第62話 クズ、王となる
天空の結界、その向こう側――
そこはまさに、魔の瘴気に満ちた場所だった。
地平線の遥か向こうまで続いているように見える、黒々とした森。森といっても木々の芽吹きを感じさせるものは何もなく、焦げて枯れ果てた黒い幹に、灰の塊のような葉が無数にくっついている――そんな木が無数に大地を覆い尽くしていた。
空はどんよりと重い黒雲がたちこめ、常にそこかしこに落雷が発生している。
そんな森の中、隕石の落下跡の如くぽっかりと口を開けている巨大な湖があった。それも、まるでコンパスで描いたかのように、不自然なまでに正確な円を描いている湖が。
水は澄んでいるが、空と周囲の森を映して真っ黒に染まっていた。じっと見つめていると、何故か血の紅に見えてくるような黒。
そして湖の中心部には、小さな島がぽつんと存在している。
やはり森と同じく黒い木々に覆われているが、中心部が不自然に盛り上がった草原となっていた。
ど真ん中には、刈り込んだ木々を無造作に積み上げたような黒い塊がある。
枝を不器用に積み上げ、崩れてしまいそうな部分は無理矢理泥で埋めて固めた――
それはまるで、小さな子供が造った崩壊しかけの玉座。
その場所に今、レズン・カスティロスは脚を組んでふんぞり返っていた。
一時的に空の結界が晴れ、巨大触手生物が天から出現する。
その巨体は勿論、ルウラリア・ド・エスリョナーラ。
レズンが『魔妃の角笛』を使い、見事自分の奴隷に仕立て上げた、最強の魔物だ。
その彼女は今、静々とレズンの前へと降りてくる。レズンがこの世で最も忌み嫌い、同時に最も欲してやまないものを抱えて――
ルウが島に近づき、風が、黒い葉が舞い上がる。
その触手に抱かれたもの。それはこの黒一色の世界で、唯一生き生きとした色を放っていたといっていい。
少しバサついた緋色の髪。純白とスカイブルーのコントラストが鮮やかな水兵服。細いけれど血色の良い、白い肌。
そして何より印象的なのは、大きく見開かれた若草色の瞳。
――勇者の力を秘めた少年、ヒロ・グラナート。
ルウの触手によって完全に手首足首を拘束されていた彼は、彼女の着地とほぼ同時に地面に投げ出された。
唾でも吐き捨てるかのようにヒロを放り出すルウ。突然のことにヒロも対処出来ず、思わず草むらに尻もちをついてしまった。
何故かこの時点で顔は真っ赤。涙目になりながら、ヒロはルウに向かって膨れている。
「る、ルウ! このバカ!!
いつも言ってるだろ、下着の奥にまで触手入れるのだけはやめろって!
いくら男だって、そーいうの恥ずかしいし痛いことだってあるんだから……その……っ!!」
触手の締めつけがきつかったのか少し咳き込みつつ、恥ずかしそうに太もものあたりを押さえるヒロ。
しかしルウはそんなヒロに見向きもしない。レズンに対して恭しく跪き、音もなく頭を下げるルウ――
こうなる前の彼女であれば、舌を噛み切ると言い放ったであろう行動。レズンへの無条件の恭順。
それを見て、レズンは満足げな笑みを唇に浮かべた。
「良くやったぞ、ルウラリア。
お前はいつでも素直で、しかも仕事の出来る女だなぁ」
「我が主よ――滅相もございません。
この命にかえても我が主を守り、その願いを叶える。それこそが我が使命でございます」
「それ聞いて安心したぜ。お前はどこまでも俺のモノだ、ルウラリア」
今やすっかり黒く染まったルウの髪を、ぐしゃぐしゃと乱暴に撫でるレズン。
明らかに横暴な手つきにも関わらず、ルウは一切抵抗しなかった。
そしてレズンは、その背後でぺたんと座っているヒロに視線を向ける。
最初ヒロは何が起こっているのか分からず、呆然としてルウとレズンのやりとりを見つめていたが――
やがてその瞳が、怒りの色に染まっていく。レズンがルウの髪を撫でつけるたびに。
――成功だ。
俺はヒロの大事なものを、まんまと奪った。
今のヒロが、何よりも心の支えにしていたものを。
もうこいつは、俺の手でどうにでも出来る。しかも、学校と違って誰も邪魔するものはいない。手下のゴミどもの目を気にする必要もない。
さて……どうしてやろうか。
レズンはふと、ヒロの左肩に目をやった。
ここに来るまでに怪我をしたのか、包帯の巻かれた左肩。その下からはじわりと血が滲み、水兵服の白をわずかに汚している。
その血の匂いを感じただけで、レズンはたまらないほどの興奮を覚えた。
あぁ――お袋の言った通りだ。
俺には確かに、魔妃の血が流れてやがる。
だから勇者たるあいつの血を見ただけで、欲しくなる。
その得体の知れない感情のせいで――俺はずっとずっと、苦しかった。
それは俺自身の感情か、魔妃の末裔としてのものなのか。さっぱり分からんが……
しかしそんなことは今や、どうでもいい。
ヒロ。もう、お前の全ては俺の手の中にあるんだから。
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