10 触れた唇

 果たしてカナタの嫌な予感は的中した。

 湯気の立ち昇る泉に顔を出している者がいない。入浴中は男女関係無く無防備だ。さらわれた可能性も考えたが、まずは冷静に、ざっと泉全体を見渡す。すると、中央近くで一瞬、ぷかんと空気の泡が浮かんで儚く消える。それをカナタの動体視力は見逃さなかった。

 襟をゆるめていた上着を一気に脱ぎ捨て、靴を放ると、泉の淵を裸足で躊躇無く蹴って、ざぶんと湯に飛び込む。

 温泉を楽しむには適度な湯温だろうが、今はそれどころではない。微かな泡の浮かんだ中心を目指し、白く濁った湯に腰まで浸かってざぶざぶと進むと、いきなり足元が消失し、カナタは体勢を崩した。深みにはまりかけて湯が予告無しで口と鼻に入り込み、つんと鼻の奥を突く。瞬間、我を忘れて慌てたが、見習いでも騎士、不測の事態に対応するだけの冷静さは身につけている。咄嗟に体勢を立て直すと、一旦わざと沈んだ後に顔を水面へ出し、思い切り息を吸い込んで、今度は勢い良く潜った。

 平時なら、薬効があると誰もが喜ぶだろう白い成分を含んだ湯が、今は視界を邪魔してひたすらに鬱陶しい。それでもカナタは勘を頼りに手を伸ばし、辺りを必死に探る。と、柔らかい感触が指先に触れた。人の手首だ、と認識した瞬間、強くつかんで引っ張り上げる。

 カナタの期待――いや、不吉な予感はまたも当たる羽目になった。ユーリルの顔がぷかりと水面に浮かぶ。温まっていたはずのその顔は青白く、目は固く閉じられて、黒目がちな瞳を見せてはくれない。

 とにかく急いであがらねば。その一念にとらわれて、カナタはユーリルを横様に抱き上げると、深みを抜けて浅い場所を駆け抜け、裸足が草の感触を踏み締める場所まで逃れた。

 艶めかしい肢体、見た目からはわからない豊かな胸は、年頃の少年には刺激が強かったが、女子の裸に魅了されて我を失っているような状況ではないのだ。

 横たえた少女の身体に自分の上着をかぶせると、胸に耳を近づけて心音を探る。強い鼓動は聞こえた。しかし、口元に手を当てると、返ってくるはずの呼吸が一切無い。たらふく湯を飲んだようだ。

 息が止まり酸素が脳に供給されなければ、いずれ心臓も動く事を諦める。一刻の猶予も無い。ぐっと顎を持ち上げて気道を確保する。自然に呼吸が戻る気配が無いので、ユーリルの鼻をつまんで大きく息を吸い込み、躊躇い無く彼女の唇に自分の唇を重ねて、思い切り空気を送り込んだ。続けざまに、何度も、何度も。

 やがて、ごぼりという水音と共に、ユーリルが肺の中の湯を勢い良く吐き出したかと思うと、思い切りむせこむ。ゆるゆると目を開き、前後不覚に陥っているのか、しばらく目の焦点が定まらず黒い輝きが辺りを彷徨ったが、ある瞬間にはっと現実に立ち返り、「カナタ……?」とこちらを凝視して呟いた。

「私、温泉で溺れて……深みがあるなんて気づかなくて……」

 そうしてゆっくりと身を起こした彼女は、ぽたぽたと水滴をしたたり落とす自分の髪、露出した肩、カナタの上着で覆われた自分の身体、そしてぐしょ濡れの少年。それらを順繰りに見て、事態に気づいたようだ。

「み、見たの!?」

 途端に顔を真っ赤にして頓狂な声をあげる。上着を肩まで引き上げたので、その分日に焼けた健康的な脚が見えてしまう。それにこの状況からして、カナタが人工呼吸を行った事も割れているようだ。血の気を取り戻した唇がふるふる震え、何かを言いたげに顔がひくつく。

 だが彼女は、腐っても誇り高き西方の民だった。感情に任せてカナタをぶつ、などという事はせず、自分のせいで湿ってしまったカナタの上着に目を落とし、

「……すまない。洗って返す」

 とうつむき加減に言ったかと思うと、ぽそりと付け足した。

「ありがとう」

「別に、いいよ」

 今更ながら、湯に濡れたユーリルの身体が思った以上に艶っぽく見えて、心の臓のあたりにむずむずと妙な感覚が訪れる。それをごまかす為にカナタは殊更そっけなく返した。

「一晩放っといたら乾くだろうから」

「……ごめんなさい」

 しゅんとうなだれる顔に張り付く赤毛が色気を帯びて見える。適度な太さの腿に、いけないと思ってもちらちら目が行ってしまう。

「とにかく、服を着なよ。あにいの所に戻ろう」

 どうにか少女から視線を引きはがすと、平静を必死に装い、「あっちにいるから」と言い残して茂みをかき分けてゆく。

 そしてユーリルの姿が見えなくなったところで、木の幹に寄りかかってずるずると崩れ落ち、今更両手で顔を覆ってしまった。

『お前、小さい頃にエレやミライと一緒に風呂入って、裸なんか見慣れてるだろ。女だと思うから変な気が起こるんだ。単に同じ人間だと思え』

 水難事故が起きた際の異性の救命処置をする場合、どうすればいいかと相談した時、父があっさりと答え、『それって、私も女としての魅力が無くなったって事ですか』と母が笑いながらやけに静かに言い放って、父が珍しくたじろいだのを思い出す。母は目を細めて満面の笑みを浮かべた時が最も恐いのだ。家庭を守る戦力的な強さを持っているのは父だが、一家の中で誰が精神的に最強かと言えば、間違い無く母だ。普段はぽやぽやしているが、怒らせると一番恐いのだ。

 いや、今はそれはどうでもいい。子供の頃、風呂で母や姉妹の身体を見たのとは訳が違う。ユーリルは人様の娘で、年頃の少女だ。それを思うと心臓がはちきれんばかりに騒ぐ。頬が熱い。膝に力が入らない。

 唇に残る柔らかい感触を今更思い出して、熱は更に高まってゆく。初めて味わうこんな気持ちを何と呼ぶのか。その答えを認めるには、少年はまだ若すぎた。

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