第89話 少年、拉致られる

 

 ぞわっと背筋に走った戦慄。ヒロは反射的に身震いしてしまう。

 同時に足元から湧き上がってきたものは――

 赤みを伴った黒い霧。


「なっ……!?

 何だよ、これ?」


 咄嗟にその霧からルウを守ろうと、鳥籠の前に立ちはだかるヒロ。

 しかし霧は無数の蛇のようにその形状を変化させたかと思うと、意思を持つが如くヒロの周囲を不規則に飛びまわり、一気に彼を包んでいく。


「うっ……

 これ、毒の……霧……か?」


 その霧をほんの少し吸い込んだだけで、ヒロの意識は朦朧としてしまった。

 紗がかかったかのように目の前が薄暗くなり――

 ルウの笑顔さえも、黒い霧の向こうへ遠のいていく。何も知らずに微笑んだまま眠っている、呑気なルウの微笑みが。


「る……ルウっ!!」


 苦しみの中、必死でルウに手を伸ばそうとするヒロ。

 しかしその時にはもう、彼の全身は霧にがんじがらめにされてしまっていた。

 ルウに助けを求めようとする、その指先までも。

 そして――



 霧がヒロを覆いつくして、数秒もすると。

 彼の身体は広間から、煙のように消えてしまっていた。

 残されたものは、ただ何も知らずすやすやと眠り続ける触手令嬢と、その家臣と、骸骨執事だけ。

 強烈な雨音が響きわたる中、この3人――2匹と1体は何故か目覚めることなく、夢の中を彷徨うばかりだった。




 ******



 留まることを知らない雨。

 全身を刺してくるような冷たい飛沫。凍てつくような空気。

 寒さで思わずぶるっと震え、ヒロは目を覚ました。



 ――どこだろう、ここは。



 意識を取り戻した時、ヒロの周囲を埋め尽くしていたのは――

 ただただ黒い森。

 ルウに攫われレズンの元に放り出された、あの時の小島を思い出す。

 しかしあの島と違い、この森は何故か木の幹のいたるところが雨の中、ほのかに煌めいていた。

 完全に闇に覆われた森というわけではなく、幹や根に生まれた水晶が自然に輝き、あたりをわずかに青く照らし出している。

 降り続ける雨は木の梢からも滝の如く落ちてきて、ヒロの全身を濡らした。


「わ、わぁあっ!?

 さ、寒っ……」


 どれほどの時間、この森で寝ていたのか。それは分からないが、既にヒロのワイシャツはすっかり濡れそぼって肌にはりついている。ズボンの中にまで水がたまり、立ち上がると裾からバシャバシャと雨水が溢れた。



 そういえば――ヒロは思い出した。

 この森には覚えがある。確か昔、レズンと一緒に遊んだ森だ。

 木の枝に埋まった水晶がひとりでに光るのが面白くて、暗くなっても夢中で遊んでた。

 ――ここには怖い魔物がたくさんいるって、母さんに叱られても。


 流れる雨水を振り払うようにぶんぶん頭を振ると、少しずつ記憶が鮮明になっていく。


 ――そうだ。確かこの森って、レズンの家が持っていた土地の一つだって話だった。

 俺んちはこんなにデカい森だって持ってるんだぜって自慢げに言われて遊びに行って、二人して道に迷って大泣きしてたら、大人たちに助けられて思い切り叱られた……そんなこともあったっけ。

