第8章 憎しみを断ち切るアルテア(2)

「いつから気づいていましたか?」

「確証はありませんでした」

 ソティラス、いやソキウスの問いに、エレは正直に答える。だが、エレは『神の口』を持つ者。『耳』にまでは及ばずとも、人の声には敏感だ。ソティラスとソキウスに見られるアクセントや言葉選び、喋り方の共通点を感じ取る事はできた。

 また、エレはひとつの可能性を思い浮かべていた。ここからは完全に憶測だ。だが、当たっているような気がする。

「あなたは『神の耳』だけでなく、ものを作り替えたり人を操る能力も持っているのではありませんか。今まで私を狙って来た人間達が自殺したり覚えていなかったりしたのも、たった今メルク達が暴走したのも、それが原因でしょう」

「驚いたな。そこまでわかりましたか」

 ソキウスが皮肉げに唇を歪める。それが肯定の返事だ。

「ならばお話ししましょう。もう隠す必要が無くなって、私もむしろせいせいする」

 そうして陶酔するかのごとく両手を広げて、彼は謡うように語り出した。

「全ては十三年前のアイドゥールから始まりました」


 アイドゥールの街に、二人の兄妹が住んでいました。灰色の瞳を持つ兄と妹。仲良しな二人はいつも手を繋いで一緒に遊び回っていました。

 あの日も兄妹二人。街外れの原っぱで追いかけっこをしていた時。突然空が真っ暗になり、火の雨が降り注いで、炎が原っぱを包みました。

 兄は妹の手を引いて必死に走りました。しかし子供の足。炎はあっという間に兄妹に追いつき、二人を飲み込みました。

 朦朧とする意識の中で兄が見たのは、さっきまで青かった空を埋め尽くす黒い化け物の姿。そしてそれに立ち向かうちっぽけな影でした。

 次に兄が気づいた時、その身体には炎ではなく赤い血が降り注いでいました。雨のように身を叩く血の中、腕に抱いた妹を見て、兄は愕然としました。妹は虫の息でした。大火傷を負って、愛らしい顔が最早誰であるかわからない程に焼けただれていました。

 兄の耳に、大勢の声が響き渡りました。悲鳴、怒号、絶望の叫び、破獣カイダと化した誰かの咆哮。うるさくて、あまりにもうるさくて、黙れと兄は絶叫しました。

 その時、どろりとした感触が兄の頬を撫でました。妹のただれた小さな手だと気づくのに、しばし時間が必要でした。

『泣かないの、お兄ちゃん』

 妹の声はかき消されそうなほどに小さかったはずなのに、確かに聞こえました。

『お兄ちゃんは、生きて』

 妹の手が頬を撫でた後にはべったりと血がつきました。その手がずるりと滑り落ち、そして動かなくなりました。

 しばらくの間呆然とした後、兄はある事に気づきました。何故、妹が致命傷を負って息絶えたのに、自分は平然と生きているのか。焼けたはずの皮膚は元通り。全身の痛みも全くありません。

 誰かの声は相変わらず耳に響きます。兄はそこで初めて気づきました。

 この血を浴びた事で、何か人知を超えた力が自分に備わったのではないかと。この鬱陶しい声の奔流は、その力のせいではないかと。

 そして、妹が得た力は、あらゆるものを作り直す、あるいは作り替える能力ではなかったのかと。

 兄は無我夢中で妹に手をかざしました。作り替える力。それを妹が自分に託したとしたら、妹を取り戻せるかもしれない。今この周囲に漂っている妹の魂の欠片をかき集めて、妹を作り直せるかもしれないと。それはただの妄想であったのかもしれません。でもその時の兄には、自分にはそれができるという確信がありました。

 そうして再生された妹は――


「真っ黒な破獣の塊でした」

 薄笑いすら浮かべてソキウスはそこで言葉を切った。エレもインシオンも、ヒョウ・カも。誰もが絶句してソキウスの話に聞き入っていた。だがエレの頭はやたら冷静に回り、答えを弾き出す。

