第5章 つかめない衣(1)
寝台の上に身を起こしたエレが手にする杯の中で、透明な液体が踊っている。それを飲み干せば多少楽になるとわかっていても、手が細かく震えてなかなか口につける勇気が起きない。味がどうこうなどの話ではない。また毒が入っていたら、という恐怖が大きな枷となっているのだ。
「大丈夫よ、エレ」
傍らに控えるレスナがふんわりと笑んで、エレの手を両手で包み込み囁きかける。
「きちんと侍女が毒見をしたのだから、危険は無いわ。さあ、恐れないで」
気遣ってくれる彼女の好意をむげにしてはいけない。エレは意を決して深呼吸すると、ぐっと杯をあおった。途端、とてつもない苦味が口内に広がり、痛んだ喉を刺激する。しかしここで吐き出す訳にはいかない。一気に飲み下した。
「……どうかしら?」
苦さが喉を通り過ぎたところでほっと息をつくと、レスナが気遣わしげな視線で問いかけて来る。
「だ……っ!」
大丈夫です、と返そうとしたが、できなかった。声を発しようとすると、相変わらず激痛が走って血の味がこみ上げる。こうして解毒薬を服用しているおかげで毒素は身体からほとんど抜けたが、焼け付いてしまった喉は一向に良くならない。当たり前のようにできていたのができなくなる事がこんなに苦痛だとは、いざ自分の身に起こってみるまでわからなかった。ここ十数日は、無力感に苛まれるまま、ぼんやりと寝台の上で過ごしていた。
「エレ、こうしていても塞ぎ込むだけだわ」
エレの落ち込みようを察したのだろう。レスナが思い立ったようにぽんと両手を打ち合わせて、腕を引いた。
「外へお散歩に行きましょう。少しは気が晴れるはずよ」
本当は全くそんな気分ではない。しかし、レスナは毎日のようにエレの部屋を訪れては、外で摘んで来た色鮮やかな花を花瓶に活けたり、気が紛れるように話をしたりしてくれるのだ。断れば彼女を傷つける。エレは曖昧に微笑んでうなずくと、寝台から降りた。
部屋を出ると、腰に剣を帯びた衛兵が一人、影のように二人の後をついて来る。エレが命を狙われていると判明してから、アーヘルが『決して一人になるな』と、誰かしらを傍につけるようになったのだ。
『心配なんかじゃないわ。アルテアを失わせない為の監視よ』とレスナは毒づいたものだが、それでも今は、誰かが目を光らせて守ってくれている事が、何よりも心強かった。
レスナに手を引かれるまま宮殿の外へ。古い石の階段を昇ると、潮のにおいをたっぷりと含んだ海風が渡る見晴らし台に出た。一面に広がる海洋。水平線の碧と空の青の境目がくっきりと見えて、思わず目を奪われる。遠くで何かが勢い良く飛び跳ねて水飛沫を散らすのが見える。どれだけ大きな魚なのだろうか。
「あれはイルカというのよ」
見晴らし台の縁に手をかけて興味津々で見入っているエレに、レスナが説明してくれた。
「水に棲んでいながら、魚よりも私達人間に近い生態を持つ種族と言われているわ。実際、魚が卵を産んで幼生を孵すのと違い、イルカは人間と同じように子を産んで、乳で育てているそうよ」
あまりにも詳しい説明に、エレが驚いて振り向くと、レスナは照れ臭そうにはにかんで頬に手を当てた。
「私、故郷では生物について学んでいたの。兄が五人もいて王位からは遠い所にいたから、私が勉学に没頭しても父は笑って放っていてくれたわ」
それから笑みを消し、暗い炎を瞳に宿して、
「でも、アルセイルと戦になって、父も兄達も全員死んだけど」
と怨恨を込めて呟く。彼女も笑顔の裏に深い悲しみを抱いている。それでもこうして明るく振る舞って、エレを元気づけようとしてくれている。その心遣いが何よりも嬉しかった。
再び海面を跳ねるイルカに目を向ける。その時、唐突に強い風が吹いた。
「あっ」
レスナが小さな悲鳴をあげる。慌てて両手で身を抱き締めるが一瞬遅く、彼女のまとっていた緑の薄布がいたずら好きな風にさらわれて飛んで行った。
「自分が探してまいります」
衛兵が低頭し、身を翻して薄布の後を追う。彼の姿が階段下に消えるのを、エレとレスナは二人で見送ったが、布はどこまで飛ばされたのか、衛兵はすぐには戻って来なかった。
「どうしましょう。そんなに遠くまで行ってしまったのかしら。あれにこだわりが無いから、失くなったらそれはそれで構わないのに」
レスナは口元に手を当てておろおろし始める。エレが目で訴えかけると、こちらの意図を察したレスナが不安げな顔をした。
「呼び戻しに行けと言うの?」
エレがしっかりうなずいても、「でも」レスナの表情から憂いは拭われない。
(大丈夫です、少しくらいなら、一人でも)
身振り手振りでそれを伝えると、レスナは二度、三度躊躇った後に、
「わかったわ。すぐに戻るから、決してここから動かないでね、エレ」
すまなそうに手を合わせて、幾度か振り返りながらも階段の下へと姿を消した。
多少の不安は感じながらも、このところずっと一人きりで考える時間が無かったのだ。レスナに感謝して、エレは髪留めを引き抜き、赤銀の髪を風に遊ばせた。胸一杯に潮の香りを吸い込むと、様々な思いが脳裏を巡る。
