第50話 触手令嬢と初めての亀裂
夕陽の差し込む海辺の道で、ヒロ様の髪と水兵服の襟が、風にふわりとはためきます。
憂いを秘めたその横顔には、可愛らしさを超越した美しささえ感じました。
これもまた、修行の賜物でしょうか。
「だから、さ。
あいつらに言ったことが、今の俺の精一杯なんだ。
多分、俺……
誰かを軽蔑したりは出来ても、傷つけたり酷い目に遭わせるなんて、無理なんだよ」
「ご自分が傷つけられたとしても、ですか?」
「うん」
こくりと頷きながら、ヒロ様は呟きました。
「結局俺、優しいんじゃなくて、臆病だから。
誰かを叩いたり傷つけたりするの、嫌なんだ」
「もしかすると、レズンに抵抗した時の恐怖が、まだ……?」
「うん。多分、それもある。
俺が誰かを傷つけたら、その倍以上の力で殴り返されるかも知れない。そう思ったら……」
「確かに、怖いのは分かります。しかし」
「そもそも俺、向いてないんだよ。誰かを傷つけたり罰を与えたりとかさ。
時には、そういうことが必要になるのかも知れないって……
会長の言葉を聞いてから、ずっと考えてたんだけど」
ロッソ会長の言葉というと……
あぁ、校章を渡された時のですね。
――大切な存在ならば、なおさら。
彼が悪意をもって君を傷つけようとするなら、君は断固たる意志でそれを払いのけ、自身の正義を示さなければならない。
校章をぎゅっと握りしめながら、俯くヒロ様。
その声が震えています。
「俺……レズンには、昔の優しくて頼れるヤツに戻ってほしい。
あいつはずっと、俺を守ってくれたんだ。つらい時も寂しい時も、いつだってそばにいてくれたんだよ。
だから俺……もう、あいつにそんな酷いこと、したくない」
そう言われて、最近のレズンの姿をふと思い出しました。
あのクズは下僕たちに去られ、クラス中から軽蔑の視線で見られ。
今は教室の隅で一人寂しく、不満げに外を眺めていることが多くなってきた気がします。
これまで彼をチヤホヤしてきた教師たちの視線も、今ではヒロ様の成長の方に向けられ。
それどころか、不遜な態度を面と向かって注意されることも増えてきたような。
恐らく、会長の権勢が教師たちにも及んでいる為でしょう。
まさしくざまぁですが、ヒロ様にとってはそうではないようです。
そんなレズンの姿を見るだけでも、彼は心を痛めてしまうようで……
わたくしなどは、何度ヤツを八つ裂きにしたところでおさまらないのですけどね!
あぁ、これは歯がゆい。復讐相手をどれほどぶちのめしたくとも、ヒロインに「やめて」とせがまれた結果、報復が中途半端に終わってしまう主人公の心境!!
「しかしヒロ様、落ち着いて考えてくださいまし。
わたくしは気になるのです。あれほどしつこくヒロ様にちょっかいをかけてきたはずのクズンが、あれだけで終わるものでしょうか?」
「いいよ。もうあれで十分だろ……
俺は普通に学校に行けるようになってるんだし、レズンも少しずつ元に戻ってくれるなら」
「いいえ、わたくしにはそうは思えません。
まだミラスコの問題だって残っているではありませんか」
「……!!」
そのワードを出され、一瞬凝固してしまうヒロ様の横顔。
やはりこの問題を何とかしない限り、彼に真の平穏は訪れないのでしょう。
「も……もういいよ、ルウ!
あれが残っているのはまだ怖いけど……でも、これ以上は、もう!!」
まるで駄々っ子のように頭を振り、わたくしの手から逃れようとするヒロ様。
しかしその態度からして、どれほどの恐怖がその身に刻まれたかが分かろうというものです。
やはりここは、わたくしの出番というところですね。
「ヒロ様が嫌だと仰るなら、わたくしが動きますわ」
「えっ?」
「何も心配いりませんよ、ヒロ様。
誇り高きエスリョナーラ一族たるこのルウラリアに、出来ないことなどございません!
