第1章 喪失(1)

 一体何者だろうか。

 震えて仕方ない身体を抱き締めながら、砂塵舞うような視界の中、エレは目の前の少年を見上げた。

『あなたを救いに来たんだよ』

 彼はそう言った。エレの名も呼んだ。エレが彼を知らなくても、彼はエレを知っている事になる。『アルテアの魔女』の名はフェルム大陸には鳴り響いているだろう。しかし大陸から遠く離れたこのアルセイルに、自分達以外のイシャナ人がいる事自体が不自然だった。

 警戒心を抱くエレとは対照的に、少年は屈託無い笑顔を披露しながら、左手で短剣を取り出した。そして至極当然のように、己の右の掌に刃を滑らせる。

「さあ、飲んで」

 滴り落ちる赤い流れが、とてつもなく魅力的に見える。惹きつけられるままにエレは両手を伸ばし、取りすがるように少年の手をつかむと、唇をつけた。舌に触れる血の味がひどく甘く感じられる。ごくりと嚥下すると、身体の底からこみ上げていた疼きが治まり、かつえた衝動が凪いでゆく。視界を遮る紗も取り払われていった。

 血に濡れた唇を舌で拭って、知らず知らずの内に笑みが浮かんでいたが、それに気づいた瞬間、はっと我に返る。自分は今、知らぬ男の血をすすって、満足気に笑っていたのか。こんな姿をインシオンに見られたら、何と思われるだろう。襲い来る後悔と羞恥でたちまち耳まで赤くなり、目尻に涙が浮いた。

「ああ、泣かないで、エレ。あなたに泣かれると、どうしたらいいか困るんだ」

 少年が狼狽えるように苦笑し、そっとエレの身体を両腕で包み込んで来た。インシオン以外の男性の腕に抱かれるなど、想像しただけで鳥肌が立つ行為だったはずだ。だのに、少年の腕は温かくて、言い知れぬ安堵感をもたらしてくれる。それが信じられないし、どうしてなのかもわからなくて、錯乱しそうになる。

「――エレ!」

 インシオンの声が耳に飛び込んで来たのは、その時だった。振り向けば、赤の瞳が唖然と見開かれ、こちらを凝視している。こんな姿を見られた。彼のその後の反応を予想して、いよいよ頭の中がぐちゃぐちゃになり、エレはぎゅっと目をつむり顔を伏せた。だが。

「あんたが『黒の死神』?」

 恐ろしく低い声が耳元で洩れた事に、ぎょっとして目線を上げる。少年は、エレに向けた優しさはどこへやら、明確な敵意を込めた瞳でインシオンを睨みつけていた。

「エレは僕の大事な人なんだ。でも正直、あんたはどうでもいいや」

 まるで仇にでも出くわしたような形相で、少年は憎々しげに言葉を継ぐ。

「エレを守れないで死んだあんたなんか、どうでもいい」

 意味がわからず、エレもインシオンも絶句してしまう。インシオンは生きてここにいる。なのに何故、「死んだ」と言うのだろうか。しかももう既に起こったかのごとく、過去形で。

「何をごちゃごちゃ抜かしてやがる」

 ますます混迷が深まるが、エレよりもインシオンが先に精神的に立ち直った。

「エレから離れろ!」

 床を蹴って一気に少年との距離を詰める。少年は唇を綺麗な三日月形に象ると、ぱっとエレから手を離し、身軽に後方へ跳躍した。インシオンの拳が空を切る。確実に捉えたと思った攻撃をかわされ、驚きながらたたらを踏む彼目がけて、少年が素早い蹴りを繰り出した。振り向いた顔にもろに一撃を食らってよろめくインシオンの鳩尾に、少年は更に容赦無く拳を叩き込む。

「がっ……は!」

 インシオンがたまらずに苦悶の声をあげて、その場にうずくまった。

「なあんだ、弱いじゃない。本当に英雄だったの?」

 少年が心底がっかりした、という表情を浮かべて、続けざまに踏みつけようと足を上げる。エレは慌てて駆け寄り、二人の間に割って入った。

「やめてください!」

 両手を広げて制止すると、少年は、理解しかねるように眉をひそめて足を下ろした。

「何? そんなに弱っちいのに、そいつがいいの? あなたの趣味、わからないな」

 本当にわからないとばかりに、彼は首を傾げる。鯉口を切る音がしたかと思うと、彼は腰に帯びた剣を抜いていた。引き抜かれた刃を見て、エレはまたも驚く羽目になる。少年が手にしたのは透明な刀身。鋼水晶の破神タドミール殺しの剣であった。

「いっそここで殺したら、どうなるんだろ」

 相変わらずエレ達には理解不能な台詞を吐いて、宵闇を受けて漆黒に沈み込んだ透明な切っ先が、インシオンに向けられる。発せられる殺意は本物だ。エレがここから動いたら、この少年は一分の躊躇いも無くこの場でインシオンの首を落とすだろう。エレは全身にびっしり汗をかくのを感じながら、少年を凝視した。

 しかしそこに、新たな音が訪れた。空を裂く刃の音。それを聞いた瞬間、少年が舌打ちして一歩身を引いた。エレの目の前に飛び込んで来た小柄な影が、剣を振り下ろし、少年を退かせたのだ。

