第76話 触手令嬢、一件落着……できない
魂を振り絞るかのようなヒロ様の叫びに、憲兵隊も会長も、レズン本人の動きでさえ、一瞬止まりました。
「自分のことクズだとか……そんな悲しいことばかり、言わないでくれよ。
さっき俺が言ったことは本当なんだ、レズン。
レズンがずっとそばにいてくれたから。レズンがずっと、励ましてくれたから!
俺は母さんがいなくなっても、生きてこられた。
これだけは、本当の本当だよ!」
ヒロ様のお母様?
そういえば、ヒロ様が生まれてすぐに亡くなられたと聞いただけでしたが――
どうも今のヒロ様の口ぶりからすると、そうではないようです。
「俺、やっと母さんのこと、思い出して。
一緒に思い出したんだ……母さんがいなくなった頃のこと。
あんなに優しかった母さんのこと、俺、さっきまでずっと忘れてて。その頃の記憶も、ずっと思い出せなかった」
「……それが俺と、何の関係があんだよ」
「あるよ。
だってその頃、いつもそばにいてくれたのは、レズンだったから!」
なんと……
ヒロ様とレズンの間に、そんな過去が。
それにヒロ様。お母様のことをずっと忘れていた、とは?
「多分……俺、弱っちいから。母さんがいなくなったショックに耐えられなかったんだ。
だからきっと、母さんの存在をなかったことにしていたんだと思う。
そのかわり、心にぽっかり穴が空いてた……すごく大事なものを失ったような感じがずっとあって、寂しくて悲しくて、しょっちゅう泣いてた。
だけどレズンは、その時から俺のそばにいてくれた。
俺をずっと励ましてくれて、助けてくれて。時には怒ったり喧嘩したりもしたけど……
でも……レズンがいなかったら、俺、とっくにどうにかなってた!」
こうなるともう、口を挟めません。
さすがのわたくしでも、ヒロ様とレズンの過去に介入することは不可能ですから。
ただ、必死で手を伸ばすヒロ様のお姿の、何と美しいことでしょうか――
エメラルドの瞳からこぼれる、宝石のような涙。濡れた緋の髪は風になびき、いつもより艶やかな金色に煌めいています。
破られた水兵服の裂け目から覗く脇、二の腕、鎖骨、首筋の曲線たるや、聖堂の絵画から脱け出したような美麗さ。
風にひるがえる、ぼろぼろの後ろ襟。その内側で揺れる臙脂のスカーフの残骸までが、ちぎれた天使の羽のようで……
って、こんなことを考えている場合ではありませんね。
「たとえ何をされたって、そんなレズンがクズの悪魔だなんて、思えるわけないじゃないか!
なのに、どうして!? なんでそんなことばっかり言うんだよ!!
お願いだから、もうこれ以上、自分を傷つけるようなことばかり言うな!!」
細い肩を震わせながら、絶叫するヒロ様。
憎悪に吊り上がったレズンの目の奥で、微かに何かが動いた――気がしたのは、気のせいでしょうか。
しかし、次の瞬間。
「うるせぇ」
ぺっ。
酷い音と共にヒロ様の頬に吐かれたものは、レズンの唾。
同時に、差し出されたヒロ様の右手が、乱暴に打ち払われました。
「こんな時まで、いい子ぶりやがって!
そーいうてめぇの態度が、一番嫌いなんだよ!!」
歯を剝きだしてヒロ様にくってかかるレズン。
な、なんという……
ヒロ様はというと、顔をそむけてじっと耐えたまま。
頬にかかった粘液が、糸をひきながら襟へと落ちていく。これはこれで滾ってしまう光景ですが、レズンの唾だと思うと正直気持ち悪いだけですわ!
「……俺のこと、そんなに気に入らないならさ。
理由、言ってくれよ。
わけ、分かんないよ……!!」
レズンの唾液を拭きもしないまま、震えながら唇を噛みしめるヒロ様。
わたくしは何も言えず、そんなヒロ様を全触手全力で抱きしめるしかありませんでした。
それに対し、またも唾を吐き捨てながらそっぽを向くレズン。
奴は再び憲兵に両腕を抑えられ、会長によりさらに強く拘束され――
そのまま会長の転送術が発動したのか、レズンたちは空の向こうへと飛んでいってしまいました。
そっと振り向いて空を見上げながらも、ヒロ様は肩を震わせるばかり。
「……ヒロ様。わたくしたちも、帰りましょう。
サクヤさんもソフィたちも、おじい様も、きっと心配していますわ」
「……うん」
こくりとうなずいて、ヒロ様は再びわたくしに身体をゆだねてくださいました。
レズンや会長の姿はとうに見えなくなっています。
とりあえず、レズンにざまぁできたと言えるのでしょうか。とはいえ、これは……
ヒロ様の様子を見る限り、到底、一件落着!などとは言えないようですね。
******
レズンを憲兵隊の手に引き渡した後、すぐにロッソ会長はわたくしたちのところへ戻ってくださいました。そして会長の転送術により、ヒロ様とわたくしはどうにか、人間世界への帰還を果たし――
最初に到着したのは、ヒロ様のお屋敷でした。
転送がなされた途端、わたくしたちを出迎えたのは。
「あぁあああぁ! ヒロ様、ルウラリア様ぁああぁ~!!
お二人とも、なんて酷いケガをぉぉお!!?」
涙目で抱きついてくる、もこもこふわふわメイド――ソフィでした。
あぁ、このもふもふ感。そこまで時間は経過していないはずなのに、随分久しぶりのような気がしますね。
その後ろから、おじい様も駆けつけてきます。かなり厳しい表情で。
「ヒロ! ルウラリア!!
今すぐに女神の泉に入るのじゃ。二人とも、相当の深手じゃぞ」
んん?
傷だらけのヒロ様は当然としても、わたくしも?
というか、女神の泉……とは?
首をかしげたわたくしに、おじい様は説明してくださいました。
「話はロッソ君やスクレットたちから聞いておる。
ヒロの傷もそうだが……ルウラリアよ。
『魔妃の角笛』をまともに食らったのなら、お主の身体もかなりの影響を受けているはずじゃ」
「えぇ? そ、そうですか?
わたくしはちゃんとぴんぴんしていますが……」
「今はそう見えても、儂には分かる。あの角笛の力を侮ってはならん。
現にルウラリア、お主は未だに元の触手形態に戻れておらんじゃろう」
あぁ! そ、そうでした。
わたくしの姿は依然として、上半身は人間、下半身はタコのような触手という中途半端なまま。
肌は徐々に自慢の艶やかな桜色を取り戻してきたものの、まだまだどす黒い痣のような色が目立ちます。うぅ、気持ち悪い。
そんなわたくしを、ヒロ様が心配そうに見つめてきます。
「ルウ……確かに、お前の身体の方が俺、心配だよ。
女神の泉ってのは、うちの屋敷の地下にある秘密の洞窟なんだ。
普段は封印されてるけど、災害とかの大事が起こった時にはじいちゃんが開いてくれる」
あぁ、ヒロ様はやっぱり博愛のかたです。未だに左肩にわたくしの触手が刺さった状態でありながら、わたくしの身を案じてくださるとは。
おじい様も大急ぎで、わたくしたちを中庭へと案内してくださいました。
「その通り。そして今はその危急の時じゃ。
ルウラリア。ヒロを連れて、すぐに泉へ入れ。
大丈夫。あすこは人間も魔物も、少々の傷ならたちどころに治してしまう強力な場所じゃからな!」
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