15 決着
「カナ……っ!」
ユスティニアの悲鳴のような声は、途中で遮られた。脳髄まで引き裂かれそうな痛みの中、じりじりと顔を上げれば、いつの間にか彼女の背後に回り込んでいたハシムが、姫の口を大きな手で塞ぎ、もう片方の手に握った短剣を、彼女の首筋に押し当てていた。
「動くなよ、
大きいカナタが剣を握り直そうとしたのを、鋭く牽制する。ユスティニアを拘束したハシムは、カナタ達が言葉通り動けないのを確認すると、姫を引きずるように部屋から連れ出した。奴は今度こそ、彼女を殺めるだろう。カナタ達の手の届かない場所で。
床にはいつくばったまま、痺れだした手で拳を作り、強く、強く握りしめる。脳裏には彼女と過ごした時間がぐるぐると巡った。
初めて会った時の姫の姿。戦士として邂逅した時の星を宿した鋭い瞳。『英雄と巫女姫の子』ではなく一人の少年として接してきてくれた事。触れた唇の柔らかさ。一緒に見上げた星空。
騙されていたのかと思った時は、心底から悔しくて悲しかった。しかし今、カナタの心を占めるのは、彼女を救わねばという、願いにも似た強い思いだった。
彼女の笑顔をもう一度見たい。ユスティニア姫とフェルムの騎士としてでも構わないから、もう一度言葉を交わしたい。
彼女を、失わせたくない。
傷口から広がる痺れが強くなるのを感じる。短剣に毒が塗られていたのかもしれない。放っておけば命に関わる危険性もあるだろう。それでも、自分の身体を気遣うより大事なのは、彼女を救う事だった。
ぐっと歯を食いしばり、身を起こして、立ち上がる。顔面を打ったせいかまだ目眩がしてふらつく身体を支えてくれたのは、もう一人の自分だった。
「覚悟は決まったようだね」
同じ顔が、全てを見通したようににやりと笑って見下ろしてくる。
「大きい血管は切ってない。抜くよ」
返事を待たずに、肩に刺さった短剣に手がかかり、引き抜かれる時に、焼けた鉄を押しつけるような激痛を伴う。奥歯を噛みしめて耐え、刃が完全に抜かれた気配が訪れると、詰めていた息を一気に吐き出す。まだ鈍痛が残る傷口を、大きいカナタが手早く布で縛って止血してくれた。
「僕は彼女を守って、後続が来ないよう見張る」
おろおろするばかりな身代わり姫のモリガを指差し、それから彼は、神妙な顔つきになる。
「団長命令だ。騎士として、必ずユーリルを助ける事」
いつもなら、エレエレ言う情けない男の言う事など、素直に受け入れる気は無かった。だが、彼の指示と自分の意志は今、同一人物である事を証明するかのようにぴったりと寄り添っている。
いつものなあなあな態度ではなく、踵を揃えてぴしゃりと敬礼を送る。床に取り落としていた剣を拾い上げ、カナタは部屋を飛び出していった。
傷を負って逆に感覚が鋭敏になっているのか、澱んだ水のにおいがやたらと鼻腔に滑り込んでくる。埃のうずたかまった廊下に刻まれた、引きずるような跡を追えば、それは迷わず屋上へ向かっていた。
階段を駆け昇れば、開け放たれた屋上への扉から夕陽の赤が射し込んできて、一瞬目がちかちかする。まぶたを閉じて下を向き、ぶるぶる首を振ってまぶしさを駆逐すると、カナタは剣を構えたまま屋上へと踏み出した。
朽ちかけた木の見張り台がある屋上は、イナト城の広さに反して、予想より狭い。その一角に、はっと目を吸い寄せられた。
「ヒョウ・カの狗が、のこのこ追ってきたか」
ユスティニアの頭を、縁からはみ出した空中に押し出し、締め付ける首に短剣を当てた状態で、ハシムが振り返り、獰猛な笑みを見せる。
「筋書きを変えようか」
彼はやたら嬉々として唇を歪めた。
「『ユスティニア姫を誘拐、殺害した犯人は、ヒョウ・カ王の直属騎士で、それを忠臣ハシムが討った』としようとしていたが、『国内の混乱を狙ったヒョウ・カ王の狗は、ハシムの善戦虚しくユスティニア姫と共にイナト王城屋上から転落して死した』とね」
得意気な口上を、しかしカナタはやたら落ち着いた表情で聞いていた。冷めていた、と言っても過言ではない。ハシムがどう挑発しようと、どういう粗筋を描こうと、カナタの知った事ではない。
さっきから肩の痺れは全身にじわじわと広がってゆき、身体が熱に浮かされたように火照っている。だが、頭の奥はやたら冷静な思考をして、状況を見渡す。