「やっぱり来たんだね」

 少年が鬱陶しげに翠眼を細めて、第三勢力の名を呼んだ。

「ミライ」

 応えるように、剣を振り下ろした体勢のままだった小柄な影が、おもむろに身を起こす。肩口で揃えられた赤銀の髪と、少年のものと対のような造りをした鋼水晶の剣が、エレの視界に焼き付いた。

「カナタ」

 発せられた声は、まだ少女のものだった。普通にしていたら愛らしいだろう声色を、意識して極限まで低めて、相手を威嚇しようとしている。アルテアを使うエレだからこそ聴き取れる変化であった。

「これ以上お前の勝手にはさせない」

「何でかなあ」

 正眼に剣を構える、ミライと呼ばれた少女に対し、カナタと呼ばれた少年は、不可解そうにこうべを振って肩をすくめる。

「何で僕の邪魔をするの? ミライの為でもあるんだよ?」

「お前に私の人生を任せるつもりは無い!」

 あくまで飄々としたふうのカナタに対し、ミライの声音には余裕が無い。触れる者全てを容赦無く切り裂いてやるとばかりの、本当に切羽詰まった人間の発する声であった。

 少年と少女は睨み合い、張り詰めた空気が流れる。

「あーあ。もういいや」

 先に視線を逸らしたのはカナタの方だった。興が殺がれたとばかりに唇を尖らせると、悠然と剣を鞘に収める。

「皆の顔も見られたし、今日はこれで帰るよ」

「待て!」

 ミライの制止も聞かず、カナタは踵を返す。歩み去る彼が振った右手を見て、エレは見間違いかとまたたきを繰り返してしまった。短剣で切りつけたはずの彼の掌は既に血が止まるどころか、傷痕すら残していなかった。それだけではない。その手首にはまっているのは、古びて疵もついてしまっているが、エレが今しているものと同じ、緑色の硝子製の腕輪であった。

 さしあたってインシオンに害をなそうとする存在が立ち去った事に、エレはほっと息をつく。しかし、振り返った少女が向けた視線に、脱力しかけた身体が再度硬直してしまった。

 ミライと呼ばれた少女が、血のような赤い瞳でエレを見つめていた。そこに親愛の情は欠片も無い。敵意を込めた昏い炎が燃えている。

「……あなたがエン・レイですね」

 透明な刃が、今度はエレに向けられる。

「死んでください。世界の為に」

 一瞬、何を言われたのかわからなくて、ぽかんと口を中途半端に開く情けない顔をさらしてしまった。落ち着きかけた頭がまた困惑の渦に陥る。インシオンを殺すと言う少年が去ったと思ったら、今度はエレに死ねと言う少女が現れた。一体全体、何が起きているのだろうか。唖然とするエレの喉元に、鋭い切っ先が触れた。

 しかし、少女の剣がエレの喉を切り裂き血を溢れさせる事は無かった。

「ったく、後から後から何なんだよ」

 付き合ってらんねえ、とぼやく声と共に、ぐいと肩を引かれる。今度はインシオンがエレをかばって少女の前に立ち塞がった。

「死んだだの、世界の為だの、今時のガキは筋道立てて説明する事もできねえのか」

 赤い瞳が静かに怒りをたたえて睨みつけると、少女は明らかにひるんでぐっと言葉を呑み込んだ。何かを言いたげに一度、二度躊躇し、

「筋道を立ててお話ししたところで、あなた方が納得してくださるとは思えません」

 諦めを孕んだ声色でぽつりと洩らす。話し合う事を最初から完全に放棄している。エレはミライの閉ざされた感情を鋭敏に感じ取った。だからと言って、こちらも知る事を断念してしまっては、何の解決にもならない。

「納得するかしないかは、聞いてみなければわからないでしょう?」

 エレの言葉に、ミライだけでなくインシオンも驚きの目を向ける。

「……どうして、あなたは……」

 たちまちミライが泣きそうな顔になってうつむき、独言した。それから気を取り直して、再度エレを見すえる。

「これだけ申しておきます。私達は、あなた方の想像のつかない所から来ました。そして時の彼方を見る事ができます。そこでは、エレ、あなたのアルテアが世界を滅ぼします」

 やはり理解不能だ。自分から近づこうとしたのに、エレの心はミライの言葉を受け止める事を拒否してしまった。いきなり自分が世界の破壊者だと言われて、はいそうですかと納得する人間が、どこにいるだろうか。

「覚えていてください。私はいつか必ずあなたを討ちます。それが世界の為です」

 一方的に言い切ると、ミライは背を向け走り出した。咄嗟にインシオンが追おうとしたが、少女は身軽に跳ねて外の林へと飛び込み、あっという間に闇に溶けた。

 差し当たって、目前の脅威が去った事に、エレは今度こそ全身の力を抜いて大きく息をついた。両手を床についた時、肘が笑うように震えている事で、極度の緊張状態にあった事を今更ながら思い知る。

「大丈夫か」

 いたわるような声が降って来て、温かい腕がすっぽりとエレを包み込んだ。インシオンの腕だと気づくのにしばらく間が必要だったが、わかった途端、とてつもない安堵感が訪れる。それと同時に、カナタに抱き締められて同じように安心してしまった自分に対する嫌悪感に襲われる。

「何が起きてるのかわからねえが、お前を死なせはしない。あのガキどもからは俺が守ってやるから、安心しろ」

 こんなに優しい言葉をインシオンがかけてくれるなんて滅多に無いのに、首肯を返せない自分がもどかしくて、エレは唇を噛む。不安の種は既に心の中で芽を出し、びっしりと根を張っていた。

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