 やはりソキウスは二つの破神タドミールの能力を持っているのだ。ひとつは『神の耳』。そしてもうひとつは『神の手』とでも称する事ができるだろうか。

「アリーチェは、あなたの妹ではないのですか。大切な人ではなかったのですか」

「大切、ですか? あの失敗作が?」

 エレの問いに、ソキウスはくつくつと喉の奥で嗤う。

「妹と同じ色を持った人間の皮をかぶった、破獣の出来損ない。何度作っても情愛なんかちっともわきませんでした」

『この私はあなたを詳しくは存じません。もう何人目かもわからないのです』

 イシャナ王城の地下に現れたアリーチェの言葉を思い出す。あのアリーチェは、エレに温かいスープを作ってくれた、殺されたアリーチェと決して同一人物ではないのだ。死者を蘇らせるのは神への冒涜とエレに向けて言い放ったソキウス自身が、それを平然と何度も行っていたのだ。

 そして、ソキウスが『神の手』を使う代償は、きっと。

「あなたは『神の手』を使うと、自分の記憶が欠落してゆくのですね」

 エレの指摘に、ソキウスは飄然と肩をすくめてみせた。テネの山脈を越える時、彼がエレを呼ぶのが「エン・レイさん」に巻き戻ったのは、動揺などではなかったのだ。

「おかしいでしょう? 記憶はどんどん無くなってゆくのに、あの日だけは事細かに覚えていて、決して忘れられないのですよ。憎たらしい事この上ない」

 後悔と悔しさは憎しみに転化する。ソキウスはどこかで、イシャナ前王がセァク皇王を殺して破神になった事を知ったのだろう。そして二人が亡き者になったとわかった時、怒りの矛先が向いたのは、その血に連なる人間達だったのだ。

「ただの逆恨みです!」

 エレは叫んだ。インシオンがアイドゥールで破神をしとめていなければ、破神は大陸全土を壊滅へと追いやっていただろう。いや、フェルム大陸だけでは済むまい。世界中が破神の危機にさらされたに違いない。街ひとつが滅びた事実に変わりは無いが、インシオンは被害を最小限にとどめたのだ。自らが破神の血を受けてまで。

「逆恨み?」

 しかしソキウスは冷徹に笑うのだ。

「それくらい、私だってわかっていますよ。それでも誰かを憎まずにはいられなかったのです」

 復讐の為に策を練り、手を尽くした。ソティラスとして幼いセァク皇王の傍に仕えつつエレを見張ると同時、イシャナでもそれなりの信用を得なくてはならない。その為には身体がひとつでは足りなかった。適当な破獣を『神の手』で自分の姿に作り替え、自分の記憶と思考を植え付けたのだ。

「私達が共に旅をしたソキウスも、あなたが作った偽物でしたか」

「あれはたしかに私ですよ」

 エレの問いにソキウスは、虚ろな瞳で自らの両手を見つめ、「でも」と呟くように洩らす。

「正直わからないんですよ、自分でも。どの私が本物の私だったか。『手』で自分自身を作る度、どんなに記憶を移植しても、移植した先には欠損した記憶しか残らない。『手』自体を移植してこちらに欠けた記憶を補完する事も考えました。でも、失敗しました。記憶は削り取られていくばかりでした」

