第61話 ファースト・キス
「こ……これが、『魂術』?
僕も初めて見る……」
すぐ背後で、会長が驚きの声を上げていた。
それでもヒロは両腕の力を緩めない。彼のかざした光はまるで真剣白刃取りの如く、ルウの触手を正面から受け止めていた。
暖かなエメラルドの光を前に――
凍りついていたルウの瞳が、ほんの少し揺らいだ。
紅に染められた眼球がヒロの光を映し、奥底にわずかに元の青が、消えかけている蝋燭の炎のように小さく揺れた――ように、思う。
あぁ。ルウはまだ、俺を覚えてる。ちゃんと覚えている。
光を翳すヒロの口元には、自然と微笑みさえ浮かんだ。自分でも驚くほど、穏やかな言葉と共に。
「もう大丈夫だ、ルウ。
俺はちゃんと、お前についていくから。
――だからもう、みんなを傷つけないでくれ。
俺、お前とだったら、どこまでも一緒に行くからさ」
そんなヒロの言葉を聞いているうちに、ルウの触手から徐々に力が抜けていく。
ヒロと会長に叩きつけられる寸前で、静かに降ろされていく巨大触手。
そのかわりにその合間から、小型の蛇ぐらいの細めの触手が伸びてきた。
先ほどヒロの身体を絡めとったものと同じだ。するするとヒロの手首や脇に絡み、軽々と彼を拘束していく。
それでももう、不思議とヒロの気持ちは落ち着いていた。
――大丈夫。ルウはまだ、完全に自分を見失ったわけじゃない。
ちゃんとこの光を、俺のことを、覚えているんだから。
ヒロはもう抵抗せず、身体に絡んでくる触手に身を任せていく。
翳した光でルウを包みながら、触手の表面をそっと撫ぜてみた。
いつもぬめぬめして少し気持ち悪かったが、ヒロを抱くたび桜色の表面が紅に染まり、優しく暖かだったルウの触手。それが今は、とても冷たい――
内部を流れる体液さえ凍りついてしまったかのようだ。腰や首元、腕に太ももを這い回る触手はただただ黒ずみ、ひんやりと冷え切っていた。
裾の間から入り込まれ脇腹あたりを撫でられた時は、思わず悲鳴を上げかけたほどに。
――ヒロにとってはその冷たさが一番、悲しかったけれど。
それでも彼はもう一切ルウに抵抗せず、彼女に抱かれるままだった。
無数の触手に抱かれ、すうっと宙に持ち上げられていくヒロ。
ルウが最初に出現した天の結界が、再び音もなく開かれていく。
その奥は、黒い霧と無数の魔物がひたすら渦を巻き、ほぼ何も見えない。空にぽっかりと開いた穴は全ての希望を吸い込むように、あんぐりと口を開けて何かを待っている。
それでも、ヒロは確信した。
――あそこだ。
あの向こうに、レズンがいる。
ヒロを捕らえたまま、ゆっくり静々と上昇していくルウ。
しかしそこへ響いたものは、会長の絶叫だった。
「駄目だ、ヒロ君!
行っちゃいけない!!」
見ると会長は未だ諦めず、血まみれの両手で術を発動させかけていた。
その後ろではサクヤが必死でミソラとスクレットに治癒術をかけながら、事態を見守っている。
「レズンの狙いが何か、正確なところは分からない。しかしルウさんを使ってまで、君を再び傷つけようとしているのは間違いない。
これほどの被害を周囲に及ぼしながら、それでもヒロ君。君を痛めつけようとしているんだ。殺されたっておかしくないよ。
そんな相手のところへ、一人で乗り込むつもりかい? 正気の沙汰じゃない!!」
分かってる。
きっとレズンは、どうしようもないくらい俺を恨んでる。
その原因が何かは分からない。でも――
ヒロは静かに顔を上げ、会長とサクヤを見据えた。
「ごめん、会長。
俺……やっぱり、レズンと、話したいんだ。
どうしてそんなに、俺が嫌いになったのか。ちゃんと知りたいから」
強い決意を秘めた若草色の瞳。
ヒロの眼光と言葉を前に、さすがの会長も一瞬声を失ってしまった。
「だ、だが……ヒロ君!」
それでも攻撃術の構えを解かない会長。
駄目だ。これ以上、会長もルウも戦っちゃいけない。
ヒロは今やルウの触手に全身がんじがらめにされながらも、思わず会長に叫ぶ。
「それにこのまま俺が何もしなかったら、もっと被害が広がる。
ルウもレズンも、もっとたくさんの人を傷つけてしまう。
俺、そんなことだけはしてほしくないんだ。ルウにも、レズンにも!」
そんなヒロの言葉に、会長も改めて周囲を見渡した。
既に気を失っているスクレットにミソラ。自らも傷つきながら、彼らを治癒しようとするサクヤ。
ヒロがルウに身を委ねてからは、周囲の魔物たちは操られた生徒たちも含め、一旦沈静化していたが――
もう一度暴れ出されては、今の会長だけで対処しきれるかは大いに怪しかった。