エレが連れ去られた事はセァクにも伝わっているだろうか。弟のヒョウ・カ――ヒカにも心配をかけてしまっているかもしれない。動揺せず、皇王として強く立っていて欲しい。
レイ王。別れ際まで顔色がすぐれなかったのが気になる。無事イシャナに戻れたら、やはり、どんなに断られても一度アルテアを使ってみよう。イシャナには彼が王として必要なのだ。
シャンメルやリリムにも迷惑をかけてしまっているに違い無い。会えたらひたすら謝ろう。シャンメルは「ああ、いいってー。平気平気」とへらっと笑いながら手を振り、リリムも「別に謝られたい訳じゃないし」とそっぽをむきながら無愛想に言い放つだけなのは、容易に想像できるが。
そして、インシオン。
喧嘩別れしたままなのを思い出す。それでも、エレを追いかけて、助けに来てくれた。両手を伸ばしたあの必死な表情を見れば、もう怒っていない事などわかっている。それでも、きちんと謝りたいという気持ちはまだエレの中にある。仲直りしたら、この美しい景色を並んで眺めたい。何のわだかまりも無く、微笑み合って、海辺にたたずんでいたい。
(ああでも、インシオンはそう簡単に笑ったりしませんよね)
彼の顔を思い出そうとすると、眉間に皺を寄せているか、瞳を細めて睨んでいるかの、不機嫌な形相しか思いつかない。恋は盲目などと言うが、我ながら突飛な妄想をしたものだと恥ずかしくなって、エレは見晴らし台の縁に両手をついてうなだれ、こみ上げる笑いを必死にこらえた。
その時、目線が変わったせいだろうか、気になるものが視界に入って来て、エレは顔を上げた。見晴らし台から降りて少し海側へ歩いた崖のそばに、ぽつんとたたずむ墓標がある。ただそれだけなのだが、何故か妙な胸騒ぎがして、階段を降り、そちらへと歩み寄った。
墓標は一体どれだけ昔のものなのか、潮風に削られすっかり丸くなり、びっしりと苔で覆われている。しかし、そこに刻まれた言葉は、苔をこそぎ落とせば何とか読めそうだ。エレは手布を取り出すとそれで右手を包み、ごしごしと墓石の表面をこする。苔が取り払われ現れた一字一字を目で追い、そして、愕然とその目を見開いた。
『大好きなアルテアの巫女エレ、ここに眠る』
現代の言葉で、間違い無くそう刻まれている。
頭が真っ白になり、心臓は激しく暴れている。荒い息をしよろけながらその場を離れ、再び階段を駆け上って見晴らし台の縁に手をかけ、ずるずると屈み込んだ。
一体全体、どういう事か。『アルテアの巫女』『エレ』は、この世界に自分しかいない。自分の墓が何故、大陸から遠く離れたこの国に存在するのか。それともかつて破神がアルセイルを焼き尽くした千年前に、同じエレという名のアルテアを使う人間がいたのだろうか。だが、千年前の書き言葉は今と違うはずだ。何故、長い時を経た墓石に、現代語が刻まれているのか。何もかもがわからない。混迷のあまり吐き気までもがこみ上げた。
ぐるぐると出口の無い思考回路を彷徨っていると、階段を上がって来る一人分の足音が聞こえた。レスナが戻って来たのだろうか。それとも衛兵が行き違いになってしまったのか。何とか立ち上がり、振り向こうとした瞬間、足音が駆けてエレの背後に回り込んだかと思うと、死角から両手が伸びて来て、エレの首を絞めあげた。
「かっ、は……っ!?」
声をあげようとしても、息が詰まったのと喉が焼けるのとの両方で、言葉にならない。刺客の手は容赦無くエレの首を絞めつけて来る。たちまち頭に酸素が回らなくなって、空気を求めて口ばかりがぱくぱくと開閉する。
ぶれる視界の中、インシオンの幻聴が聞こえた。
『背後から襲われたら、こうだ。お前みたいな腕の細っこい奴でも充分威力がある』
彼が護身術を伝授してくれた時に教わった事が、苦しい息の中、かえって明瞭に脳に浮かぶ。エレは右腕を掲げると思い切り振り下ろし、肘を背後の相手の脇腹に叩き込んだ。呻き声がして手が離れる。エレはその場にがくりと膝をついて、自由になった喉で必死に空気をかき込んだ。
それから、駆け去る足音に気づいて、咄嗟に振り返る。敵を見届ける絶好の機会を逃す訳にはいかない。
反応が遅かったか、相手は階段の下へ消える所だった。しかし、風にたなびいて揺れる薄布の色だけは、しっかりとエレの目に焼き付いた。
まさか、の考えが脳を支配する。心臓がばくばく言って、身体が抑えようも無く震える。
「エレ! エレ!?」
慌ただしく階段を駆け上がって来る音と、レスナの声が耳に届いた。助かったのだ、と思うと、全身からどっと汗が噴き出した。
「エレ、どうしたの!? 大丈夫!?」
衛兵と共にレスナが現れ、エレの姿を見るなり驚愕して駆け寄って来た。片膝をつきエレの背中を撫でさすりながら、蒼白の表情でこちらを見つめている。
「どうしたの、何を見たの!?」
混乱する頭が静まって来ると、エレは顔を上げた。レスナが更に驚くだろう事を予感しつつも、焼ける喉で何とか声を絞り出す。
「あ、お……」
エレが見た薄布の色。
それは、第一王妃シュリアンの青だった。
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