第3話 触手令嬢、運命の出会い
その朝突然、少年は触手モンスターに襲われた。
魔物を見たのも襲われたのもこれが初めてではないが、一人でいるところにいきなり飛びかかられたのは彼の生涯初である。
大きな真っ青の眼球二つに、桜色の胴体。巨大な芋虫のようにも見える姿だが、その身体のいたるところから無数の触手が生えて、彼を拘束した。
そしてそのままざんぶと湖に飛び込まれ、首を絞められ。
意識が遠くなり、ここまでかと思ったその時――
異変が起きた。
何故か、襲いかかってきた魔物の方が、苦しみ、もがいている。
今の今まで彼を絞めつけていた触手が緩み、あっけなく解かれる拘束。
彼は無我夢中で水面まで浮き上がり、ぷはっと大きく息を吸い込む。
――あぁ。
俺、やっぱり、生きたいんだ。
そんな想いが一瞬、彼の胸を満たした。
水をかきながら急いで岸辺に戻ろうとしたが、後方ではまだ魔物がもがいている。
それも、彼にも分かる言葉を叫びながら。
「し……死にたくありません!
こ、こんなところで! せっかく運命のかたに出会えたというのに!
神さま、こんな結末がわたくしの運命だとでも!?
嫌です! 嫌、嫌、いやぁあああぁああ~~!!」
随分はっきりとした、しかもやや上品な言葉で叫ぶ魔物。
彼か彼女かもよく分からないが、そのかん高い声と口調からするともしや、この魔物は女性なんだろうか。
いや、男でも女でも関係ない。たとえ魔物だろうと――
助けを求めているのなら、やることは一つだ。
一旦は岸辺に戻ろうとした彼だが。
思いきり息を吸い込むと、もがき苦しみ続ける魔物のところへ、真っすぐに泳いでいく。
濡れた服が酷く重かったが、それでも彼は魔物のもとへ何とか到着した。
しかし触手の魔物はそれにも気づかず、バシャバシャ飛沫を飛ばしながらなおもゴボゴボもがき続ける。
「あ、あぁあ、どなたか助けて、助けてくださ~い!!」
「お、落ち着け! 落ち着けって!
このままじゃ本当に溺れちまうぞ!?」
暴れ狂う触手が、近づこうとした少年の頬や腕をバシバシ打つ。
それでも、先ほどと比べると明らかにその力は落ちていた。
多分、本当に死にかけているんだ。そう気づいた少年は、思い切って魔物の身体をぎゅっと抱き寄せた。
恐らく死への恐怖で我を失っているのか、彼の行動にも気づかず暴れ狂う触手。
『彼女』の手は容赦なく少年の背中を打ち続けたが、それでも彼は『彼女』を離さなかった。
「大丈夫……大丈夫だから!
ゆっくり、落ち着いて、俺につかまれ。
泳げないなら、俺が連れてってやるから!」
*****
目覚めた時、最初にわたくしの眼球を刺激したものは、眩しい太陽の光でした。
ふぅ。どうやら、危機一髪のところを助けられたようです。
わたくしとしたことが、何と情けない。興奮のあまり自我を失ってしまうとは。
岸辺に横たえられたらしきわたくしの上から、誰かが覗き込んできました。
太陽の影になりよく見えませんが、どうやらまだ小さな少年のようで
――って、こ、ここここ、これは!? か、彼は!!?
大きな若草色の目で、じっとわたくしを見つめているのは、紛れもない――
あの運命のお方です。
やや癖のある緋色の髪の毛はびっしょり濡れて、前髪の先から水晶のように美しい雫がわたくしの上に落ちておりました。あぁ、飲みたくてたまらない。
「!!
