第5章 不信と信頼と(3)
翌朝、インシオン遊撃隊一行はユニアスの大通りを歩いていた。
イシャナ王都へはもうすぐだ。エレを狙う刺客をかわす為にも、隊商の護衛で得た金で馬車を手に入れ一気に駆けるのが良いだろうという判断をインシオンが下し、皆もそれに同意したので、宿を出て馬屋を目指した。
きょろきょろ周囲を見回しながらインシオンの後ろを歩いていたエレは、ふっと視界に入ったものに目を奪われた。
道端で呉座を敷いた上にあぐらをかいて三弦琴を奏でている詩人。彼の肌は褐色で耳は尖っている。久々に見るセァクの人間だ。朗々と謳い上げられるは、始祖ライ・ジュの人生を讃える物語。セァクの人間なら子守唄代わりに必ず耳にする一曲である。
思わぬ場所で故郷を懐古させてくれる人物に出会えた喜びに、エレは我知らず口元をゆるめながら通り過ぎた。
が、数秒後。
「おい、てめえ」
後方からどやす声が聞こえて来て、エレはばっと振り返る。数人のイシャナの男達が、セァクの詩人を取り囲んでいた。
「てめえ、どういう了見でここでセァクの歌なんか謳ってるんだ?」
「わ、私はきちんと許可を取って」
「薄汚ねえセァクの物語をイシャナでさえずるんじゃねえよ」
男達はへらへら笑いながら、一人が詩人に蹴りを叩き込んだ。鳩尾を突かれて詩人がうめき声をあげながら崩れ落ちる。
周囲の人間は誰も介入しない。びくびくしながら遠巻きに見ているばかりだ。何故誰も助けないのか。エレの中で苛立ちが湧き起こった。
「……おい?」
インシオンが気づいて制止するのは一瞬遅れた。既にエレは踵を返し肩をいからせて、男達のもとへ向かって行ったのだ。
「やめてください!」
詩人をかばうように両手を広げて男達の前に立ちはだかる。途端に幾つもの訝しげな視線が向けられた。
「ああん、なんだ、お前は?」
「イシャナ人のくせに、セァク人をかばうのかあ?」
「イシャナもセァクも関係無いではありませんか。何故この方をこんな目に遭わせるのです」
エレは本心からそう言ったのだが、きょとんと顔を見合わせた男達から次に返って来たのは、爆笑だった。
「お前、本気でそんな事言ってるのかァ!?」
おかしくて仕方ないといった調子で、男の一人がずいと顔を近づけて来る。
「セァクはイシャナを乗っ取ろうとする悪魔の国だぞ? そんな連中がこの国でのさばってるのを、俺達イシャナは許す訳にいかねえだろうが」
「そうそう、ゴミはイシャナから排除しねえと。こんな風に、なッ!」
男の一人が突然短剣を抜いて詩人から三弦琴を奪い、切りつける。弦はぷつんとあっけなく切れ、楽器にも疵がついた。
「あ、ああああ!」
愕然とするエレの前でセァクの詩人が絶望に満ちた顔をして嘆く。それを男達はげらげら笑いながら見ていた。
「返してください!」
エレが三弦琴を取り戻そうとつかみかかると、「うるせえ女だなあ」男は面倒くさそうに舌打ちした後、
「なら返してやる、よっ!」
と、三弦琴をエレの顔目がけて叩きつける。頬に鋭い痛みが走り、傷口から流れ落ちた血が唇の端に触れた。
エレは目を丸くして地面に落ちた三弦琴を見つめていた。だが次第に、ふつふつと腹の底から湧き上がって来る激情がある。そしてそれが鎌首をもたげて襲いかかるのを抑えられるほど、彼女は冷静ではなかった。
無意識に血をなめ、言の葉の石を握る。ぎんと男達を睨んで発した言葉は、自然にアルテアを紡いでいた。
『あなた達は、報いを受けなさい!』
虹色の蝶が紫に輝いて、投げられたナイフのように鋭く男達に向かって飛ぶ。直後。
「ぎゃああああ!!」
男達の悲鳴が通りに響いた。ある者は腕を切られ、ある者は目をやられ、またある者は足から血を噴き出して、一瞬で全員が道に這いつくばっていた。
エレはその様子をひどく冷めた目で見下ろしていたのだが。
「……アルテア?」