 どうして今ここに自分がいるのか、理由はさっぱり分からないけど。



 同時にヒロの中では、奇妙な直感もはたらいていた。

 この先だ。この先に、間違いなくレズンがいる。



 そう思った時、再びヒロの身体に、悪寒と恐怖が走った。

 左肩の傷が、また疼く。この先に行ってはいけないと、その痛みが訴えかけている。

 ――でも。



 雫を振り払い、ヒロは顔を上げた。

 ――レズン。俺、まだ、お前と何も話せてない。

 お前がどうして俺を嫌ったのか。お前が何を隠しているのか。

 どんなに怖くても――俺、やっぱり、知りたいよ。



 微かに震えながらも、ヒロは歩き出す。

 闇の中でほのかに煌めく光と、自分の勘。それを信じて。



 ******



 ヒロが迷い込んだ、水晶の森。

 彼にとっては思い出の森とも言えるその場所に


 ――レズン・カスティロスもまた、迷いこんでいた。

 というより、最初から目的もあてもなく彷徨っていたら、いつの間にかここへ来ていたという方が正しい。



 ――もう、何もかも、どうでもいい。

 ――もう、俺には何もないんだから。



 憲兵隊に連行され、散々殴られ、怒鳴りつけられ。

 そして親父に無理やり連れだされたと思ったら、家に帰ってからそれまで以上に殴る蹴るの暴行。

 肝心のあのクソババアは、何故か姿を現しやがらない。

 ついに耐えられなくなって、気づいたらあの家から逃げ出していた。

 誰かに見つかったらすぐにつかまり、またあの家に戻される。だから、誰にも見つからないような場所へ――

 そう思ったら、いつの間にかここに来ていた。



 ――そう。昔ヒロと時間を忘れて遊んでいた、この森まで。



「……ヒロ」


 その名前を呟くと、どうしようもない感情で胸が詰まった。

 情欲から呼び起こされた、憎悪、羨望、嫉妬。それらが絡まりに絡まりあい、自分でもその正体が全くつかめなくなってしまった感情。

 同時に脳裏に浮かんでくるのは、必死で自分に呼びかけてきた、ヒロの姿と声。



 ――自分のことクズだとか……そんな悲しいことばかり、言わないでくれよ。

 ――お願いだから、もうこれ以上、自分を傷つけるようなことばかり言うな!!



 どれほど俺に傷つけられても、あいつは俺に必死で手を伸ばしてきた。

 あんなにボロボロに傷つけたのに。俺は欲望のままに、あいつをどれほど汚したか分からないのに。

 それでもあいつは俺を、今でも信じてやがる

 ――俺なんかを。



 雨の中、ふとレズンは足を止めた。

 涙と共に自分に呼びかけてくる、ヒロの声。

 それを思い出すたび、心の中から別の声がする。

 決して認めたくはない、自分の声が。



 ――だとすれば。

 もしかして、俺は……とんでもない勘違いをしていたんじゃないのか。

 ヒロが俺を絶対に受け入れない、なんて……



 その声を無理やり振り払うように、レズンは思いきり頭を振った。

 そんなわけがない。ヒロが俺の想いを受け入れるなんて、そんなことがあるわけないんだ。

 あいつは口ではあぁ言ってたって、俺の心を知れば絶対に拒絶するに決まってる。



 そうじゃないのなら、一体今まで俺は……



 いや、そんなわけがない。

 あいつは俺を否定するに決まってる。



 ヒロを思い出すたび、自分を否定する。そんな堂々巡りを幾度となく繰り返し――

 雨降る森の中を、何時間さまよったか。

 レズンはいつしか、古びた木造の小屋の前まで来ていた。



 ――そうだ。

 ずっと前から親父の管理下にあるこの森は、人を迷わせる森でもある。だからこそ大人どもは絶対入らないよう、俺たちに滅茶苦茶厳しく言ってたっけ。

 それでも俺とヒロは、禁止されると余計に興味がわいて、こっそり忍び込んで遊んでた。

 だから覚えてる。この小屋は、確か監視所だった。



 いい加減身体は冷え切っていたし、空腹も覚えていた。

 どれほど死にたいと思っていたところで、寒さは感じるし腹は減る。

 そう――俺にはもう何もない。俺はもう死ぬしかない。

 そう思って、この森に来た。

 なのに、まだ身体は生きたがってるとか……


「俺って心底、クズだな」


 そう口に出して自分をせせら笑う。

 だが、小屋に近づこうとしたその時だった。



「ウゥ……grrr――」



 森の空気を揺るがす、奇妙な唸り声。

 レズンが思わず振り返ると、そこにいたのは――



「なっ……

 イブルウルフ!?」


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