第94話 彼を信じる、その理由 

 

 ヒロがレズンにほぼ強引に傷口に薬を入れられ、数分後。


「はぁ、はぁ……うぅっ……!」


 痛みに顔をしかめ、左腕を押さえるヒロ。

 それでもほんの少しだけ、薬が効いてきたのか。骨まで抉るような痛みはいつの間にか引いていた。

 傷の上から不格好ながらもガーゼが貼られ、包帯も巻かれている。

 シーツもワイシャツも血まみれだったが、もう出血自体は止まっているようだ。

 まだかすかに外の雨音が聞こえる。ほのかな水晶の光が、窓から射し込んでくる。

 そっと頭を回すと――


 疲れ切ったレズンが、ベッドのすぐそばの床に座り込んでいた。

 座りこんだまま、じっと――


 ヒロを見据えていた。


 舐めるように自分を眺める視線。

 ヒロの身体は思わず震えてしまった。レズンの両手には、黒く固まった血がこびりついている。

 それでもヒロはどうにか痛みに耐えながら、それでもぎこちない笑顔を作ってみせた。



 ――そうだよ。俺は最初から、レズンとこうやって話をしたかったんだ。



「へ、へへ……

 やっぱり、レズンは優しいや。

 ちょっと痛かったけど……あ、ありがと」



 必死で笑顔を作りながらも、声が震えている。自分でも分かる。

 それは多分、目の前の相手に何度も刻みつけられた恐怖に、身体が反応してしまっているから。

 でも――大丈夫。大丈夫だ。

 そう自分に言い聞かせながら、ヒロは改めてレズンを見つめた。



 やっぱりレズンは、昔と変わってないはずだ。

 こうして不器用ながらも、必死で俺を手当してくれた。

 そうだよ。中等部に上がってからだって――レズンは俺を傷つけてくるばかりじゃない。

 助けてくれたことだって、あったじゃないか。あの時だって――



 しかし、ヒロが考えを巡らせていると。

 不意にレズンが口を開いた。思わず震え上がるほどの低い声で。



「お前……

 俺と話したいとか、言ってたけどよ。

 そもそも、俺に何を話すつもりだったんだ。てめぇは」



 声を聞くたび、傷口が疼く。身体が恐怖を感じている。

 それでもヒロは思い切って、喉から言葉を振り絞った。

 大丈夫。大丈夫だ。何を震えているんだよ――必死で自分に言い聞かせながら。



「なぁ……レズン。

 俺、やっぱり知りたいんだ。

 レズンがどうして、俺におかしなことばかりするのか。

 今だって、俺を助けてくれたのに……

 何で学校じゃ、俺を傷つけてばかりいたのか」



 治療の為に破られた、ワイシャツの左袖口。それを無意味に弄りながら、ヒロは顔を上げた。

 ヒロのまっすぐなエメラルドの瞳と、何を考えているのか分からないレズンの灰色の瞳。

 互いの視線が、かちあう。



「俺だけじゃない。

 ルウも、サクヤも、会長も……

 スクレットもソフィも、みんな傷ついた。

 俺だけがレズンに悪いことしたのなら、俺だけを責めればいいじゃないか。

 なのにレズンは、俺だけじゃなくて周りのみんなも……ルウまで、傷つけた」


「だから何だよ」


「だから――謝ってほしい。

 ルウにも。勿論、サクヤや会長にも。出来ればスクレットやソフィ……

 それに、学校のみんなにも。先生までケガ、しちゃったんだから」



 ぽつりぽつりと話し始めるヒロ。

 その脳裏に思い浮かんだのは、ほんの少し前の記憶。

 まだ、レズンによる暴行が本格化していなかった頃の――

 ヒロが未だにレズンを信じ続ける、その理由の根幹となっている記憶だった。



「レズンは……中等部に上がってから、俺に当たり始めたけど。

 それでも、助けてくれた時だってあったじゃないか。だから俺……」


「覚えてねぇな。いつの話だよ」


「中等部に上がったばかりの頃。まだ俺がクラスに馴染めてない時だよ。

 全クラス合同の課外実習で、その……

 俺、ちょっとした騒ぎに巻き込まれたこと、あっただろ?

 ケンカっぱやい奴らと一緒のグループにされて、開墾作業を見学してた時……」



 その時のことを思い出して、ヒロは思わず身震いした。

 あれはまだ初春の頃――まだ寒い時期で、制服も長袖だった。



 もう最初の試験が終わって、レズンは俺に冷たくなってて。

 不安になりながら何度も話しかけたけど、拒絶されるばかりで。

 ――だんだん苛ついたのか、しょっちゅう俺を叩いたり蹴ったりするようになった。

 ちょっとしたつかみ合いぐらいなら、小さい頃から何度となくやってたし、初めはふざけているだけだと思ってたけど……

 中等部に上がって腕力も上がったレズンの一発一発は重くて、とても痛かった。

 あの事件が起きたのは、そんな時だったっけ。



「俺、あいつらに人けのない沼のほとりまで連れてかれてさ。

 そこで散々、滅茶苦茶にされた。

 殴られもしたし、何度も泥水をぶちまけられたし……

 それに、あいつらの中にはオーク族もいただろ。普段から結構乱暴で、どの先生の言うことも全然聞かないで、勝手に女子トイレにまで入り込んでたヤツ」



 あの時の恐怖を思い出すと、自分でも分かるくらい唇が冷たくなってくる。

 自分よりかなり背も高く横幅も広い奴らに取り囲まれ、わけの分からない言いがかりをつけられ、一方的に殴る蹴るの暴行を受け羽交い絞めにされ、頭からバケツ一杯の泥を何度も何度も浴びせられた。

 その上喉に無理やり泥を押し込まれ、助けを求めて叫ぶことさえ出来なかった。

 そんな自分を嗤いながら見据える、幾つもの冷たい眼。

 中でも、オーク特有の獰猛な真ん丸の眼球を持つそいつは恐怖だった。感情の見えない黒い眼で俺を眺めまわしながら、ずぶ濡れになった身体のあちこちを触りまくって――



「あいつ、後から聞いたけど……学校だけじゃなくて町でも変態として有名だったみたいだな。

 サクヤも言ってたよ。同じオーク族の女の子が泣いてたって……あんなヤツは自分たちの恥でしかないってさ」



 何とか軽く笑い飛ばそうとするヒロだが、声は明確に震えている。

 あの時、顔の近くまで迫ったオークの荒い鼻息。ゴワついた顔面の毛並み。どんなに顔を背けようとしても、執拗に耳や首すじを舐めてくる舌。

 レズンは岩のように固く唇を引き締めたまま、そんなヒロを見据えていた。



「でもさ。

 あの時、レズン、助けに来てくれたよな。

 あいつらを全員殴り飛ばして、俺を助けてくれたんだ」


 

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