第90話 クズ、隠れる
黒い巨体に紅の眼。完全に魔に染まった、双頭の狂獣。
半日ほど前まではレズンが思い通りに操り、ヒロを襲わせていた魔物。
それと同じ獣が今、木々の間からまっすぐにレズンを見据えていた。
当たり前だ、と頭では思う。元々、魔物だらけだと散々言われていた森だ。
かつての自分とヒロが魔物に襲われずにすんだのは、ただの幸運にすぎない。
そもそも俺は、もう死ぬつもりで家を出たんだ。ここで喰われるなら、それもアリか――
だがそんなレズンの思惑など露も気にせず、狂った狼は彼へ襲いかかった。
同年代の他の連中よりは結構デカいと思う自分の図体。それでもイブルウルフの巨体はレズンの身長を軽く超え、頭から彼を喰らおうと飛びかかる。
「う、うわぁ!!」
自分でも情けないと思う悲鳴を上げながら、背中を向けて駆け出そうとするレズン。
しかし心が完全に恐怖に囚われ、思うように身体が動かない。
雨で柔らかくなった土に足をとられ、見事に前のめりに倒れてしまった。
その隙を逃すような魔物ではない。当然一直線にレズンを追いつめ、大地を蹴り上げ、心臓まで震え上がらせるほどの唸りを上げる。
4つの紅の眼球が、一斉にレズンを睨みつけた。口腔からは滝のような涎が流れ、黄色く汚れた牙が闇の中で鈍く光る。
それを見た時、レズンの中で一気に恐怖が限界を突破した。
「い、いやだぁあぁ!
死にたくない! 俺、死にたくねぇよぉお!!」
腰を抜かし、いつの間にか涙まで流しながら叫ぶレズン。
両腕で顔を覆い、少しでも現実から目をそらそうとしている。
頭のどこかでは情けないと思いながら、それでも叫ばずにいられない。
親父に殴られ続けるのも嫌だ。お袋に首を絞められるのも嫌だ。
でも――
それでもやっぱり、死ぬのは嫌だ!!
どれほど目を塞いでも、魔獣の荒く熱い呼吸は瞬く間に近づいてくる。
そしてレズンの身体の上にかかる、獣の前足。皮膚に食い込む爪。
あぁ、もう駄目だ。俺はこのまま――
「レズン!」
その瞬間響いたものは、自分を呼ぶ少年の声。
咄嗟に頭を上げると、何かが自分に強く抱きついてきた。
魔獣の牙から、レズンを一心に庇うかのように。
見えたものは、燃えるような緋色の髪。そして、若草色の瞳の煌めき。
びしょ濡れに濡れたワイシャツを通して、熱い体温までが伝わってくる。
――ヒロだ。
そう分かっても、レズンはろくに動くことが出来ない。
横から飛びついてきたヒロに呆然としたまま、何も出来ない。
ほぼ同時に響いたものは、魔獣の悲鳴。
どうやらヒロはレズンを庇いながら両手から火術を発射し、獣に命中させたらしい。
しかしこの雨のせいか火術もそこまでの威力はなく、獣を一時的に吹っ飛ばしただけに過ぎなかった。
思わぬところから邪魔が入り、眼前の獲物をまんまと奪われたイブルウルフ。当然ヒロにその牙が、グワッと音をたてて剥きだされた。
「ひ……ヒロ……!?」
「早く小屋に逃げろ! 早くっ!!」
それでもヒロは決して逃げようとしない。
レズンを守りながら、声を限りに叫ぶヒロ。
火術では威力が足らないと判断したのか。今度は氷術を両手に充填しながら、ヒロは敢然と魔獣の前に立ちはだかる。
そんな彼に、一切の躊躇なく突進していくイブルウルフ。
魔獣の咆哮が、森じゅうを揺るがせた。
「う、うわぁああぁああっ!!」
レズンの中で、死への恐怖が一気に全ての感情を突き抜ける。
半分腰を抜かした状態ながら、それでもレズンは小屋までよたよたと走り、無我夢中で扉に手をかける。
監視小屋としての機能はだいぶ前に放棄されてしまっているのか、幸い扉は施錠されておらず、簡単に開いた。
しかし、レズンが中へ飛び込もうとしてふと後ろを振り返った、その瞬間。
「ぐ……あぁっ……!!」
押し殺すような、ヒロの悲鳴。