 ソキウスの唇に薄く笑みが浮かぶ。それは己を嘲る諦めに近い笑みだった。最早荘厳な音楽は止み、彼の奏上する話ばかりが式典会場に響き渡る。

「私が孤児院に火をかけるよう仕向けたのも、あなたですね」

「そうですよ」

 エレの更なる詰問に、ソキウスはしれっと答えた。

「破神の血を浴びた子供達など、生きていても不幸なだけでしょう。少しばかり数が減ったところで誰の損にもなりませんよ」

「本気でそんな事を言っているのですか!?」

 思わずエレは語気を荒げていた。

「確かに家族を失ったけれど、私達はあの場所で穏やかに過ごしていました。それを不幸だと切って捨てるのですか!」

「あなたみたいにおめでたい発想はできないのですよ、エレ」

 最早取り繕うことの無い言葉でエレの訴えを一蹴して、「しかし」とソキウスは続ける。

「エレ、あなたは特別だった。他は誰も彼も死んで構わなかったけれど、あなたはアルテアを詠んだ。使えると思ったのですよ」

 では、火事の中エレの手を引いて行ったのは。『こんな悲しい場所は、無くしてしまっていいんだ』そう告げたのは。エレの記憶が長く改竄されていたのは。

「私の記憶を『神の手』で書き換えましたか」

「ええ」

 嘘をつけないソキウスは素直にうなずいた。やはりという思いがエレの胸に鋭い痛みとなって落とされる。

「それでこいつは何もかも覚えてなかったのか」

 インシオンが独り言のように呟いてエレを見下ろし、そしてすぐに視線をソキウスに戻す。

「こいつをセァクの姫にすえる為に、周囲の人間の記憶もすり替えたな」

「ほんの少しですよ」

 もっとも、誰の記憶をどれだけ改変したかも覚えていませんが。そう付け足し、

「でも、もうどうでも良いんですよ」

 吐き捨てるように言うと、ソキウスは止める間も無く短剣を抜いた。そして傍らのヒョウ・カ王を背後から抱え込み、その首筋に刃を押し当てたのである。

「破神の血を浴びた人間が破神の血を集めると、破神になれると言います」

 舌なめずりして恍惚とした表情で、ソキウスは宣う。

「さあエレ、あなたの血をください。その後にヒョウ・カ王の血もいただいて、私は新たな破神になる。そしてこの歪んだ世界を破壊する!」

「歪んでるのはてめえだよ」

 唖然と成り行きを見守っているばかりだったその場の人間達が、インシオンの声で自失から覚める。ソキウスが彼を睨み、憎々しげに名を呼んだ。

「インシオン……!」

「アーキを通じてレイと連絡を取っていた事も、どうせお前の『耳』には筒抜けだったんだろ」

 インシオンがばさりと金髪のかつらを脱ぎ捨てた。黒髪が太陽光を受けて蒼く翻る。しかしいつも見慣れた三つ編みは無かった。恐らくかつらに地毛を収めきる為だろう、レイよりも短く切られていたのだ。三つ編みをなびかせる姿も格好良かったが、この短髪にも目を引き寄せられてしまう。不謹慎とはわかっていつつも、エレの頬は我知らず熱くなった。

「あなたがエレと別れた時点で、あなたは既に私の『耳』に追われていたのですよ。ごまかしは効きません」

「だろうな」

 ソキウスの挑発にもインシオンは飄々と返し、にっと口元をつり上げる。

「お前の『耳』は対象を一人に絞れば正確だ。だが」

 それを合図にしたように、ヒョウ・カ皇王とソキウスの傍にいたイシャナの兵士が二人動いた。ソキウスが反応する間を与えずに剣が一閃。短剣はくるくると弧を描いて宙を舞い、離れた場所に突き刺さる。剣を振るった兵士がソキウスに当て身を食らわせてよろめかせると、その手が離れた隙に、もう一人の小柄な兵士がヒョウ・カ王の腕を引いて守るように進み出た。

「一人に集中してたら、他の奴の声を追えないんだよな」

 インシオンに呼応するように、二人の兵士が同時に兜を脱ぐ。

「やっほー、エレ」

「お待たせ」

 シャンメルが陽気に手を振り、リリムが口元をわずかにゆるめてみせる。二人が無事だった事、弟を救ってくれた事に、エレは胸を抑えて安堵の息を洩らし、それから満面の笑みを返した。

「ソキウス。お前が俺を恨んでいるのは気づいてた」

 インシオンが神妙な表情をしてソキウスに歩み寄る。

「だが、もう終わりにしろ。破神になって世界を壊して、それで何が残る? 何もねえだろ」

「何、も……」

 ソキウスが頭を抱え込んで崩れ落ちるようにその場に膝をついた。

「そうだ、何も無いんだ……。私には何も残されなかった。全部奪われたんだ」

 その灰色の瞳から、次第に正気の光が消えてゆく。恨みの炎が灯ってインシオンを見すえる。

「だから今度は私が奪うんだ! 貴様に全てを奪われたから、貴様から全てを奪って何が悪い!?」

 伸ばした手が短剣を再び握る。悪意の刃がインシオンめがけて突き出される。だが、エレが言葉にならない叫びをあげるより、シャンメルやリリムが動くよりも早く、二人の間に割って入る影があった。

 刃が肉を裂く音が耳に届く。エレは自分の見ている光景が信じられずに言葉を失って目を見開き、微動だにできなかった。

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