たしかな幸せ
ぱちん、と暖炉で火のはぜる音がする。
「……大丈夫ですか?」
ベッドで眠る双子を起こさないように小声で訊ね、包帯をほどき、血のにじんだ当て布をはがしながら、エレは不安たっぷりの若草色の瞳で夫の顔を見上げた。
「大した事ねえよ。大げさだな」
インシオンは半ば呆れた様子で苦笑する。すっぱりと切れた右腕の傷はきちんと縫合されていたが、まだ塞がりきっておらず、傍から見ても痛々しかった。傷口に薬を塗り、清潔な新しい当て布をして、包帯を巻き直す。
兵の訓練中、ある一組が些細なきっかけから諍いを起こし、片方が短剣を抜く事態が起きた。その場の教官を務めていたインシオンが咄嗟に止めに入って武器を兵の手から叩き落としたが、その際に刃が彼の腕をかすめたのだ。
まだぬかるんだ雪が残る訓練場の地面へぽたぽた流れ落ちる赤い血に、流血などほとんど見た事も無い若い兵達は騒然となり、抜刀した当の本人さえ、上官、しかも英雄を傷つけたという事実に震えあがって、真っ青になってしまった。
本来なら相当な懲罰ものであるが、当事者が猛省している事と、相手も挑発した自分が悪かったと認めた事、そしてインシオンが自分の監督不行き届きだと口添えした事で、兵は一晩の反省房行きで、それ以上の罰を受ける事は無かった。
しかしインシオンが受けた傷がそれで消える訳ではない。利き腕を斬りつけられるなど、戦場であったら命にかかわりかねない。
アルテアをまだ持っていたら。こういう時にエレはそう思ってしまう。
アルテアの力がまだ自分にあったら、こんな傷は一言紡ぐだけで跡形も無く消してしまえるのに。いやそもそも『神の血』があれば、こんな傷などアルテアを使うまでもなく消えてしまうのに。
「お前」
赤い瞳がじろりとエレを見下ろして来た。
「どうせ、今もアルテアが使えたらとか思ってるんだろ」
心の中を見透かされてびくりと身をすくめると、「わからいでか」インシオンが深々息をつく。
「お前の考えなんざ、一緒に暮らして来て、嫌ってほどわかるようになったぞ」
そして、「あのな」と彼の指が軽くこちらの額を小突いた。
「残ってないが、これ以上の怪我なんて、俺はさんざんして来たんだよ。今更騒ぐ事じゃねえ」
「……でも」
うつむき、唇をかみしめる。
わかっている。インシオンが怪我をして、心配している。その気持ち以上に、胸の中では、ひとつの鬱屈した感情が渦巻いているのだ。
「私、全然あなたを守れていません」
目を潤ませながらエレはその思いを吐露する。
『俺は一生命をかけてお前を守る。お前も一生俺を守れ』
アルテア式にそう求婚された。インシオンはその約束を遂行すべくいつでもエレや子供達を気にかけてくれている。それなのに、自分はインシオンに何も返せていない。守るどころか迷惑をかけ通しで、何一つ彼の役に立っていないのではないかという思いが、いつも胸中でくすぶっているのだ。
堪えようと思ってもかなわず、ぽろりと涙一粒零れ落ちる。するとインシオンが不機嫌そうに目を細めて、ことさら大きな溜息をついた。
「お前、やっぱりそんな風に思ってたか」
やたら低い声で言われて、案の定怒らせた、と更に身を縮こめると、大きな手が伸びて来て、エレを少々強引に逞しい胸へと抱き寄せた。
「いいか、この際だからはっきり言ってやる。お前は充分俺を守ってくれてる」
ここを、と、エレの頭を胸に押し付ける。
「お前がいなかったら、俺は独りで自暴自棄になって、とっくに死んでいた。守るべき家族があるから、俺は今も生きていられるし、何があっても生き延びてやるって思えるようになったんだ」
エレの耳に、確かな鼓動が伝わる。インシオンの心臓の音だ。力強く脈動するそれは、彼が生きているという証だ。
「前に言っただろ、お前は俺に生きる意味を与えてくれたと。お前が隣で笑っていてくれる事が、今の俺の支えなんだ。お前が傍にいてくれるなら、傷のひとつやふたつ、全然気にならねえよ」
あっという間にまつ毛が濡れる。底無しの嬉しさと身を切るような切なさとが心に迫る。もう巫女姫ではない、アルテアの魔女でもない、何もできない小娘の自分を、それでも求めてくれる人がここにいる。誰かに必要とされる事の幸せ、それがこれほどまでに胸を締めつけるのか。ぼろぼろ涙を流してしゃくりあげると、「ったく」呆れ声と共に、軽い口づけが額に落とされた。
「おい、これじゃ俺が泣かしてるみたいじゃねえか。どうすりゃお前は泣き止むんだよ?」
困り切った顔さえ愛おしい。こんな表情をこの人にさせる事ができるのも、この世で自分一人なのだ。優越感を覚えながら、エレは泣き笑いで夫の耳元に唇を寄せ、囁いた。
「……です」
要望を聞いたインシオンが、「あ?」とあっけにとられた表情を向けてくる。
「おまっ、お前……」
何かを言おうと口をぱくぱくさせて、やがて諦めたように彼は深々と息を吐いた。
「いっぺんに二人産んどいて、まだ足りねえのかよ」
「家族は多い方がにぎやかで良いでしょう?」
まだ濡れた瞳のまま笑みかけると、「……まあな」と彼も苦笑を返してくれる。
「俺達が家族に恵まれなかった分、子供達には寂しい思いをさせたくねえってのは、共通の認識だな」
頼りがいある腕が強く抱き締めてくれる。両腕を伸ばして抱擁を返すと、今度は深い口づけが唇に降って来た。
傷痕はもう消える事は無い。魂の傷は尚更だ。だがそれを薄める事はできる。お互いを想う気持ちがあれば。
その為に強くあろう。彼のように剣を振り回せなくても良い。かつてのように人知を超えた力を使えなくても良い。ただ、心を強くもって、彼の傍にいて、支え続けよう。
愛する人の腕の中で、エレはその思いを、たしかな幸せと共に感じたのだった。
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