貴方の手を一切わずらわせることなく、レズンのミラスコをこの世から完全消去してみせますわ~!!」
呆然とするヒロ様に、わたくしは思いきり大きな胸を張ってみせました。
そう――彼が手を汚せないというなら、わたくしがやれば良いではありませんか。
もとより、わたくしとてヒロ様の手を汚させたくはありません。彼の手を汚すよりも、彼が身体を汚されるほうがわたくしの好み……ではなくて!
「そうと決まれば、善は急げです!
早速会長とサクヤさんをお呼びして、作戦会議といきま……ん?」
ちょうどその時でした。
わたくしの胸元で、ミラスコが反応したのは。
そうそう、わたくしもヒロ様も、これを機会にとおじい様からミラスコを頂戴しておりました。レズンのそれとは大分性能が劣ってしまう簡易なものでしたが、これがあるだけでも心強いです。
指で軽くミラスコの表面を叩いてみると、光り輝く文字が浮かび上がってきました。
「あら。これは……サクヤさんから?」
それは、彼女からの通信でした。
文面からして、どうやら緊急度は若干高めのようです。
急いでその通信を読んでみますと――
「……え?
レズンが、わたくしを呼んでいる?」
「えぇっ!?」
そんなわたくしの言葉に、ヒロ様も思わずミラスコを覗き込んできました。
サクヤさんとわたくし、女子同士の通信。それを覗くなど、ヒロ様らしからぬ行為ですが――それほど気になってしまったのでしょう。
彼以外であれば思わず叩き払っているでしょうが、ヒロ様なら仕方ありませんね。
「レズンが、ルウを……どうして?」
「わたくしにも分かりません。続きを読んでみますね」
続く文面には、こうありました。
――ついさっき、私、レズン君から呼び出されたんだけど……
彼、すごく申し訳なさそうに突然謝ってきたの。
ヒロ君やクラスの皆に、今まで本当に酷いことをしてた。反省しているって……
だからまず、ルウさんに謝りたい。謝ってちゃんと話をしたい、って言ってた。
いや、だから何故わたくしに? 何はなくともまず、いの一番にヒロ様に謝るのが筋では?
疑問に思いましたが、その回答は続く文面にすぐ現れました。
――今はレズン君、申し訳なさすぎてヒロ君と顔を合わせられないみたい。
これまでのことをどうやって謝ったらいいのか分からなくて、ルウさんに相談したいらしいの。
私も正直、びっくりしてるけど……
ルウさんと話が出来るなら、ミラスコの画像もその場で全部消すって、約束してくれた。
え、えぇ? あのレズンが?
しかもミラスコ問題で悩んでいたら、今だとばかりに向こうから画像消去を確約してくれるとは。
それを見たヒロ様は思わず、我が意を得たりとばかりの笑顔になります。
「やっぱり……!
レズンはちゃんと反省したんだ。やっと元に戻ってくれたんだよ!」
本当に可愛らしい、輝くばかりの純真な笑顔ですが――
にわかには信じられません。今までのヤツの所業を思えば、絶対にすぐに信用するわけにはいきません。
というか、ヒロ様が純粋すぎます。この期に及んでもまだ、あのクズンを信じられるとは。
「ヒロ様、お待ちください。
何故そこまで簡単に、あのレズンを信用するのです? あそこまで酷い目に遭わされていながら!!
そこまでいくと、聖人君子を通り越して頭がおかしいと思われても仕方ありませんよ!?」
思わず口を滑らせてしまうわたくし。
その言葉に、ヒロ様の表情が明確に歪みました。
言い過ぎた。はっと口をつぐみましたが、もう遅い。彼はその大きな若草色の瞳に怒りをたたえ、わたくしを睨みつけます。
これまでのような、半端な怒りではありません。自分の大切なものを傷つけられた時の、本気のヒロ様の怒り。
「ルウや他の奴らにはそう見えるかもしれない。
だけど俺にとっては、レズンは……ずっとずっと大切な、友達だったんだ。
ルウにとっちゃ人でなしでも、俺にとっては……!!」
あぁ。ヒロ様の本気の敵意が、今、わたくしに向けられています。
考えてみれば無理ないことかも知れません。レズンがクズンになったのはごくごく最近のこと……ヒロ様はそれよりずっと昔の、優しかった頃のレズンを知っている。
優しく頼れる兄貴分の少年であり、無二の親友。彼にとってはそれこそが、本当のレズンなのです。
今のクズンしか見えていないわたくしには分からない。ヒロ様はきっとそう言いたいのでしょう。
しかし、しかしです!
