想いを継ぐ者

 それは良く晴れた夏の、アイドゥールの昼下がりであった。

「あっ!」

 表通りから一等住宅地へ向かう坂道の上から降って来た、女性の慌て声に、坂の下を通りかかった、統一王国兵の制服を身にまとうセリは、黒髪を揺らしてはっと顔を上げた。白い制服とは対照的な褐色の肌に、尖った耳介は、国王と同じ生粋のセァク人である証拠だ。まだ幼さを残した顔は、十七という、少女と女性の間にある危うさを感じさせる。

 ごろごろと坂を転がり落ちて来る橙色の物体軍団が、青の瞳に映る。セリは咄嗟に地を蹴り、近づいた物から右手で素早く拾い上げて、左腕に抱えてゆく。南方産の新鮮そうなオレンジ十数個は、あっという間に無事彼女の腕の中に収まっていた。

「すみません。ありがとうございます」

 オレンジの襲来から遅れる事数十秒。坂を降りて来たのは、セリより五、六歳は年上だろうという、赤銀髪の女性だった。両腕に荷物を抱え、両脇にしっかりと母の服の裾を握り締める男女の幼児がいて、背中にはすやすや眠る赤ん坊をおぶっている。右腕に抱えた紙袋の底が破けており、そこからオレンジ達が脱走したのだろうという事は、容易にうかがえた。

「ごめんなさい、王国兵の方にご迷惑をおかけして」

 女性は左寄りに結った長い髪をさらりと揺らして深々と頭を下げる。「いえ」と答えながら、セリは腕の中のオレンジを女性に返すべきかしばし思案したが、この大荷物と子供達を抱えた女性の様子を見て、それはやめた方が良いな、という結論に至った。

「お家はどこですか? お持ちいたします」

「そんな。お手数をおかけする訳には」

「大丈夫ですよ」

 案の定、申し出に女性は戸惑った表情を見せたものの、セリは柔らかい笑みを向ける。

 今は城下の見回り中だが、ここ最近は平和なもので、喧嘩もひったくりも発生していない。少しくらいなら、規定の道程ルートを外れて城下の民の荷物運びを手伝っても、上司には叱られないだろう。むしろアイドゥールの民の王国兵への評価、ひいては国王への評価をわずかだが確実に高める良いきっかけ作りになるのだ。

 破れた紙袋の代わりにと、懐から大判の緋色の風呂敷を取り出して、そこにオレンジを放り込むと袋状になるように上を縛る。今は亡き兄から教えてもらったやり方だ。その手早さを目の当たりにして、女性の両脇の子供達が興味深そうに、男の子は翠、女の子は赤の瞳を真ん丸くした。

 いや、興味を示したのは子供達だけではなかった。

「それはセァク伝統の、風呂敷から巾着を作る方法ですね」

 女性が懐かしそうに目を細めながら、ふっと微笑む。

「ご存じなのですか」

 一等地に住んでいるようなイシャナ人がセァクの慣習を知っている事を不思議に思って、訊ねると、女性は翠の視線をどこか遠くに馳せて、ぽつりと洩らした。

「私も、セァクに住んでいましたから。十年ですが」

 途端、セリの周囲から全ての音が遠ざかる。目の前の女性が、金色の蝶の刺繍が施された赤い衣をまとう少女に変わる。

『セリ、あの方がエン・レイ姫だよ』

 優しく言い聞かせるように囁く、男性にしては少し高めの声が、耳元に触れた。

「……あの?」

 不安げな呼びかけに、セリの意識ははっと現実に立ち返った。目の前の女性――元セァク王姉エン・レイ姫――が、心配そうに小首を傾げている。

「どこかお加減でも悪いのですか。よろしかったら、うちで休んで行かれます?」

「い、いえ」

 動揺を押し隠し、恐らく目に見えて青ざめているだろう顔を伏せがちにして、セリはゆるゆると首を横に振る。

「大丈夫です。少し、暑かったので」

「たしかに、陽射しが強いですよね」

 エン・レイがまぶしそうに目をすがめて空を仰ぐ。暦の上ではまだ夏の始まりだが、降り注ぐ太陽の光はもう、鋭さを帯びて来ている。

「行きましょう」

 セリはエン・レイを促して、坂を上り始めた。


「セリ、あの方がエン・レイ姫だよ」

 あれはセリが六歳の時の祖神祭だ。

 舞踊隊と鼓笛隊の後ろから山車に乗って現れ、濁り無き言の葉で虹色の蝶から炎を生み出して、破獣カイダに扮する舞い手を駆逐した、『アルテアの巫女』。五人きょうだいの長兄キリヤは、沿道でセリを肩車して、赤衣の姫君を示し興奮気味に語った。