ハシムの短剣が実際にユスティニアの喉笛を斬り裂くまでの時間。それまでに詰められる彼我の距離。自分が今出せる脚力。
黒の瞳がこちらを見ている。星が揺らぎ、唇が、カナタ、とたしかに自分を呼ぶのを見て、腹は決まった。
あちこちひびの入った床を、たん、と軽く蹴って、カナタは俊敏な獣のように軽やかに跳ねる。ハシムとの距離を一瞬で縮め、
右足を勢い良く振り上げて、ハシムの腕をしたたかに蹴る。短剣がすっぽ抜けてがら空きになった手を見て唖然とするその頬に、手加減無しの拳一発。折れた歯を噴きながらのけぞる無防備な胴目がけて剣を一閃。夕焼けを背景にぶわりと血の花が咲いた。
ハシムは傷口に手を当てて、信じられないとばかりに愕然と目を見開いていた。が、その身体が酔っ払いのように二、三歩よろめくと、屋上の縁を乗り越えて、何も無い空中に放り出された。手足がじたばたと宙を泳ぐ。
「カ……」
ユスティニアが身を起こし、カナタの名を呼ぼうとする。しかし、無我夢中で伸ばしたハシムの手が彼女の髪をひっつかんだ。悲鳴と共に、彼女の身体も縁の向こうへ投げ出される。カナタはざっと血の気が頭から引くのを感じながらも、反射で両腕を思い切り伸ばし、彼女の手をつかまえた。
途端、二人分の重みが傷ついた肩にのしかかり、激痛が苛んで顔をしかめる。だが、この手を離したら地上まで遮る物は何も無い。一巻の終わりだ。ユスティニアの命がとか、カナタの立場がとか、だけにとどまらない。姫を助けられず見殺しにしたとして王立騎士団の名は地に墜ち、ヒョウ・カ王は失脚して、アルファルド大将の目論見通り、西方人とセァク人は滅びて、イシャナ人だけの帝国が出来上がるだろう。
だが、カナタの脳裏には、そんな政治的な目算は一切浮かんでいなかった。ユスティニア姫を助ける。絶対に、彼女を失わせはしない。その一念に身を支配されて、彼女の手を握る両手に、精一杯の力を込めた。
しかし、カナタもまだ成長途上の少年だ。持てる力には限界がある。自重を超えた重みがかかる腕がぶるぶる震え、全身から汗が噴き出して、掌がぬめるのを感じる。今にも自分の手からユスティニアの命が滑り落ちていってしまいそうだ。いや、それ以前に、髪をつかまれ首をのけぞらせる体勢になっている彼女の顔色は青ざめ、呼吸が止まってしまうかもしれない。
助けられない。
その絶望が毒蛇のようにするりとカナタの胸に滑り込んできた時だった。
ひゅっと風を切る音が耳に届いたかと思うと、「ぐっ」とハシムの呻き声が聴こえた。はっと目をやれば、彼の首に深々と矢が突き刺さっている。過たず急所を貫いた一撃に、ハシムは白目をむいて、手から力も抜ける。何もつかむものの失くなった身体は、もがくように宙を泳いでゆっくりと落下を始めた。
顛末を見届けるより先に、背後からぐいと強い力で二人ごと引っ張られた。カナタはユスティニア姫を胸に抱く形で屋上の床にあおのけに倒れ込む。直後、遙か地上で何かのひしゃげる音が遠く耳に届いた。
ユスティニアの体温と息遣いを腕の中に感じながら、一体誰が助けてくれたのかと思案する。大きいカナタが追いかけてきてくれたのだろうか。
しかしその考えは、頭上からかけられた声で、間違いだったと知る羽目になった。
「あの男を生け捕りにできなかったのは仕方ねえ」
夕日を背に負って、カナタと同じ黒髪が蒼く映える。赤の瞳が鋭く細められてこちらを見下ろしている。
「だが、見習い騎士としては上出来だ」
「……と」
声を出そうとしたが、極度の緊張でからっからに乾いた喉は言葉を紡ぎ出せなかった。
相変わらずの黒装束をまとった、
「敵は片付いたな?」
「うんもうバッチリ! 全員斬るかふんじばったよー!」
シャンメルとは父の腹心だ。彼がいるという事は、矢を放ったのはもう一人の直属部下であるリリムだろう。女性ながら短弓と
父が再び視線をこちらに戻し、にやりと口元を持ち上げる。
「よくやった、カナタ」
滅多に労いの言葉をかけてくれない父が、褒めてくれた。安堵して脱力した途端、疲労がどっと押し寄せて、カナタを抗いようの無い眠りへ引きずり込む。
「カナタ? カナタ!?」
至近距離でユスティニアが呼ぶ声を聞きながら、カナタは深い暗闇へと意識を手放した。
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