第88話 触手令嬢と睡眠の誘惑
当初警戒していた魔妃の気配も、わたくしの触手には特に感じられず、数十分。
カシムも同様で、いつしかわたくしたちは昔と同じような触手談義を繰り広げておりました。
ヒロ様も徐々に落ち着いてきて、辛抱強くじっとソファで待っています。お部屋で少し休んだほうがと勧めましたが、ヒロ様は頑なにここで待つと言ってききませんでした。
そんなこんなで――
おじい様と会長をひたすら待っているしかないわたくしは、カシムと積もる話をするよりほかなかったのですが……
触手族のおしゃべりというのは多かれ少なかれ、最後はこういうものになってしまいます。仕方ないのですヒロ様!
「カシム。わたくしたちはもう、全裸凌辱反対派の立派な仲間ですわ。
これからは是非共に手を取り合い、汚された衣と裂かれた袖と透けた肌の素晴らしさを広めていきましょう!」
「はい……それはもう、是非に!!」
「ならばまず、この牢からわたくしを出していただけませんか?」
「それはなりませぬ」
わたくしのさりげない懇願に、カシムは一瞬で真顔に戻ってしまいました。
「その手には乗りませぬぞ、お嬢様。
それとこれとは話が全く別です」
ちっ。思わずわたくしらしからぬ舌打ちが出てしまいます。
同時に、ヒロ様の小さなため息も聞こえました。
「はぁ……やっぱり駄目か。
考えてみりゃ当たり前だけどさ」
残念そうに視線を落とすヒロ様。
やはりレズンやおじい様、会長のことが気になって仕方ないのでしょう。強くなるばかりの雨も、ヒロ様の焦りを増幅させているのでしょうか。
会長も会長です。こちらに連絡のひとつぐらいよこしてくれたっていいでしょうに。
カシムもさすがにそんなヒロ様に気を使ったのか。
そっとそばから毛布を取り上げ、ヒロ様に渡しました。
「ヒロ殿、お風邪をひかれては大変です。
せめて今は、ゆっくりご養生なさってくだされ。あの騒動から、ろくに眠れてもおらんのでしょう?」
「いや……別にいいよ、俺は。
怪我はさっきの泉で……治ったし……」
そうは言いながらも、ヒロ様はちょっと目をごしごしこすっております。
明らかに眠そう。
「泉で治療しただけでは、真の回復とは言えませんぞ。
お嬢様、貴女もです」
えぇ? わたくしもですか。
でも……そういえば、何となくどっと疲れが出てきたような気もします。
魔妃の術が刻まれては、さすがのわたくしでもそう簡単に回復は無理ということでしょうか。カシムに言われたら、何だかとろーんとしてきたような。
「子爵も仰っていましたが、お嬢様とて身体に相当のダメージを負われているはず。
十分な回復ができんうちに魔妃に襲われては、ひとたまりもありません」
「で、でも……」
「この鳥籠は父王の力がこめられておりますが、同時に貴女を守護する強力な結界でもあります。安心してその身を委ねてくだされ」
む、むぅ……言われてみれば、この鳥籠。
牢に入れられているはずなのに、何故か妙な安心感があります。
幼き日、あれほど厳しかった父上も、たまーにわたくしを抱きしめてくださったことがありました。あの太くあたたかで、力強い触手の感触を思い出します。
あの頃は……父上もまだ、今よりはお優しく……
「というか、私めもだいぶ眠くなってきておるのです。
特に危険はないようですし、少々仮眠をとらせていただいても構いませんでしょうか……
ぐぅ……Zzz……」
わたくしがうんとも言わないうちに、即座に眠りこけてしまうカシム。
この寝つきの良さは昔からうらやましいです。
するとソファの方からも、ヒロ様の眠そうな声が。
「う、う~ん……
さすがに……ちょっと、疲れた……かも……」
毛布にくるまりながらソファで猫のように丸くなり、そのまま眠り込んでしまうヒロ様。
あぁ、寝顔も可愛らしい……です、が……
うぅ。何だかわたくしも、急に眠くなってきました。
ヒロ様の寝顔……乱れたワイシャツの襟からのぞく鎖骨、緩んだネクタイ、ちょっとだらしなく開いたお口、とても可愛い……
もっと……見ていたい……のに……!!
