3 破獣(カイダ)再び

 ツァラは元セァクの一地方である。旧セァク領の中でも南西の方に位置し、かつての皇都レンハストのように深い雪に悩まされる事が無いので、羊を放牧して、乳を採ったり仔を増やしたり毛を刈って、それらを売る事で財を得、その地の草を食い尽くす前に居を転々とする、遊牧民的な暮らし方をしている。その為、定位置の街というものが存在せず、幾つかの氏族が身を寄せ合って集落を作り、助け合いながら生活を営んでいた。

 破獣カイダの目撃情報があったのは、その中でも南方の比較的温暖な地域であった。とはいえ、騎士服の上に厚手のコートを羽織って革の手袋をしていなければ、あっという間に凍えてしまう寒さだが。

 王都から馬を走らせて、二日。破獣らしき怪物に大事な羊をやられた氏族の集落近くへと、二人のカナタは辿り着いた。

「遠路はるばる、お疲れさまでした」

 ツァラ地方に点在する駐屯地のひとつに向かうと、駐屯軍の隊長はびしりと丁寧な敬礼をしてきたので、こちらも馬上から礼を返す。

 彼の部下に馬と上着を預け、天幕の一つへ案内される。卓に着くと、炒った豆を砕いて湯を注ぎ布で漉した黒い液体に、羊の乳を加えた飲み物が出された。寒気の中ずっと馬を走らせてきたので、すっかり身は凍えている。湯気を立てるカップを手に取り口に含めば、炒り豆のほろ苦さと乳の甘さが絶妙に混じり合って、えも言われぬ美味が口の中に広がり、冷えた身体を温めてくれた。

「被害はどれくらい?」

「最初に襲撃を受けたのは、十日前の夕刻。五頭がやられました」

 人心地ついて大きいカナタが訊ねると、隊長は苦々しい表情をして答える。最初、という言葉に反応して青年が太い眉を跳ね上げたのに気付いたのだろう、相手は首をすくめた。

「五日前の夜に二度目の襲撃がありました。その時は三頭を食われたところで、部下達が剣を持って対抗しようとしたのですが、敵は自在に空を飛び回り、翻弄されるばかりだったそうで」

 つまり、手も足も出なかった訳か。

「恥じる必要は無いよ。普通の人間に相手が務まるような敵じゃない」

 申し訳なさそうに委縮する隊長に、大きいカナタは、彼にしては珍しく穏やかな言葉をかける。

「むしろ無闇に相手をして死者が出なかっただけ、幸運だったと思うべきだ」

 そして青年は、出された飲み物をぐいっとあおって、大きく息をつくと、隊長を見すえる。

「破獣は、積極的に場所を移動する奴と、ひとつどころに留まる奴がいる。今回の破獣は後者だろう。羊を食って味を占めたに違い無い」

 だから、とカップを卓の上に置きながら彼は言を継ぐ。

「そいつはまたやってくる可能性が高い。今日から、破獣が来そうな場所を僕らが張るよ」

「恐れ入ります。陛下の騎士殿にお手をわずらわせて、申し訳ございません」

 隊長が恐縮しきった態で、深々と頭を下げる。その様子を見ながら、カナタの心にはひとつの懸念が浮かんでいた。

 自分も騎士だと父達に言い張って、ここまでついてきてしまった。だが、正規兵も相手にならなかった怪物に相対して、果たして自分が役に立つのだろうか。大きいカナタの足を引っ張るだけになるのではないだろうか、と。

 カップの中で揺れる淡いブラウンの液体を見下ろしていると、こちらの憂慮に気づいたのだろう。もう一人の自分がつっとこちらを向き、

「無理はしなくていい」

 隊長に気づかれない声量で囁いた。

「破獣は僕が倒すから。君は怪我しない程度に威嚇と誘導をしてくれればいい」

 気を遣ってくれたのはわかる。だがそれは、こちらが未熟な新米騎士だからか。それともカナタが、大きいカナタにとって誰よりも何よりも大事な『エレ』の息子だから、万一の事があってエレを悲しませない為に、予防線を張ったのだろうか。

 いずれにせよ、自分はいまだ一人前扱いを受けていない、受けるだけの実力も伴っていないのだという事をひしひし感じ取って沈んだ気分になり、少年はもう一人の自分に返事もせず、ふいっと視線を逸らすのだった。


