上がる。

「この、魔女が!!」

 皇帝が吼えて、破神殺しの剣を振りかぶり、エレに向けて振り下ろす。透明な刃が、彼女の心臓の位置を違える事無く貫く。それでも彼女の宣誓は止まらなかった。

『再びこの地より飛び立ちて、裁きの炎を』

 更なる流血がエレを襲った。髪から爪先まで全身を赤く染めて、エレがくずおれてゆく。彼女が血溜まりに沈んだ時、虹色の蝶が黒に変わって皇帝に吸い込まれたかと思うと、異変が起こった。顔をかきむしる手に鋭い爪がはえ、その身があっという間に巨大化し、六対の翼持つ黒い化物に変貌してゆく。

 破神。

 エレが制約を破って濁りある言葉で紡いだアルテアは、皇帝を破滅の使者へと変えていた。

 破神はずらりと牙の並んだ口から咆哮を迸らせると、地面を蹴ってゆっくりと飛び立った。金色の眼球は最早人を人と見なしてはおらぬようで、けたたましい笑いのような声をあげると同時、吐き出された炎の塊が雨となって地上に降り注ぎ、次々と帝国の兵を押し潰し、地面を焼いて、山頂を地獄絵図に変えた。

 自分がもたらした惨劇にはそれきり目もくれず、破神は悠然と翼を羽ばたかせ、世界へ向けて飛び立ってゆく。後には燃える地上と、無残に潰された帝国兵達の屍と、生き残ったミライとカナタ、そして倒れ伏すエレが残された。

「……エレ」

 炎の中、カナタがよろよろとエレの元へ近づく。ミライもがくがく震える足を叱咤して弟の後を追った。

 エレの瞳はもうこの世を映していなかった。口から大量の血を吐き、胸に破神殺しの剣を抱いたまま、全身から出血して、恐ろしいほどの赤に彩られていた。彼女は死んでようやく、愛する男の瞳の色に包まれたのだ。

 絶望に満ちた叫びが轟く。誰のものか気づくのにしばらく時間が必要だった。

「エレ! エレ!!」

 カナタが狂ったようにエレの名を呼びながら彼女にとりすがる。必死に揺さぶる。そうすれば、まだこの辺りを漂っているだろう彼女の魂をこの身に取り戻せるかのごとく。だが現実はそうではない。砕け散ってしまった命の欠片は、かき集めても手をすり抜けてゆくばかり。

 もう、何も戻らない。

 ああ、ああ、と、自分の口からは言葉にならぬ声しか出ない。カナタと向かい合うようにエレの傍に屈み込んで手を伸ばした時。

「……たい」

 エレの遺体に突っ伏していたカナタが、やたら低い声で言った。

『ここじゃないどこかへ行ってしまいたい』

 その唇に、エレの血がこびりついている。赤く染まった手から虹色の蝗(いなご)が飛び出し、きょときょとと辺りを見渡すと、紺色に輝いて弾け散る。

 その途端、ミライ達の身体は光の奔流に呑まれ、上下左右の感覚もわからないまま気を失った。


「……おい、大丈夫か、おい!」

 起こされるのを鬱陶しいと思った。もう自分達を放っておいて欲しいと、泣きながらミライは目覚めた。

 涙で歪む視界の中、まぶしいほどの太陽光が差して来る。日に焼けた小麦色の肌の男がこちらの顔を心配そうにのぞき込んでいた。

「大陸の人間か。海賊に襲われたのか?」

 男はよくわからない事を口にして、ミライの傍らに視線をやる。のろのろと横を向けば、もう動かないエレと、彼女の身体にすがりついたまま気を失っているカナタの姿が見えた。

「ここは、どこですか」

 からからに渇いた喉から必死に声を絞り出す。

「セァクのどの辺りですか。それともイシャナですか」

「セァク? イシャナ?」

 ミライの質問に、男は、本当にわからないとばかりに首を傾げた。

「知らんなあ。ここはアルセイルだよ。大陸の方にはそんな名前の国があるのかい?」

 おかしい。疑念がミライの胸に湧き上がる。アルセイルの話はエレから聞いていた。南海を漂流する、アルテアと破神の故郷。しかしアルセイルならば、大陸に存在する国の名を知らないはずが無い。

 まさか、そんな訳が無い。そう考えながらも、ミライの聡明な頭はひとつの確率を弾き出す。

「今は何年ですか」

「おかしな事を訊くなあ」

 まあ、おっかさんがそんなになっちまったら、混乱するのも無理無いか、とひとりごちた後、男はとある年数を口にした。それは大陸の暦に換算して。

(……千年前!?)

 ミライは、カナタがエレと同じ力を使って時空の壁すら超越した事を知った。

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