既に教師たちや救急隊、憲兵隊にさえも負傷者が多数出ている。攻撃術をまともに撃てる者さえ、もう何人も残っていなかった。
「詰み……か」
もう、全てをヒロに委ねるしかない。
勇者を、人々の希望を、
そう悟った会長は、遂に術の発動を諦めて両腕を降ろした。どう考えても、勝てるわけがない。
ボロボロの身体から、一気に力が抜けていく。魔王の末裔としての血さえ、限界に達しつつあった。
それでも会長はキッとヒロを睨み、声を限りに叫ぶ。
「ヒロ君! 忘れないでくれ。
君の校章。いざとなったら、使うんだ」
「えっ?」
「僕はいつか、君に言ったよね。
もしもレズンが悪意をもって君を傷つけようとするなら、君は断固たる意志でそれを払いのけ、自身の正義を示さなければならない。
彼が君にとって大切な存在なら、なおさら――」
既に触手が手首に巻き付いている右手を何とか動かし、ヒロは胸元の校章に触れた。
それは、今までほぼ使っていなかった、会長の力を秘めた校章。
学校でのこの戦いにおいても、ヒロは自分の術は使えても、校章にまでは手を出さなかった。いや、出せなかった。
これを使えば、レズンとは二度と元に戻れなくなる――そんな気がして。
だが校章は今、その存在を示すかのように、ほのかな金色の光を放っている。
「本来、彼と君を一対一で相対させるのは、通常時であってもとても危険なことなんだ。
理不尽な暴力を常にふるってきた相手にたった一人で立ち向かえば、殺されたっておかしくない。
しかも恐らく相手は一人じゃない。操られたルウさん以外にも、無数の魔物が控えている可能性が高い。
君は今、絶対にやってはいけないことをしようとしている。それだけは分かってほしい」
「……」
会長の言葉に、ヒロは改めてごくりと唾を呑み込んだ。
ルウの触手の冷たさ。天に開いた結界の暗さ――
それらが全て、この先にヒロの味方はいないことを示している。
「とはいえ……君にそうさせざるを得ないのが、今の僕らの状況だ。
だからせめて、自分の身は最優先で守れ。その校章は、ルウさんと君自身を助ける為に使うんだ。
勿論僕も、すぐに対策を考える。君がどうにかなってしまう前に!」
その言葉で、ヒロはもう一度校章の感触を確かめた。
菖蒲を象った校章。その花弁にあたる部分が、ちくりとヒロの指先を刺激する。
そう――俺は、レズンと戦うんじゃない。
ルウを助けて、レズンと話をする為に行くんだ。
決意を固め、ヒロは会長に向かってこくりと頷いた。
「分かってる……
ありがとう、会長」
そんなヒロの首に、さらに巻き付いていくルウの触手。
もう全身が触手に包まれ、軽々と身体ごと持ち上げられ、ろくに後ろを振り返ることさえ出来ない。
それでもヒロはそんなルウの触手を拒まず、静かにそのうちの一本を手に取った。
まるで花を手に取るように、優しく。
「ルウ……頼む。
俺をレズンのところへ、連れてってくれ」
ヒロの穏やかな言葉。
それを聞くと同時に、ルウの紅の眼球がギロリと輝き、上昇速度が一気に早まった。
天を侵食する黒い渦も急激にその中心部に向けて動きを変え始め、やがてヒロとルウだけを吸い込むかのような超局地的な強風が巻き起こった。
「死ぬなよ、ヒロ君!
必ず助けに――」
会長の叫びすら、それ以上聞こえなくなってしまった。
どんどん地表が遠くなり、会長やサクヤたちの姿も一気に豆粒のように小さくなっていく。
まるで、自分たちのところだけ重力が逆転したかのような突風にあおられながら――
それでもヒロの両手から、勇者の光は失われていなかった。
強くはないがほんのりと柔らかい光で、ヒロはルウの触手、その先端を包みこむ。
今やあらゆる触手がヒロの身体を縛りつけ、まるで冷え切った鋼鉄の塊の如く、ギシギシと四肢を絞めつけてくる。
それでも――少しでも、俺の体温でルウの暖かさを取り戻せないか。
「ルウ、大丈夫だって。
そんなにきつく縛らなくても、俺、もう逃げたりしないからさ」
そう呟きながら――
ヒロはそっと、ルウの触手。その先端に、優しく口づけた。
唇からも伝わってくる、ルウの冷え切った体温。
本来のルウだったら、こんなヒロの行為には飛び上がるほど驚き、そのまま昇天した恐れさえあるだろう。
それなのに今のルウは、全く反応がない。
冷たいままの体温。紅に染まったままの眼球。戻らないルウの魂。
たまらない悲しみがヒロの胸を絞めつけたが――
それでもヒロは、ルウをしっかり抱きしめたまま、その触手から離れようとしなかった。
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