「エン・レイ様はすごい。病気や怪我で苦しんでいる人々を、あの蝶でたちどころに治してくださる、とてもお優しい方なんだ」

 破獣を退ける攻撃的なアルテアからは想像がつかず、眉間に皺を寄せて首を傾げる妹に、キリヤは「まだセリには難しいかな」と苦笑を向けたものだ。

「俺は大きくなったら、セァクの兵士になる。エン・レイ様をお守りするんだ」

 その言葉通り、兄は数年後セァク軍に入り、優秀な兵士になった。

 そうして、エン・レイ姫の輿入れを警護する戦力として旅立つ事になったのである。

「すぐ戻るよ」

 出発の前日、キリヤはセリの頭をぽんぽんと軽く叩きながら、ゆるりと笑った。

「イシャナ側の要望で、俺達は国境のハリティンまでしか姫様をお守りできない。悔しいが、セァクとイシャナの均衡を保つ為には、言う事を聞かなくちゃあならないからな」

 だが、兄は戻って来なかった。ハリティンに向かう途上で、祖神祭の舞い手などではない、本物の破獣に襲われて、命を落としたという。伝聞なのは、そこで死したセァク兵の家族の元には遺体が戻らず、ヒョウ・カ王の遣いからの報告しか行われなかったからだ。

 兄は死んだ。それなのにエン・レイ姫は生き延びてイシャナ王都に辿り着き、その後いかなる経緯を経たかセリには把握しきれない結果、イシャナの英雄インシオンの妻となった。


 そのエン・レイは今、三人の子供を抱え、長い髪を揺らしてセリの前を歩いている。セリの事を、善良な王国の一兵士と信用しきっているのか、あまりにも無防備な背中だ。今、セリが腰に帯びた剣を鞘から解き放って赤子ごと一突きすれば、簡単に命を奪う事ができるだろう。

 何故、そんな風に幸せな光景を見せつける。黒い想いがセリの胸の内で渦巻いている。兄はあなたを守ると言った末に死んだのに、何故あなたは兄の事など忘れたようにのうのうと生きているのか。ぐっと歯を噛み締め、オレンジの入った袋を握る手に力を込めた時。

「恨んでいますか?」

 背を向けたままエン・レイがぽつりと洩らしたので、セリはどきりとして足を止めた。姫も立ち止まり、つっとこちらを振り返る。先程まで、綿毛のごとくぽやんぽやんしていたのが幻かのごとく、凛とした顔つきをしていて、両脇の子供達が、母親の雰囲気の変貌に戸惑い、不安げに見上げている。

「私もまがりなりにも戦場いくさばを経験して来ました。声以外の気配からでも、相手の心の動きを察する事はある程度できます」

 伊達に王国最強の戦士『黒の死神』の妻ではないという事か。翠の光が心の奥底まで見通しているようで、セリの背中を汗が一筋流れ落ちた。

「イシャナ人のくせにセァクの姫になった裏切り者とイシャナの人々には言われ、セァクの姫だったくせにイシャナの男に寄り添った女とセァクの民に罵られた事も知っています」

「……どうして」

『アルテアの魔女』は、イシャナとセァク、両方に良い顔をしようとした蝙蝠姫。一部の人間から彼女がそんな悪評を与えられている事を、セリは知っている。それを目の前のこの女性は、全て承知の上なのだ。

 世の中の評価など知りません、といった穏便な顔の下で、全てを受け入れ、それでも、世間知らずな元王姉を装って、素知らぬふりをして生きているのだ。

 何故、それだけの誹りを受けても、そんな風に笑っていられるのか。

「それでも、私は笑っていなくてはならないと思うのです」

 セリの心の内を見透かすかのごとく、エン・レイ姫は淡く微笑む。

「私が救えなくて亡くなった方々は大勢います。私の為に命を散らした彼らの分まで生きて、彼らを覚えている事が、アルテアを失った今の私にできる、精一杯の弔いになると思ったのです。私はそうして生き続けます」

