第2章 暗転(3)
レイ王は城で休んで行く事を提案したが、インシオンが固辞して早々に城を去ったので、遊撃隊は城下街の安宿に泊まる事になった。
「あーあ。お城のおいしい夕飯もふかふかベッドもお預けなんてさー」
大通りから外れた、あまり客のいない宿に部屋を取り終えると、渡された鍵を振り回しながらシャンメルがぶうぶう不満の声をあげた。
「シャンメル、聞こえる」
宿の主人がじとりとこちらを見たのに気づいてリリムが囁いたが、シャンメルはお構いなしのようだ。
「横暴! 非道! うちの隊長ろくでもない!」
テンポ良く文句を言っていた少年はしかし、その非難している当人から、「黙れ」とも拳も飛んで来ない事を訝しんで振り返り、すっと表情を消した。つられてエレも視線を向ける。
インシオンが壁によりかかり、うつむいて黙りこくっている。時折目を閉じ深呼吸を繰り返して、胸を抑える。その額には汗が浮いていた。
「先に部屋へ行ってろ」声を発するのもかなりしんどそうで、彼は部下達を追いやるように手を振る。「後から行く。飯はそれからだ」
そう言い残して、インシオンはふらつきながら宿の裏庭へと歩いてゆく。さっきまで元気にしていたのに、突然どうしたのだろうか。後を追おうとしたエレの手首を、シャンメルが素早くつかみ止めた。
「エレ、行こう」
その笑顔がいつもと違って、無理矢理作っているように見える。彼は何かを察しているのだろうか。無言で問いかけると、「あー……」とシャンメルは困ったように視線を逸らし、笑みを打ち消して囁きかけた。
「しばらくそっとしといてあげて」
そうは言われても、気になるものは気になる。エレは、他人があんなに辛そうにしているのを放っておけと言われて従える性分ではない。だが、それをシャンメルも把握しているのだろう。
「あの人もそれを望んでる」
と先手を打った。インシオンの望みと言われてはエレが引き下がるしか無い事を知っての言葉だ。半年間共に行動した結果、エレがインシオン達を理解する事は大分できたが、逆を返せば彼らがエレを理解する時間もたっぷりあった訳だ。
「……わかりました」
エレはしぶしぶそう答えて、シャンメル達と共に宿の階段を昇った。
男女の部屋は別で、シャンメルが隣の部屋に一人で入って行った後、エレとリリムは同じ部屋に入った。城の上等な客室とは違い、簡素なベッドとテーブルと椅子があるばかりの、いまひとつ物足りない部屋だ。とはいえ、今まで旅をして来て、馬小屋並の部屋に泊まった事もあるし、集落に辿り着けなくて野宿で夜を明かした経験も積んだエレからすれば、布団に入って眠れれば、もう充分だ。
ベッドに腰かけ、しばらく胸元の小瓶をもてあそんでいたが、その内、先程のインシオンの苦しそうな様子が脳裏を横切った。シャンメルにはああ言われたが、やはり気にかかって仕方ない。
双子の兄レイ王の事もある。実は何か持病を抱えているのではないだろうか。アルテアが効かずとも、様々な病人怪我人を治して来たエレならば、ある程度看る事ができるだろう。
リリムはいつものようにテーブルに向かって
「どこ行くの」
背中に目でもついているかのように、リリムがこちらを向かないまま声をかけて来たので、どきりとして足を止める。破神の血を持つ人間を感知する『神の目』を有する彼女の前に、息を殺しても全くもって無駄な行為だった。いや実際は、歩く度に床がぎしぎし音を立てていたので、ばればれだったのかもしれないが。
「あの」
相手に見えていないとわかっていながら、エレは取り繕うような笑顔を浮かべて必死に言い訳を探し、しどもどと告げた。
「お風呂に、行って来ます」
小さな溜息が聞こえた後。
「湯冷めしない内に帰って来なさい」
ぼそりと返された。表向きはそっけない友の、隠された心遣いに感謝しながら、エレは無言で頭を下げ、部屋を飛び出した。
城の庭とは違い、宿の裏庭はいち早く枯れた葉が地面に落ちきって、物寂しい様相を呈している。裸の木立の間を縫って行けば、黒装束はすぐに見つかった。
「インシ……」
呼びかけて、エレは相手の名を言いきれずにその場に立ち止まってしまった。赤い瞳が、明確な怒りを宿した苛烈な視線で刺して来たのである。
「何で、来た」
木の幹にもたれかかるように背を預け、ぜえぜえと苦しそうな呼吸を繰り返しながら、インシオンはそっぽを向いて言い放った。
「戻ってろ。放っとけ」
「そんなに辛そうにしているのに、放っておける訳がありません」
両手をぎゅっと拳の形に握り込み、エレは意を決して再び足を踏み出そうとする。
「――近づくな!」
途端に怒声が飛んで来た。
「お前には関係無いって言ってるんだよ、戻れ、馬鹿が!」
エレは驚きのあまり言葉を失ってしまう。本当に心配しているのに、こちらをないがしろにするようなその言い様は何なのか。腹が立って、何が何でも近づいてやると躍起になる。
「そんな言い方って無いじゃないですか!」
「いちいち首を突っ込んで来るんじゃねえよ、子供のくせに!」
「子供じゃありません!」
「そうやってむきになる所が、充分子供だ!」
売り言葉に買い言葉。気づけばずんずん足を踏み出し真正面から怒鳴り合っていた。つりがちの目が怒気を孕んで見下ろして来るが、負けまいと瞳に力を込めて、しっかりと睨み返す。
「いつまでも子供扱いしないでください! 私だって遊撃隊の一員です、仲間が困っていたら助けるのは当然でしょう!?」
「誰も助けろなんて頼んでいないだろう!? 他人のくせに!」
横っ面を叩かれた気分だった。そう思っていたのか。他人、だと。今まで詰めて来たと思っていた距離を一息に引き離されたようで、エレの目の端にじわりと涙の粒が浮かんだ。
さすがに言い過ぎたと思ったのだろうか。インシオンが怯んだ後、気まずそうに顔を逸らす。しかしその一瞬後、彼は苦しそうに低く呻いてがくりと膝を折った。
今の今まで喧嘩をしていたのも忘れ、エレは慌ててその身体を抱き留める。しかしその気遣いは、左肩に走る激痛という形で報われた。
痛みに顔を歪めた後、エレは必死に目を見開いて、そして驚愕する羽目になった。肩に食らいついているのは、今抱き留めたインシオンだった。牙が生え、腕をつかむ手には鋭い爪が伸び、その瞳は爛々と光って正気を保っているとは思えない。
「い……っ、やっ!」
渾身の力を込めて突き飛ばす。食い込んだ牙が離れる時に更なる痛みが襲って来たが、気にする余裕は無かった。反射的に小瓶を握って唇を紅く染め、叫ぶ。
『氷の矢!』
動揺のあまり必要最低限の言の葉しか出て来なかったが、アルテアは正確に応えた。青い蝶が矢の形を取り、インシオンの腕に突き刺さる。破獣のものと同じ呻き声が、インシオンの口から洩れた。
それを聞いてエレもはっと我に返る。インシオンが自分を傷つけた。それ以上に、アルテアでインシオンを傷つけてしまった。その事実に全身ががくがく震え、声が出ない。
気づけば、エレは一歩、二歩、後ずさると、ざっと土を蹴り、インシオンを置き去りにして走り出していた。
逃げ出したかった。この場から。インシオンから。彼を傷つけた事実から。
インシオンが血で汚れた口を手で覆ってその場にうずくまり、唸るように少女の名を呼んだ事に気づきもせずに。
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