 西の稜線に太陽が沈んでゆく。夜になってしまえば、アイドゥール城下街のように通りを照らす灯など無いツァラの草原は、月と星の明かり以外無くなる。

 そんな場所にぽつんとひとつ、ランプをうっすらとだけ点けて、二人のカナタは防寒具を着込み、鞘に収まった剣を握り締めて草むらに潜んでいた。

 破獣は昼夜を問わずに行動する。一晩見張っても無為な行動として終わる可能性も無きにしもあらず、だ。しかし、今までの襲撃の周期から、今日あたり三度目の襲来があってもおかしくない。カナタは息を詰めて、手の中の重みを握り直した。

 半年前、騎士として生きる覚悟を決めた時に初めて抜剣した鋼鉄の相棒は、ずっしりと重く、課せられた役割の重要さを伝えてくる。破獣を倒せなければ、ツァラの人々は安心して暮らせない。それに今は一匹でも、仲間がいてアイドゥールにまで迫る事になれば、家族が危険にさらされる。ユーリルも安心して迎えられない。

 無理はするなと大きいカナタには言われたが、自分は『黒の死神』の息子だ。父だって最初から容易く敵を葬る事ができた訳ではないだろう。戦場の空気を少しも知らずにいきなり大勝利をおさめられる人間など、いるまい。

 そう考えた所で、いや、と思い直す。幼い頃母から聞いた、父を育てた養父の存在を思い出したのだ。末の弟の名前の由来になったその人は、『紅の鬼神』などと、『死神』に負けず劣らず物騒な二つ名で呼ばれていた、凄腕の戦士だったという。そんな傑物に戦いの術を叩き込まれた父は、もしかしたら最初からかなわない相手などいなかったのかもしれない。今のカナタより若い、十五の歳で英雄の名を得たのだ。やはり自分とは実力の差があるかもしれない。

 それでも。

 正騎士になった以上、これはできない、という事は抱えていたくない。周りの大人達と同等に立ちたい。

 その焦りこそが未熟である証だと気づかずに、カナタが剣を握る手に力を込めると。

「お疲れさまです」

 突然背後から大きいカナタ以外の声が降ってきて、カナタは無様にもびくうっと身を震わせて飛び上がりかけてしまった。逸る心臓におさまれ、と命じつつ恐る恐る振り返れば、駐屯軍の隊長が、湯気の立つカップを二つ手にして、そこに立っていた。

「身が凍えるだろうと思い、茶をお持ちしました」

「ありがとう」

 大きいカナタが差し出されたカップに手を伸ばす。同じようにカップを受け取れば、旧セァク特産である緑茶の湯面が揺れている。冷えた身体にはたまらない誘惑だった。

 だが、不意に大きいカナタがこちらを向き、目線だけで『口をつけるな』と合図してきた。一体どういう事だろうか。もう一人の自分の意図がわからなくて目をしばたたくと。

「破獣が出るかもしれないのに、わざわざご苦労な事だね」

 やけに嫌味を込めた声色で、青年が隊長を振り仰ぐ。その瞳には今、父インシオンが、敵とみなした相手を見すえる時の険が宿っている。

「それとも君は、恐くないのかな。破獣が」

 青年の言葉は一体何を意味しているのか。わからなくてしばらく考えを巡らせたが、カナタの頭脳も鈍くはない。まさか、の確率をすぐさま弾き出す。

「破獣が、君自身ならば」

 大きいカナタが険しい表情のまま、カップをわざと取り落とす。地面に当たったカップは甲高い音を立てて割れ、破片と共に緑茶がぶちまけられる。対して隊長は、何が楽しいのかとばかりにへらりとした笑みを浮かべて、陶酔するように両腕を広げた。

「せめて眠りについたまま苦しまず死ねるようにとの、厚意だったのですが」

 唐突に大きいカナタが抜剣し、隊長に向けて斬りかかる。不意討ちはしかし、隊長が飛蝗ばったのように身軽に後方へ跳ねる事で空を切った。

「安穏と暮らす愚か者共へ、死と破滅を」

 やけに濁った瞳で隊長が謡うように宣う。直後、カナタは信じられない光景を視界におさめて、目を見開く羽目になった。

 めきり、と何かがきしむような音と共に、隊長の四肢があらぬ方向へ曲がった。だらしなく舌を出したままの口に牙が生え、顔が黒い皮膚に覆われ、爬虫類系の形相へと変わってゆく。体躯がふたまわりほど膨れ上がり、指先には鋭い爪を有してゆく。

 蝙蝠にも似た翼がばさりと背に広がり、全貌が月明かりに照らし出される。

 破獣。

 カナタが昔話としてしか聞いた事の無かった伝説の化け物が、今、眼前に現実として降臨した。

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