「お気持ちは分かりますわ、ヒロ様。
それでも、受け入れなければいけない現実だってあります。
今のレズンはクズ人間以外の何ものでもありません。自分の立場を利用してヒロ様を脅し、孤立させ、身も心も徹底的に傷つけた卑怯者ですよ!」
わたくしは思わず、ヒロ様の両肩を掴みながら叫んでいました。
それでもヒロ様は断固として首を振り、わたくしから離れようとします。
「そんなこと分かってる!
でも、今はそうじゃないだろ!? ちゃんと反省して……」
「ヤツがそう簡単に反省するような人間とは思えません!」
「違うよ、ルウ!
レズンは本当にとても優しい奴なんだ。家のことでちょっとおかしくなっただけで……!!」
むぅ。ここは一つ、強引にでも頭を冷やしてもらうしかありません。
わたくしはすぅっと息を吸い込むと、顔の両サイドで揺れていた金色の縦ロールを、一気に彼の頭上へと伸ばしました。
ロールの先端が一瞬、青い光に包まれたかと思うと――
その毛先から、一気に水が滝の如く噴出します。
ただの水ではありません。術による細かな氷が混ざった、雪解け水並みの冷水です。
「わ、わぁあああぁっ!?」
わたくしにつかまえられたまま、氷水をまともに頭から浴びたヒロ様。
あっという間にびしょ濡れになって、その場にぺたんと座り込んでしまいました。
あぁ、ずぶ濡れスケスケ水兵服、久しぶりに見ます。射しこむ夕陽で透ける肌、身体にぴったりくっついた白い布地、スカイブルーから紺色に変化してしまった襟、髪やスカーフから滝のように滴り落ちる水。やっぱり最高の高……
いや、そうではなくて、ですね。
「ヒロ様、申し訳ありません。
しかしこうでもしなければ、分かっていただけないかと思いまして」
「……分かってないのはルウだろ」
ヒロ様は俯いたまま、目を合わせてくれません。
彼が座り込んだ床石が、じわりと黒く染まっていきます。まるでわたくしへの敵意を示すように。
うぅ……これは、初めての夫婦喧嘩というものでしょうか。
「ともかく、ヒロ様はこのままお帰りくださいまし。
わたくしは学校に戻り、サクヤさんと共にレズンのところへ行きますわ」
「……だったら、俺も」
「レズンを信じたい気持ちは、わたくしにも分かります。
しかし、ヒロ様が行くのは危険です。状況から考えて不審な点が多すぎますし。
いくら申し訳ないからといって、ヒロ様よりわたくしに謝るとは……
ここにきて今更ミラスコの写し絵を消すとか言ってるのも、いかにも怪しいではないですか」
「…………」
ヒロ様はじっとうなだれたまま、返事をしてくれませんでした。
そんな彼に、そっと手を差し伸べましたが――
「ヒロ様。もし本当にレズンが貴方の言う通り、真人間になったのであれば……
このような手を使わず、真っ先にヒロ様のところへ来て土下座して然るべきです。
他の下僕どもはそうしていたではありませんか。何故あの男は」
「……もういいよ」
「えっ?」
「もういいって言ってるんだ!!」
なんということ……わたくしの手が、思いきり叩き払われました。
「あ……!」
ご自分の行為に気づき、思わず動揺してわたくしを見つめるヒロ様。
怒りと悔悟と迷いが入り混じり、大きく見開かれる翠の瞳が痛々しい。
ごめん、と言いかけたのでしょうか。ほんの少し唇が動いた気がしましたが――
それでも彼は喉元の言葉を押しとどめ、小刻みに肩を震わせ。
そのまま立ち上がるなり、わたくしに背を向け、お屋敷の方へと駆け出していってしまいました。
意外なほどの素早さに、止める暇もありませんでした。
「まぁ……良いでしょう。
いずれにせよ、わたくしがレズンのミラスコを何とか出来れば、それで済むこと。
さて……本日の修行は、どのような格好になっていただきましょうかね~」
ずぶ濡れのまま駆け去っていくヒロ様の背中を眺めながら――
敢えてそう声に出して、自分を励ましてみたものの。
自分でも驚くほど、その声は力を失ってしまっておりました。
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