もしや、貴方が……わたくしを、助けてくださったのですか?」
人語を解するわたくしにちょっと驚いたのか、彼はくりっとした目をさらに大きく見開きましたが。
すぐにこくりと頷き、そっと微笑んでくれました。
やはり思った通り、笑うととても可愛らしい。いや、笑わなくても十分可愛らしいですが。
「良かった、無事で。
じいちゃんから、いつも言われてるんだ。
困ってる者に、人も魔物もない。助けを求める者がいるなら、迷わず手を差し出せって」
ずぶ濡れの姿のまま、少年は白い歯を見せて笑いました。可愛らしい八重歯がお口の右端でちらりと覗いています。
あぁ……思った通り、魂まで清冽な少年。
わたくしは思わず、全ての触手を盛大に振り上げながら高らかに宣言していました。
「決めましたわ!
貴方はわたくしの、運命のお方です。
わたくしは貴方をこの身に抱き、生涯を共にすることを誓います!!」
そんなわたくしの宣言に、思わずのけ反って目をぱちくりさせてしまう男の子。
ぴったりと肌に張りついた水兵服から、健康的な肌色が透けて見えます。
桜色がうっすら映し出されている若草色の瞳。多分、わたくし自身の姿でしょう。
このかたの瞳にわたくしが映ると、こんなにも魅力的で不思議な色合いになるのですね。
「え? あ、あの……
お前が何を言っているのか、よく分からないんだけど……?」
「あぁ、失礼。申し遅れました。
わたくし、触手族の由緒正しき貴族、エスリョナーラ家の令嬢。
ルウラリア・ド・エスリョナーラと申します。
このたびはわたくしを助けていただき、本当にありがとうございます」
右側の触手を胸元に当て、わたくしはそっと頭を下げます。
男の子は岸辺にぺたんと座ったまま、穴のあくほどわたくしを見つめていましたが――
やがてまた、笑顔に戻ってくれました。
「へぇ……面白いな。魔物にも貴族っていたんだ」
「当たり前ですわ。人間世界にあるものは、魔物の世界にもあるものです」
「でも、その貴族令嬢様が、なんでまた俺なんかに襲いかかってきたんだよ?」
「そりゃあもう、可愛いからですわ」
「……へ?」
ぽかんとわたくしを見つめる男の子。
「触手族とは、強くカッコよく可愛らしい人間を力いっぱい抱きしめることで、養分を摂取して成長する魔物なのですよ。
その点……えぇと、貴方は」
しまった、まだお名前を伺っていませんでしたわ。
それにすぐ気づいたのか、彼は自分から名乗ってくれました。
「あぁ、俺の方こそごめん。
俺の名前はヒロ・グラナート。
この近くの屋敷で、じいちゃんと一緒に住んでる」
「ヒロ様、ですね。
緋色の髪に似合う、良いお名前です!」
やはり、可愛らしいかたは名前まで可愛らしいものです。
「えぇ……
俺、そこまで褒められたこと、全然なかったけど」
「いえいえ、とんでもない!
貴方はわたくしにとって、まさに理想的な存在なのですよ」
滔々と説明するわたくしを、呆れたように見つめるヒロ様。
しかし、やがてその表情には、何故か影がさしてきました。
「……俺、そんな大した人間じゃないよ」
ヒロ様は視線を逸らし、うつむいてしまいました。
憂いを帯びたこの横顔もまた良いものですが……
今の言い方は、ちょっと気になりますね。
「そういえば何故、ヒロ様はお一人でこのような場所へ?
今日は人間界で言えば平日のはずでございましょう? ヒロ様のお年であれば、学校に行かれていても……」
「……!!」
わたくしがそう言った瞬間、ヒロ様はキッと顔を上げてわたくしを睨みました。
濡れそぼった髪もそのままに、悔しげに唇を震わせるその表情も最高です、最高なんですが
――どうやらわたくし、地雷を踏んでしまったようですわね。
「あぁ……申し訳ありません。
お話になりたくないのであれば……」
「ううん……いいんだ。
どうせ俺なんて、学校じゃ誰からも嫌われると思ってた。
だから、ちょっと意外だっただけ」
悲しそうにふるふると振られる緋色の髪。
その唇から零れた言葉は――
およそ、この年齢の子供からは考えられないものでした。
「俺……
死のうと思って、ここに来たんだから」
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