第2章 暗転(4)
血の跡が点々と道に刻まれる。
人気の無い路地裏、誰もいない建物の陰を見つけて、エレは壁に背を預けてずるずると崩れ落ち、頭を抱え込んだ。
インシオンが
アルテアが何かおかしな変化をもたらしたのか。それともアルテアを用いるエレの血を与えた事が、前例の無い何かを引き起こしたのか。様々な考えが脳裏をぐるぐる巡って、何も答えが出ない。
身体はまだおさえようも無く震えている。涙が後から後から溢れて止まらず、エレは子供のようにしゃくりあげた。
「エーレ」
ぽん、と軽く頭を叩かれ、顔を上げる。
「シャン、メル……」
青灰色の瞳がいつに無いいたわりを込めて見下ろしているのを見ると、混乱の渦はほんの少しだけ治まった気がした。
「だーから言ったのに」
シャンメルはほのかに諦念を含めて軽く笑むと、エレの隣に腰を下ろして黙りこくっていた。エレが涙を引っ込めるまで、彼はそうして何も言わずにただ待っていてくれた。
「……落ち着いた?」
しゃっくりのような呼吸がおさまった所で、優しい声がかけられる。エレがこくりとうなずくと、
「まあとりあえず、自分の傷を治したら?」
と返って来た。そういえば、肩の痛みも忘れたまま無様に泣いていた。肩の血で唇を糊し、小さく呟く。
『痛みを癒せ』
白い蝶が舞い降りて、ふっと消える。噛まれた傷は消えたが、しかし痛みは残った。エレの心に。
「インシオンは……」
シャンメルは事情を知っていたと思われる。それだけを口にした時点で、少年はエレの問いかけを理解してくれた。
「ずっとだよ」
ぽつり、彼は語り出す。
「ずっとあの人はああして苦しんでた」
インシオンが破獣化の発作に襲われる事は今までずっとあったそうだ。その時彼は密かに遊撃隊の前から姿を消し、人のいない場所で、衝動が去るのを一人苦しみながら耐えていた。人里から離れた場所の時は、わざと破獣化して手近な動物を襲い食らってしのいでいた事もあるらしい。
「だけど、その間隔が段々短くなって来た」
最初は数年に一度。それが一年に一度になり、半年に一度になり、今は数ヶ月に一度。周期がどんどん短くなって来ているという。
やはりエレの血のせいなのだろうか。のしかかった責任と、今まで全く気付けなかった後悔とが、エレの胸に訪れる。
インシオンに謝らなくては。その思いが生まれた。しかし何を謝れば良いのか、考えがまとまらない。アルテアで傷つけた事を詫びれば、彼がエレを傷つけた事も責める形になってしまう。では破獣化に気づかなかった事か。そう考えて首を横に振る。インシオンも、その事でエレが謝罪するのを受け入れはしないだろう。
ならばせめて、喧嘩してしまった事を謝ろう。謝って、仲直りして、一緒に破獣化を止める打開策を考えよう。
もう涙は去った。翠の瞳に凛とした決意が宿ったのを、シャンメルも見とめたのだろう。
「決心、ついた?」
こちらの顔をのぞき込んで無邪気に問いかける少年に、笑顔で返す。
が、次の瞬間。
がつ、と鈍い音が耳に届いたかと思うと、シャンメルが目をむいて前のめりに倒れて来た。一体何事か。把握する間も無く、後ろから口を塞がれる。当てられた布に薬が含まれていたのだろう、つんと鼻を突く異臭に顔をしかめたのも束の間、急速にエレの意識は遠ざかってゆく。
「エ、レ」
頭から鮮血を流すシャンメルが、必死にこちらに向けて手を伸ばす。その様と、倒れた彼の後ろに立つ、日に焼けた肌を持つ何者かの姿を見とめた直後、エレは完全に暗闇に落ちた。
「ここ。このあたり」
リリムに先導されたインシオンが裏通りへ姿を現したのは、とっぷりと日が暮れて暗くなった後だった。
破獣化の衝動がおさまるまで裏庭でのたうち回り、ようやっとまともに動けるようになるまで時間がかかってしまったのだ。エレのアルテアを受けた腕は、自身の持つ『神の血』の力であっという間に治癒し、最早傷痕も無い。
だが、エレは心身共に傷ついただろう。無様な姿を見せたくなかったのに、あの少女は自分から踏み込んで来て、結果、お互いに傷つけてしまった。口の中にはまだ彼女の血の味が残っていて、己を抑えきれなかった後悔をじわじわと呼び起こす。
すぐにエレに会いに行きたかった。だが、頃合いを見計らってやって来たリリムは、非常に不吉な事実を告げた。
エレもシャンメルも帰って来ない。『神の目』で二人の存在を追ってみたが、シャンメルは裏通りから動かず、エレに至ってはその居場所を探知できない、と。
不安と焦燥はインシオンの心の内で膨れ上がり、苛立ちに転化する。暗くて物陰がよく見えない路地裏を見渡して舌打ちすると。
「インシオン、あれ!」
リリムが、建物の陰に打ち捨てられたずた袋を指差す。細長い麻袋は、リリムの声に反応するかのようにもぞもぞと動いた。
インシオンは袋に駆け寄り、異様に固く結ばれた口を解こうと四苦八苦し、いよいよ諦めて小刀で縄を断ち切る。すると萌葱色の頭がのぞいた。
ごろりと転がり出て来たのは、シャンメルだった。明らかに手慣れた者によって両手足を縛られ、猿轡をかまされている。たしかにこの状態では、ここから動く事はかなわなかっただろう。
シャンメルはもごもご何かを訴えている。インシオンが縄を断ち、猿轡を解いてやると、少年はぷはっと大きく息をついた後、インシオンの服をつかみ、見た事も無いような絶望的な表情で叫んだ。
「エレがさらわれたー!」
口内の血の味がまた濃くなったような気がする。インシオンは、自分がエレに謝り損ねた事を思い知った。
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