******
――もう、どうでもいい。
――もう、俺には何もない。
――あれだけ欲しかったものも、手に入らなかった。
――全てをぶっ壊しても、欲しかったのに。
まどろみの中、ヒロは誰かの声を聴いた。
ぼうっとしたうす暗い視界。闇に閉ざされた森。
その奥で、雨の中たった一人で傘もささず、膝をかかえ、座りこんでいる影が見える。
浅黒い肌に、びっしょり濡れた短い金髪。ヒロから見ても正直、似合うとは言い難い水兵服。
――レズンだ。
確信をこめてその名を呼ぼうとしたが、何故か声が出ない。
良かった、無事だったんだ。そう声をかけようとしたのに。
同時に沸き上がったのは、身もすくむほどの、本能的な恐怖。
駄目だ。
やっぱり俺、まだ、怖いんだ。
レズンは本当は、とても優しい奴なんだって。今は家で色々あって、少し歪んでしまっただけなんだって――そう信じているのに。
身体中で疼く傷が、ヒロに警告してくる。レズンに近づくなと。
進むことも逃げることも出来ないヒロの眼前で、レズンはのそりと頭を上げた。
吊り上がった灰色の瞳。それはナイフのような冷たい光を宿しながら、こちらを睨む。まるで、そこにヒロがいると分かっているかのように。
その瞬間――
左肩の傷跡が、強烈に痛んだ。
いや、左肩だけではない。全身の傷が、レズンの気配を察知した途端に悲鳴を上げ始めている。
「うぐっ……!
る、ルウ……っ!!」
思わず叫び声をあげ、左肩を押さえるヒロ。
自分のその絶叫で、彼はようやく目を覚ました。
「あ……あれ?」
汗びっしょりになって、あたりを見回す。
そこはさっきまでと同じ、いつもと変わらないリビングのはずだった――しかし。
ヒロにもはっきり分かった。何故か分からないが、明らかに様子が変だ。
銀色に輝く巨大鳥籠の中で、ぐっすり眠ってしまっているルウラリア。
その隣では、触手を渦のように丁寧に自身に巻きつけながら眠っているカシム。
向かい側のソファでは相変わらず、スクレットがいびきをかいていた。
雨は未だに激しく窓を叩いている。
眠ってしまう直前と、ほぼ様子は変わらない。そのはずなのに――
どういうわけか、奇妙な寒気を感じた。
ヒロはすぐに首をぶんぶん振る。
いや、考えすぎだ。不安と焦りのあまり、心が先走っているだけだ。
会長から忠告されたじゃないか。ここは動かず、ルウのそばにいなきゃ。
ルウだってあぁ見えても、魔妃の術に侵されてだいぶ参ってる。元は俺を助けようとして酷いことになって、さっきだって何よりも俺の治療を最優先にしてくれたのに――
「せめて今ぐらい、俺が守らなきゃ」
ヒロはソファから降りて、そっとルウの鳥籠に近づいた。
疲れ切ったように眠ってしまっているルウ。桜色の触手が、銀の柵の間から伸びていた。
さっきまで人間の手とほぼ同じ形状だったものが、触手に戻ってしまっている。顔だけはまだ桜色の髪の美少女のままだったが、身体つきはほぼ元の触手族に戻りつつあった。
その触手にそっと触れると、籠の中の触手美少女は気持ちよさそうに身体を揺らした。
唇の端からヨダレがちょっと垂れている。
「ふぁ、ぁ……
ヒロ様……あぁ、何と可愛らしい……
わたくし、いつまでもおそばに……お守り、いたします……むにゃぁ~」
一体何の夢を見ているのか。全く呑気な触手の姫に、ヒロは思わず笑ってしまったが――
その時。
――ふふっ。
「え?」
突如どこからともなく響いてきたものは、女の笑い声。
聞こえたというより、直接脳裏に響いてくるような。
ヒロは思わず周囲を見回す。そんな彼に、声はさらに呼びかけてきた。
――やっぱり、とっても、かわいい。
ユイカ。貴女の守りたかったもの……やっと、見つけた。
レズンちゃん。貴方の欲しかったもの……やっと、見つけた。
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