第38話 クズ、誘惑される

 

 冗談じゃない。

 そう叫ぼうとしたが、恐怖と羞恥で喉が引きつって声が出ない。

 ネグリジェの下に着けた、レースの肌着が透けて見える。気持ち悪い。



「だってあの人、散々怒鳴り散らしてすぐまた出ていっちゃったんだもの……

 どうせまた、あの女のところに決まってる」



 レズンの腕にしがみつきながら、恨みがましくそっと呟く母親。

 親父を『あの人』と言い捨てるのも、もう慣れた。『あの女』は……どうせまた、どこかで引っかけた女だろう。

 親父が俺とこの母親に愛想を尽かしてから、もうどれほどになるだろうか。

 たまに屋敷に戻ってきたと思ったら俺をなじり、俺やこいつを殴りつけてはさっさと出ていく。

 そのたびにこの女は、俺に執拗に甘えてくる。

 プライベートなんかあってないようなもので、寝ているところに潜り込んでくるのもしょっちゅうだ。まさか今それをやられるとは思わなかったが。


 昔はこれでも、それなりに家族としてやってきたはずなのに――

 俺の不出来がきっかけだったのか、元々の親の性質のせいか。それすらももう分からない。


「や……やめてくれよ。

 俺、眠いんだ。一人で寝かせてくれよ、子供じゃないんだから」


 やっとのことでそれだけ呟くレズン。

 だが母親は息子の言葉が聞こえなかったかのように、一人で歌うように喋り続ける。



「私たちにはもう、何もないわ。

 あの人は最初から、私たちなんか見ていなかった。

 あの人は私の力が欲しかっただけ。私の血筋が欲しかっただけなのよ」



 うるさい。俺が落ちこぼれず優秀だったなら、親父もあぁはならなかった。そう言いたいのか。

 しかし彼女は、息子の首筋に両手を添えながら、呟いた。

 息子の心の叫びなど、何も聞かずに。



「ねぇ、レズンちゃん。

 死のうか」



 蛇の如く首に絡んでくる、母親の指。

 氷のようなその冷たさに、思わずレズンの身体が凝固した。

 ヒロの暖かな肌とは大違いだ。



「だってみんな、私たちのことを馬鹿にするもの。

 みんな、私たちのことを見てくれないもの。

 だから貴方も、学校で暴れたんでしょう?

 レズンちゃん、ママは分かっているわ。貴方も寂しかったのよね?

 パパがあんな風だから、成績も落ちちゃって、誰も自分を見てくれなくて、何もかもうまくいかなくて――」



 違う。

 何もかもがうまくいかないのは確かだけど、誰も俺を見てくれないのも確かだけど。

 だけど、死のうとまでは思っちゃいない。

 この女はいつもそうだ。いつもこうやって、死ぬ死ぬと呟きながら俺を脅して、こんな風に逃げ場のないベッドの中まで俺を追い詰める。

 俺の、唯一の癒しの時間だったはずなのに――



「や、やめろよ。離れろ!」



 レズンはそう叫びながら、母親を振り払おうとする。

 その時――

 精一杯隠そうとしていたミラスコが、レズンの手から滑り落ちた。

 しかも悪いことに、母親の足元に転がっていく。ヒロの姿が映し出されたままのミラスコが。


「あら?

 これは……」


 狼狽するレズン。

 慌ててミラスコを取り返そうと起き上がったが、それより先に、意外に素早く母親はミラスコを手にしてしまった。

 写し絵が流されたままのミラスコを。

 酷い姿のヒロと、それを汚す自分が映し出されている写し絵を。

 まずい。アレを見られたら、いくらこの母親でも――



 ミラスコを手にしたまま、じっと黙り込む母。

 その顔からは、感情らしきものがすうっと抜け落ちている。

 ヒロの呻き声を聞きながら、一体何を考えているのか――

 黒々とした瞳の中を、ほんのり渦巻きながら映し出される赤。それはヒロの髪の色か、それとも血の色か。


 ――こいつはどんな地獄だ。


 レズンは完全に萎縮しながらも、慌てて母の手からミラスコを奪おうとしたが

 ――それより先に母の唇から漏れたのは、何とも異様な、理解しがたい微かな笑み。

 何故か、獲物を見つけた獣という形容が一番近い気がした。



「ふふ……

 とってもかわいい子じゃない」



 茫然とする息子を振り返り、そっと微笑む母親。

 その黒々とした瞳に、感情はまるで見えない。



「この子が好きなのね。レズンちゃん」



 ぞっとした。

 この女は俺のベッドのみならず、心にまで踏み込んでくる気か。


「違う。

 俺は、別にこいつのことなんか……!」


 レズンは必死で本心を否定する。

 ヒロは男だ、ありえない。ありえないだろ。

 それでも母はレズンをそっと抱き寄せ、耳元で囁いた。


「この子、そういえば見覚えがあるわね。

 貴方とよく遊んでいた子。こんなに大きくなったのね。

 でも、……あら?」


 何かに気づいたように、ミラスコを見つめたまま母は目を細めた。

 得体の知れぬ寒気を感じ、レズンは思わずぞくりと震え上がる。

 大昔の魔妃の末裔。その血がそうさせるのか。


 母はミラスコの表面に映ったヒロの幼い身体を、血の流れる肌を、愛おしげに撫でる。

 その口元で、ぴちゃりと舌なめずりの音が響いた気がした。



「ふふっ。そうだったのね……やっと分かったわ、ユイカ。

 貴方は、この子を――」



 そして――

 再びレズンを振り返った母。満面の笑顔。



「だいじょうぶ。全部、ママがやってあげるから。

 この子の身も心もぜぇんぶ、レズンちゃんのモノにしてあげる」



 思わぬ母の言葉に、心が揺れた。

 どういうことだ。ヒロの身も心も……俺のものに?

 決して手に入らないと思っていたものが。

 どんなに傷つけても汚しても、俺から離れるばかりだと思っていたものが。

 それでも、痛めつけずにいられなかったものが。



 ――俺のモノに、なる?



 その言葉に秘められた奇妙な誘惑は、母への嫌悪感を軽く上回っていく。

 揺れる息子の耳に、母はそっと囁いた。

 最後のとどめを刺すように。



「ねぇ、レズンちゃん。

 私がかなえられなかった夢を――貴方に、かなえてほしいの。

 お願い」


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