イブルウルフがヒロに真正面から食らいつき、その小さな身体を押し倒していた。
爪が左肩に食い込み、真っ赤な血飛沫が雨の中、舞い散る――
その光景を見た瞬間、レズンは反射的に扉を閉めていた。
どうでもいい。俺はどうせ卑怯者のクズだ。
そんなこと分かっているくせに、俺なんかを助けに来たあいつが悪いんだよ。
ろくでもない思考をしていると心のどこかで理解しつつも、レズンはそれでも自己正当化を繰り返しながら、閉じた扉の裏でへなへなと座りこむ。
扉の向こうからは、ヒロの悲鳴と絶叫。
そして、ドン、ドンッと氷術が炸裂する音も響いてくる。独特の、血肉が凍り付くピキピキという音もわずかながら聞こえてきた。
組みつかれながら、皮膚を裂かれながら、それでもヒロは至近距離で氷術を発射しているのだろう。ヒロの呻きと同時に、絹を裂くような魔獣の悲鳴も交錯し――
だがレズンはその間、扉を固く閉ざしたまま、一歩たりとも動けなかった。
両耳を塞ぎ、顔を膝の間に埋め、ひたすらに現実を見ないようにしながら。
******
それから何秒、いや何分経過しただろうか。
ふと気がつくと、いつの間にか獣の唸り声は消えていた。
レズンは恐る恐る頭を上げる――
やまない雨の音。
それに混じり、ヒロの苦しそうな息遣いが聞こえてきた。
レズンのすぐ後ろ。つまり扉の向こうで
――ヒロは、まだ生きている。
背中ごしに聞こえる、少年の荒い呼吸。思わず、レズンの感情は昂ってしまったが。
「……はぁっ……うっ……
る……ルウ……っ!」
苦しげな息の中に混じった、あの化け物女の名前。
昂った感情が、瞬く間に現実に引き戻される。
クソ。
こんな時でもてめぇは、俺じゃなくてあの女を呼ぶのかよ。
あの女、どこまでヒロを――
――
――いや。
当たり前だ。
当然のことだ。
それだけのことを、俺はヒロにやっちまったんだから。
今だって俺は、ヒロを囮にしながら自分だけ安全圏に逃げ込んで。
しかも……苦しんでいるヒロに……俺は。
自分で自分に絶望しながら、レズンは取っ手に恐る恐る手をかけた。
ギイと音をたてながら、内側へ開いていく扉。思ったより軽い。
扉の間から、そっと頭だけを出すと――
泥まみれのヒロが倒れていた。
滝のような豪雨に打たれるままになりながら、必死で左肩を抑え込んでいる。
肩を押さえた指の間から流れる、真っ赤な血。それは白いワイシャツの袖を染め上げ、雨と共に身体中を流れ落ちている。
「ひ……ヒロ……
なん、で……?」
何で、ここに来た。
何で、俺なんかを助けようとした。
そう問いただしたかったが、言葉が出てこない。
そんなレズンに気づいたのか――
ヒロはそっと顔を上げた。
意識が若干朦朧としているのか、視点が定まっていない。
「レズン……無事、だったんだな。
あいつは、何とか追い払っ……ううっ!」
笑おうとして、すぐに顔をしかめてしまうヒロ。額や首筋には雨粒だけでなく、汗もじっとり浮かび上がっている。
何とか自力で傷を治そうとしているらしく、右手から発動した水術の青い光が左肩を包んでいた。しかし出血の方が多いのか、それともヒロ自身が弱ってきているのか、その光さえ頼りなく明滅しながら消えかかっている。
かなりの激しい戦闘だったらしい。深緑を基調としたチェックのズボンもあちこちが破られ、細いふくらはぎがむき出しになっている。
レズンは腰をかがめ、そんなヒロの様子をまじまじと眺めていた。
その胸中に去来するものは、レズン自身でも反吐が出るほどの、クズな感情。
――ざまぁみろ。
いい子ちゃんぶってるから、こういうことになるんだ。
俺なんかを助けようとかするから、バカ正直に信じ続けるから、こういうことになるんだよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます