別れの秋
その部屋はすっかり片付けられていた。
代々のイシャナ王が政務に臨んだ執務室から、最後の使用者を偲ばせる私物はすっかり無くなり、数百年を経て本棚を満たした書物も、多くが持ち出されている。
もう誰も握る事の無い羽ペンが筆立てに差されている。少し埃をかぶった執務机を、細長い指が愛おしそうに撫でた。
茶髪をおだんごにまとめて白帽子に隠した、お仕着せを着た女性。
「陛下、今は穏やかに過ごされていますか?」
イシャナ王妹――今は統一王国王妃――プリムラの懐刀アーキは、長い睫毛を伏せがちにして、かつて仕えた人を呼んだ。
「レイ様」
初めて彼の顔を見たのは、花の香ただよう春の日だった。
イシャナの密偵を務めていた父に連れられ、中庭の端っこから、あずまやで茶を飲む少年の姿を見せられた。
「あの方が、お前が将来お守りする方だ。よく覚えておくんだぞ」
まだ何の力も無い幼い少女だった自分の目に、優雅に茶をすする金髪碧眼の王子は、高貴でまぶしい、手の届かない宝石のように輝いて見えた。そして同時に、どこか儚く感じる線の細さに、この人を守らねば、という使命感が湧いた。
王族は命を狙われる事さえあるという。どんな刺客が来ても対応できるように、父が課した厳しい訓練を、少女は必死に乗り越えた。そして父が任務先で落命した時、後継ぎとしてアーキが指名され、初めて王子と向かい合って言葉を交わす機会を得たのである。
「君が彼の娘か。なるほど、よく似ている」
風邪からの病み上がりだという王子は、軽い咳を繰り返しながら、ただの新米密偵に向けて頭を下げた。
「彼が命を落としたのは、我々王族の落ち度だ。本当にすまない」
たかが部下一人、しかもいつ命を失ってもおかしくないような密偵の喪失を、彼は詫びた。そんな事にまで気を払うのかと、驚きのあまり言葉を失っていると、こちらの思惑に気づいたらしく、王子は苦笑を浮かべた。
「そんな事を言われても、って顔をしているね」
そう言って、彼は再度頭を下げた。
「それでも僕は、彼の喪失を、残念だったねの一言で片づけられない。詫びさせてくれ」
身内を失う事に王子が敏感だった理由は、後にわかった。
アイドゥールの悲劇が起き、そこにいた彼の父が亡くなって、しばらく経った頃だった。王位を継いだ彼に呼び出されて、「君に守って欲しい人間がいる」と、碧の目を細めて告げられ、アイドゥールに現れた
「彼は僕の双子の弟だ」
だが、英雄と呼ばれるほどの実力を持つ人間だ。一介の戦士である自分が彼を守る必要などあるのだろうか。眉をひそめると、その反応も予想の範疇だったのだろう。王はゆるりと微笑んだ。
「表だって護衛をしてくれという意味ではない。僕はなかなか直接会えないから、連絡を取ってくれればいい。それに弟の周りには敵も多いだろう。そういった話を集めて、僕に知らせてくれ。邪魔だと思う輩がいれば」
為政者の鋭い光を瞳に宿し、彼はその言葉を低く音にした。
「君の一存で消してくれて構わない」
それだけでアーキは、この王がどれだけ身内を想っているかを察した。
王が、守って欲しいと言う相手を増やしたのは、それから数年後。
「妹の直属になってくれないか」
瓶底眼鏡をかけてメイドに扮した格好のアーキが、あずまやでお茶を出している時に、彼はまた唐突に言い出した。
「ですが、そういたしますと陛下の警護が……」
抜けた人間の演技をする事も忘れて、素で返してしまう。すると王は柔らかく微笑み、カップを手にして優雅に傾けた。
「僕も君が傍にいてくれると心強いんだけど、僕の知る中で最も信頼できる身内以外の人間が、君しかいないんだ。頼むよ」
たちまち頬が上気する。この人は素面で何という殺し文句を放つのか。そしてどうしていつも、他人ばかりを慮って、自身をかえりみないのか。
しかし、この人にそこまで言われて、嫌だと、あなたの傍を離れたくないと駄々をこねるほどの小娘である歳は、アーキはとうに超えていた。
「では、お約束を願います」
眼鏡を取り素顔を見せ、至極真面目な表情で、アーキは王の顔を見つめて口を開いた。
「私より信頼できる護衛を必ず置いてください。私が安心して陛下のお傍を離れられるように」
彼は碧の瞳を軽く見開いて一瞬返事を失ったようだった。が、すぐに取り繕うと、
「わかったよ。君とプリムラの為にも」
と、深くうなずいたのだった。
「ところで君はいつ結婚するんだい?」
この執務室で、彼にそう問われた事がある。
「同じお言葉を返させていただきます」
平然を装って紅を引いた唇をにっこり持ち上げ、まぜっ返す。
「それを突かれると痛い」
ペンでとんとんと机を叩きながら、彼は苦笑して頬杖をついた。そんな事をしたらあっという間にペン先が駄目になるだろう、という、今の話に全く関係無い考えが浮かぶ。
「これでも、僕が振り回したせいで、君が婚期を逃してしまったのではないかと、心配しているんだけどな」
「陛下のせいではございませんよ。その気になれば、相手など腐るほどおりますので」
あくまで笑顔を保って告げると、「たしかに」彼はふっと笑み崩れて肩をすくめた。
「陛下こそ、望めばどなたでも喜んで嫁いで来ますでしょうに」
「それなんだよ」
彼は困ったように嘆息して、一枚の書類をこちらに向けて差し出した。一介の密偵が見ても良いのか。無言で問いかけるとうなずき返されたので、受け取り視線を落とす。そしてその目を驚愕に見開いた。
「ダーレンやヘルベルトが勝手に進めていたらしい」
そこに書かれていたのは、王の婚姻の話。相手は、冷戦状態にある隣国セァクの王姉であった。
「……悪いお話ではないと思いますが」
しばらく言葉を失った後に、ようよう紡ぎ出したのは、そんな無難な台詞だった。
「僕に悪くなくても、相手に悪いかもしれない」
書類を返すと、手を伸ばして受け取りながら、碧の瞳が憂いに曇る。
「セァクのエン・レイ姫は十七歳だそうだ。年齢が釣り合わない。彼女に悪い」
「王族の結婚に、年齢はさほど関係無いと思います」
歴史をたどれば、跡継ぎをことごとく失った老王が、孫になりそうなほど歳の離れた女性を妃に娶った例もある。王は二十八だ。十一の差などさしたる問題にはならないだろう。
「祝福してくれるのかい?」
碧の瞳が試すように問いかける。
「私はイシャナの家臣です。主の幸福を祝わないいわれはありません」
笑顔を張り付けて返すと、彼は「そうか」と少しだけ寂しそうに微笑んだのだった。
ただの少女と少年の頃に本心を告げ合っていれば、また違う道があったのだろうか。しかしそれに気づいた時には二人ともとっくにいい大人で、本音でものを語る事など乳臭い、と笑われる歳になっていた。
「レイ様」
机の上に指を滑らせながら、アーキはまだ目の前の椅子に彼が座っているかのように語りかける。
「お別れですね」
そう、今日は統一王国の首都が正式に遷都される日であった。既に王族や家臣、多くの民がイナトを離れ、再建されたアイドゥールへと移って行った。旧王都は一地方となり、いつかはイシャナ一の都であった事も歴史に埋もれる。そしてこの執務室で過ごした王達の名さえ、忘れられてゆくに違いない。
だけど自分は忘れない。アーキはそう心に決めている。
弱い身体を抱えながらも強い意志をもって生きた、イシャナ最後の王の事を。
「レイ様」
机の上をたどっていた指が止まる。万感の思いを込めて、その一言を口にする。
「愛しておりました」
その言葉を別れの挨拶代わりにして、アーキは執務室を静かにあとにする。扉が閉まった部屋には、静寂だけが落ちている。
机の上には、埃の取り払われた跡が、人の心を表す形を示すように残されていた。
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