第5章 不信と信頼と(2)

 日が傾く頃、エレはよろよろと宿に戻って来た。

 予告通り、インシオンの本気の剣は容赦無かった。さすがに身体を打ちのめされる事は無かったが、さんざん走り回らされ翻弄されて、全身が悲鳴をあげている。アルテアを紡げばこの痛みも一瞬で吹き飛ぶのだが。

『アルテアで痛みを消すなよ』

 先回りしたインシオンにそう釘を刺された。

『痛みは筋肉が生成されている証だ。それを消しちまったら鍛える意味が無い。苦労しないで成長する道なんかねえからな』

 正論を言われてはエレも反駁する余地が無い。少し悔しい気もするが、素直に従う事にした。

 手すりをつかみ、年寄りのように屈んで少しずつ階段を昇っていると。

「あっはは! こてんぱんにやられたねー、エレ!」

 軽い声と共に勢い良く背中をはたかれ、エレは潰れた蛙のような情けない声を出してうずくまってしまった。

「はっはー、ごめんごめん」

 涙目で振り返ると、言葉とは裏腹に全く悪びれた様子の無いシャンメルが片手を挙げてみせる。

「はい、お詫び」

 腕を取って立たせてくれたので、素直に肩を借りる。完全にシャンメルに寄りかかる形で、エレは再び階段を昇り始めた。

「懐かしいなー」

 エレに歩調を合わせて足を上げながら、シャンメルがどこか遠くを見る目つきで呟く。

「オレもインシオンに拾われた頃、立てなくなるまでバッキバキにしごかれたよ」

「拾、われた?」

 その言い方にひっかかりを覚えてエレが不思議そうにまばたきをすると、「うん」とシャンメルは軽快に笑い、そしてその笑みからは信じられないような事を語り出した。

「オレ、遊撃隊に入る前はすんごい傲慢な金持ちに買われた玩具おもちゃでさー。遊び半分に殴られたり切られたり。ああ、焼けた鉄を背中に押し付けられた事もあったっけ」

 あまりにもけろりと酷な話をし、「見る? 背中」などとまで言って来る。エレは首肯も拒否も忘れて、呆然と洩らした。

「ひどい……」

 セァクにも奴隷制はある。しかし主が奴隷に対して無闇に危害を加えることは禁じられていて、己の嗜虐心を満たす為に奴隷へ暴行を加えたり殺したりした者は、報いに指を切り落とされる罰があった。

「そんなの上辺だけだよ」

 だがその話をすると、シャンメルはすっと目を細めた。今まで見た事の無い、怒りの感情を抱いた暗い眼力だった。

「一歩、上の目が届かない場所に行っちゃえば、誰も彼も好き放題。エレにはわかんないだろうけどね」

 最後に付け加えた一言に、冷たく突き放された気がした。これが本当のシャンメルなのだろうか。今まで縮めた距離を一気に引き離されたようで、返す言葉を失ってしまう。しかし。

「なーんてね。怒った?」

 彼はあっけらかんと笑ってこちらの顔をのぞき込んで来た。

「い、いえ!」

 おろおろしながら返すと少年はにっこりと歯を見せる。一体どれが本当の彼なのだろうか。見当がつかなくなる。

「でもね、インシオンは違ったんだ」

 エレの困惑をよそに、シャンメルの話は続いた。

「あの人はオレの事、対等な一人として見てくれた。金持ちをボコボコにして、オレの事、一人の人間として扱ってくれた」

『一人前にしてやる。だから死ぬ気でついて来い』

 真剣を投げ渡しながら、インシオンはそう告げたという。

「それで、名無しだったオレに名前をつけてくれた」

『シャンメル』は生まれた時からの名ではないのか。エレが目で疑問を投げかけると、シャンメルは深くうなずいた。

「言ったでしょ、インシオンは認めた相手に名前をくれるって。オレもリリムも、インシオンからもらった名前なんだ」

 ソキウスとアリーチェはいつの間にかいたからわかんないけど。そう付け足す。

「だから」

 シャンメルは毅然と前を向いて言い放った。

「オレは、あの人を脅かそうとする奴は全部消す。それがオレのあの人への恩返しだ」

 青灰色の瞳は、ここにはいない不可視の敵を鋭く見すえているようだ。瞳の奥に青い激情の炎がたぎっている。

 そこまで話した所で、二人はエレの部屋の前に着いた。

「じゃ、お大事にねー」

 すっかり軽妙な調子に戻ったシャンメルがひらひら手を振りながら立ち去る。その背中を見送るエレの中では困惑が生じていた。

 シャンメルはインシオンに恩義を感じている。つかみどころの無い彼だが、あの話や表情が嘘だったとは思えない。

 そうなると、残りは。

 二、三度、ドアノブに手をかけるのを躊躇った後、思い切って扉を開く。

「……何?」

 入口でしばらく立ち尽くしていたエレに、そっけない声がかけられる。短弓の弦を張り直していたリリムが胡乱げな目線を向けた。

「すみません、何でもないです」

「そう」

 即座に首を横に振れば、リリムは興味無さそうに返し、再び手元に視線を戻す。それを見つめるエレの胸は、まさかの予感に激しく脈打っていた。

 この子なのだろうか。

 冷汗が背中を伝うのを感じながら、よたよたと椅子にへたり込むように座って下を向き、ひとつ、深い息をつく。

「……はい」

 傍らのテーブルにことりと何かを置く音がして、エレは視線を上げた。カップに注がれた、柑橘系の香りがする茶が湯気を立てている。

「そろそろ帰って来ると思ったから、淹れておいたわ」

 少女の顔は相変わらず無表情で、感情が読めない。

 リリムは薬草ハーブに精通している。無論毒も心得ているだろう。もしこの子が犯人だとしたら、と頭の中で闇色の渦巻きが描かれる。

「いらないなら下げるわよ。どうせ皆あまり喜んで飲んでくれないし」

 リリムが一瞬寂しそうな顔をして、カップを引き下げようとする。その寂寥感は演技とは思えない。

「いただきます」

 エレは反射的に手を伸ばして、リリムの指が触れる直前のカップを奪った。「あっ」とリリムがわずかに驚きを見せる前で、そのままぐっとあおる。途端、淹れたての熱と薬草の刺激が喉を突いて、思わずむせこんでしまった。