セァクの詩人が呆然と呟く声が耳に届いた。
「もしや、エン・レイ様なのですか?」
それを聞いた瞬間、場の空気が一気に冷え込んだ。無関係を決め込んでいた観衆の態度が明らかに警戒へと変わる。
「アルテア?」「エン・レイだと?」「まさか……『アルテアの魔女』?」「魔女が何故こんな所に」
戸惑いのざわめきはやがて、恐怖にとらわれた敵意に変貌してゆく。
「こんな事をして。あたし達を皆殺しに来たんじゃないの」
「そうだ。あの蝶で俺達を殺す気だ」
エレを取り巻く気配が鋭さを帯びた。人々がそこいらにあった木の棒や石を手に近づいて来る。その誰もが、おびえと殺意に満ちた目をしていた。
「魔女」「悪魔」「いなくなれ」
口々に罵りの声があがる。魔女は死ね、と。
「魔女はいなくなれ!」
誰かが叫んだのをきっかけに、わっと人々が襲いかかって来る。悪意が投石の形をとって、がつんとエレの額を打つ。鈍痛に頭がくらくらしたところへ、木の棒が振り下ろされる。エレは両目をぎゅっと閉じ、衝撃を覚悟した。
ごつ、と鈍い音がする。
だが、自身の身体に痛みが訪れなかった事を訝しみ、エレは目を開ける。そして驚愕した。
「……ってぇな……」
視界に三つ編みの黒髪が映る。インシオンが片腕で棒を受け止めていた。
彼が振り返る。その赤い瞳はいつにない怒りを包括してこちらを射抜いた。思わず言葉を失って息を呑んだ瞬間、エレの身体はふわりと宙に浮いた。
エレを横様に抱えたインシオンが、群衆を肩で押し分けて走り出す。彼らはしばらく呆然としていたが、誰かが叫んで後を追って来る。振り切るようにインシオンは全力で走り、脇道に入って追手を撒いた。
野良猫一匹いない裏道でインシオンはようやくエレを下ろしたのだが、エレを壁際に追いつめ、どんと壁に手をつく。
「この、馬鹿たれが!!」
物凄い剣幕で怒鳴りつけられ、エレはひくっと喉を鳴らした。
「人前でアルテアは使うなって、あれほど言っただろうが!」
「ご、ごめんな、さ……!」
無意識のうちにじんわりと瞳が濡れる。かたかた震えながら謝罪すると、インシオンは深い溜息をつき、壁についていた手でエレの頬に触れた。
「……ったく、嫁入り前の女が傷ばっかり作りやがって」
呆れた様子で呟くインシオンの顔が近い。あまりの至近距離にエレがどきどきしていると、インシオンの顔が更に近づき、湿った舌が頬の血を拭った。
「あ、あの、インシオン!?」
いくら何でもこれはやりすぎではないだろうか。戸惑うエレの頬に触れる舌の感触が、突然、ざらりとしたものに変わると同時、「恐い」と感じて、反射的にインシオンを突き飛ばす。それから、相手の姿をまじまじと見て、エレは完全に固まってしまった。
ゆらりと立ってこちらを見つめるインシオンの表情が違った。いつもの険を帯びた不敵な面持ちではない。どこか恍惚とすらした、まるで酔っているような、得体の知れない不気味さがある。
左右に大きく身体を揺らしながらインシオンが歩み寄って来る。笑うように開いたその口からのぞいた歯がのこぎりみたいに鋭く尖っていた。
一体どういう事か。突然の変貌に硬直してしまったエレの目の前で、インシオンの頬に拳が入り、彼の身体は吹っ飛んだ。
「――馬鹿!」
唖然として拳の主を見やる。シャンメルだった。いつもの飄々とした態度はどこへやら、焦り切った様子でインシオンに怒鳴りつける。
「あんたが傷つけたら駄目じゃんか! あんたが……!」
言葉は途中で途切れ、ひきつれた呻きに変わった。
何もかもが理解できない。頭の中を幾つもの星が明滅して回っているようだ。
現実に追いつかない思考は、光と共にぷっつりと途絶えた。エレの気絶という形を取って。
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