 ああ、と溜息をつくセリの手から力が抜けて、オレンジの入った袋がずり落ちそうになり、咄嗟に握り直した。

『アルテアの魔女』

 巫女姫の行いを目にした事の無い人々は彼女をそう呼んでいた。人ならざる力を手にしている少女への畏れもあっただろう。だが今、こうして一人の人間として向かい合った時、彼女は底知れぬ慈悲を心に抱えていて、それを殊更誇示する事無く生きているのだと、たまたま出会っただけなのに憎しみの欠片をぶつけてしまったセリに教えてくれた。

 これこそ彼女が『アルテアの巫女』と呼ばれる所以なのだろう。きっと彼女は兄の事を覚えている。破獣に襲われたという混乱に消えた大勢の護衛の中の一人で、名前など知らないかもしれない。だがきっと彼女は、セリがキリヤの名を出せば、悼み、セリを気遣う言葉をかけてくれるだろう。

 だが、それをしてはいけない気がした。彼女の優しさに甘えて、謝罪を無理矢理引きずり出すような真似をしてはならない。兄の死を今更突きつけてはいけない。兄もそんな事を望まないだろう。彼が恋い焦がれた巫女姫に対して、そんな行為は。

 だからセリは、きゅっと唇を噛みしめ、深々と頭を下げる。

「ご無礼を、お許しください」

「許すも何も。どうか顔を上げてください」

 戸惑い気味の声が聞こえたので、言われるままにこうべを上げれば、エン・レイ姫は困り果てたような微苦笑を浮かべてこちらを見つめていた。

「私は、大勢の人に守られ、彼らの善意に支えられて、今、こうして幸せに暮らしています。こちらから謝る事があったとしても、誰かに謝られるような人生は、送っていません」

 大人達の話を理解できないのか、幼子達がきょとんとした顔で、母とセリを交互に見やっている。そんな我が子達を慈愛に満ちた笑みで見下ろして、エン・レイは再び歩き出した。セリも袋を持ち直して後を追う。

 やがて一行は、青い芝がのびのびと生えた広い庭を持つ、白い二階建ての家の前に辿り着いた。

「ありがとうございました」

 玄関まで来た所で、エン・レイ姫が振り返り、深々とお辞儀をする。見よう見まねで子供達も「ありっとーした!」と舌っ足らずな口で一生懸命礼を発してちょこんと頭を下げる。セリは無言でひとつ会釈をすると、オレンジの詰まった袋を差し出した。

「洗濯してお返しいたしますね」

 笑顔で袋を受け取りながら、エン・レイが言う。

「いえ」

 セリは静かに首を横に振った。

「どうかそのままお使いください。姫様なら、セァク式の使い方もできますでしょうから」

 エン・レイが何か口を開きかけたが、言葉が紡ぎ出されるのを待たずに、「では、これで」と再度頭を垂れて、セリは踵を返す。呼び止めようと思い迷う視線を背中に感じながら、セリは早足でその場を去った。

 礼も謝罪も言いたくなかったし、言われたくなかった。兄が守ろうと命をかけた人が今、幸せになって笑っている。その現実は、兄の死が無駄でなかったと思い知るには充分で、しかし、兄を失った時の悲しみを思い出させるにも充分で、じんわりと浮いてきた涙を、制服の袖が濡れるのも構わずにごしごしと拭い去った。

 夏の日差しが降り注いでいる。目をすがめ太陽光を浴びながら、セリは思い出す。

『セリ、お前も大きくなったら、この人の為に生きたい、という相手を見つけるんだぞ』

 無事セァクの正規兵になった兄がそう言って頭を撫でてくれたのも、夏の始まりだった。

 忘れかけていた、忘れてはいけない事だった。ただ兄の後追いで王国兵になって、そんな大事な事さえ頭から抜け落ちていた。

 見つけよう、自分も。この人を守る為に誇りある王国兵としていられる、そんな誰かを。

 兄の想いを継いで。

 もう、胸にわだかまる闇は無い。微かな笑みさえ浮かべながら、セリは軽い足取りで坂道を歩いてゆくのだった。

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