「……熱くて苦いから気をつけなさいって、言おうと思ったのに」

 リリムが呆れた様子で呟き、それからふっと口元をゆるめる。歳相応の可愛らしい控えめな笑みだった。

「あなたでも、そういうそそっかしい所があるのね」

 初めて見る少女らしい表情に、エレがぽかんとしてしまうと、明るさは立ち消え「なに」と気だるげな視線が向けられる。

「リリムは笑った方が可愛いですよ」

 途端、リリムの頬が真っ赤に染まった。釣り上げられた魚のようにぱくぱくと口を開閉し、

「よ、余計なお世話よ」

 と、背を向けてしまう。

 エレは初々しい反応を微笑ましく思い、そして考える。こんなうぶな態度を見せる子が、誰かを憎んだり陥れたりしようとするだろうか。それともこれも相手を油断させる為の演技の一環なのか。

 薬草茶ハーブティーはゆっくりと疲れを癒していってくれたが、まだ疑念の澱みを流し去ってくれた訳ではなかった。

「ごちそうさまです」

 茶を飲みきってカップを置く。両手を合わせて頭を下げると、リリムがそそくさとそれを片づけながらそっけなく言った。

「落ち着いたなら、お風呂に入って来たら? ひどい格好してるわよ」

 言われてがばりと鏡に取り付く。服はよれよれで土埃まみれ、髪もインシオンにもらった組紐がほどけかけてばさばさだ。疲れきった顔がその姿を呆れた様子で見つめている。

「……行ってきます」

 顔を真っ赤にしてか細い声で答え、エレは宿の風呂へ向かう事にした。風呂場は一階だ。シャンメルに手伝ってもらって昇った階段を、今度は一人で手すりにすがりつきながらじりじり降りる。

 ようやく風呂場の前までたどり着き、引き戸をがらりと開ける。途端、赤の瞳と真正面から視線がかち合った。

 数秒、事態をはかりかねてお互いに固まってしまう。

 視線を上から下へ下ろす。遅ればせながら驚きがこみ上げて来て、

「きゃあああああ!!」

 エレは宿中に響くのではないかという黄色い悲鳴をほとばしらせた。

 風呂場には先客がいた。インシオンである。腰にタオルを巻いていたとはいえ、彼の裸を上から下までばっちり見つめてしまったのだ。

「ごめんなさいーっ!!」

 甲高い声をあげながら勢い良く戸を閉め、そこに背を預けてずるずるとへたりこむ。

 男性の裸を見るなど初めてだ。ゆゆしき事態だ。セァクの姫に、というか未婚の女性にあるまじき大失態だ。顔がゆでだこのように真っ赤になり、全身が心臓になったのではないかという程にどくどく脈打って熱い。

 服を着ていてはわからないが、なかなかに筋肉質な、鍛え上げられ日に焼けた身体だった。なのに歴戦の戦士にありがちな傷がひとつも無い綺麗な肌だった。

(って、何を考えてるの、私ー!?)

 己の思考を恥じて更に動悸が激しくなる。真っ赤になった顔を手で覆ってぶんぶん頭を振っていると。

「おい」

 戸が開いて、そこに寄っかかっていたエレは両手で顔を覆ったままごろんとあおのけに転がった。

「……ったく、何してんだ、お前は」

 インシオンの呆れ声が降って来る。指の隙間から垣間見れば、彼は既に服をまとってエレを見下ろしていた。まとめていない生乾きの髪がなまめかしさを帯びて、彼が美形である事を一層引き立てている。

「戸に札が引っかかってただろ。ちゃんと見ろってんだ」

 言われてのろのろ起き上がり戸を見る。彼の言う通り、男性の入浴中を示す札がぶら下がっていた。

「すすすすみません本当に本当に!」

「そこまで恐縮するな。こっちが恥ずかしくなる」

 振り子人形のように何度も頭を下げると、大きな手でがしがしと頭を撫でられた。

「まあ、お姫さんには刺激が強かったか?」

 にやりと笑ってそんな事を言われたので、エレは再度真っ赤になる。

「もう、からかわないでください!」

 拳を振り上げてインシオンの胸をぽかぽか叩く。が、鍛えられた胸筋にはちっともこたえていないようだ。

「まあ俺はのぞかねえからゆっくり入れ。札は忘れるなよ」

 けらけら笑いながらインシオンが立ち去る。その背を見送るエレの鼓動はまだ速まっていた。

 何故ここまで動揺するのだろう。それを考える。

 不意打ちだったのだ、誰だって驚く。これで相手がシャンメルやソキウスだって、同じ反応をしただろう。

 そう、ただそれだけだ。それ以上の何でもない。

 インシオンの顔を思い出すと、心の奥にぼんやりと灯った明かりがある。だがエレはそれに気づかないふりをした。

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