第22話 わたくしの大切な「勇者様」

 

 し、しまった。

 触手族は栄養状態が極限に達すると、全身が気持ち悪いほどテッカテカになってしまうのです。

 ヒロ様の肌があまりにも気持ち良すぎたせいでしょうか。

 これはまずい。これ以上栄養を摂りすぎては――つまりヒロ様の汚れを吸っては、わたくしの身体にも悪影響が出てしまいます。

 しかし未だにヒロ様の水兵服は、まだまだ汚れたまま。

 だいぶ泥を吸い切り、幾分か元の色が分かるようになってきたとはいえ、あの輝くばかりのスカイブルーと純白には程遠い。

 ど、どうすれば……


「わ、わたくしのことはいいのです、ヒロ様!

 それよりも!!」


 とりあえずここは、話を切り替えましょう。


「ヒロ様。胸とお腹のあたりの汚れは少し取れましたので!

 背中を見せてもらえますか? そう、わたくしに向き合う体勢になっていただけるだけで結構です」

「……うん」


 ヒロ様はこくりと頷き、わたくしと向き合いました。

 昨日であれば「嫌だよ!」と可愛らしくぷんと頬を膨らませていたと思いますが、今はそんな気力さえ失われているようです。

 元気に跳ねていたはずの緋色の髪も、今やすっかり水に濡れ、しっとりしたストレートヘアに……毛先が張りついた細い首筋が、美しくも痛々しい。


「それじゃわたくしのお腹に両腕を回して、抱きついていただけますか?」

「……なんで?」

「治療の為です。お背中がちゃんと見えませんから」


 ホントです。治療の為だから仕方ありません。

 現時点でわたくし、頭がはちきれそうなほど興奮しまくって、これ以上興奮しては身体に毒になるレベル。でも、治療の為には仕方ないのです。仕方ないんですってば。


「分かった……けど、ルウ。大丈夫か?」

「も、もも、勿論ですわ」


 これまた素直に、わたくしの胴体に両腕を回すヒロ様。

 濡れた布地を通して感じられる、肌の弾力。体温。あぁ、頭がくらくらしてきました……

 昨日よりさらにボロボロに引きちぎられた裾が、お湯の中でふわふわ漂っています。

 その内側にそっと触手を差し入れると、微かにヒロ様の呻きが、わたくしの身体に直接響きました。

 あぁ、駄目ですってばヒロ様。これ以上興奮したら、わたくしどうなってしまうか。


 いや――

 こんな時こそ、しっかりせねば。ヒロ様がどれほど魅力的だろうと、触手族たるもの、捕縛対象の色香に惑わされて気絶など言語道断!

 それにヒロ様には、大事なことを聞いておかねばなりませんからね。これからの為にも。



「ヒロ様。

 そろそろ……ちゃんと、お話してはいただけませんか?

 いつからなのです? あのクズンたちがあのようなことを始めたのは。

 いったい何故、彼らはあのような酷い真似を、ヒロ様に?」



 ヒロ様はしばらくうつむきながら、じっと考え込んでいましたが。

 やがて消え入るような声で、ぽつりぽつりと話し始めてくれました。



「レズンとは……

 小さい頃から、友達だったんだ。

 昔から弱虫で、泣いてばかりの俺を、いつも守ってくれてさ」



 うぅむ。どうも、今のクズンからは信じがたいですが……

 先ほどのサクヤさんの言葉から類推する限り、本当なのでしょう。



「でも……イーリスに入ったぐらいの頃から、かな……

 しょっちゅう、俺のやることに、色々言ってくるようになって。

 少し変だなと思ったけど……

 レズンの言うことなら間違いないだろうって、俺、思ってたんだ」


 間違いないと思っていた?

 一体何故?


「俺の母さんさ……

 俺を生んで、すぐに死んじまって。

 俺をどう育てるかで揉めて、じいちゃんと父さんは大喧嘩して。

 父さんは家に帰らなくなった。今も王都で仕事ばっかりの日々らしいよ。

 じいちゃんは優しいけど、やっぱり研究で忙しくて、家を空けることも多くて。

 その頃はまだ人間の執事やメイドがうちにいたけど、じいちゃんの魔物好きが祟って、みんな長くは居てくれなかった。ソフィやスクレットが来てくれたのは、だいぶ後からなんだよ。

 そんなだから……

 レズンは昔からずっと、頼りになる兄貴みたいなもんだった」



 そんな……

 想像以上に、ヒロ様の家庭環境は厳しかったようです。

 幼い頃から、独りぼっちも同然だったとは。



「なのに……

 あいつはいつの間にか、他の奴らと一緒になって、俺を殴りつけるようになって。

 気づいた時には……今みたいに……」



 ヒロ様の肩が、大きくしゃくりあげました。

 そんな彼の背中を、わたくしは黙ってさすります。

 ここは何も言わず、何も聞かずにいるほうが良いでしょう。



「俺にも分からないんだ。

 レズンがどうして、ああなったのか。

 レズンの家でも何かあったって、聞いた気もするけど……

 でも、だからって……!!」



 ヒロ様の両手が、思いきりわたくしの脇腹のお肉を掴みます。

 痛いっ。痛いですが……

 ヒロ様のほうが、よほど痛いに違いありません。

 わたくしのお腹に、思いきり顔を埋めるヒロ様。

 妙に熱いものが、その顔のあたりから流れ出してきているのが分かりました。

 激しくしゃくり上げる背中。



「ルウ。俺、強くなりたい。

 レズンがあぁなったのはきっと、弱い俺にイラついたせいなんだよ。

 だから……!!」



 それ以上、ヒロ様は言葉にすることが出来ませんでした。

 嗚咽が、湯気の中に響きます。



 ――ほんの少し一緒にいただけでも分かる、ヒロ様の、真っすぐなれどちょっと意地っ張りな気性。

 でもその内側には、思春期の少年らしい、とても繊細な心が隠されています。

 それを考えれば、このような姿はきっとヒロ様自身、絶対に誰にも見られたくなかったことでしょう。

 なのにその心を、あのクズどもは容赦なく踏みにじり、痛めつけ、叩きのめした――

 そして湖での死を選択させる寸前まで、ヒロ様を追いつめた。

 絶対に許してはいけません。たとえ、同じ子供といえども。



「ヒロ様。きっと、ずっと、泣けなかったのでしょう?

 なら、いっぱい泣いてください。わたくし、ヒロ様の涙も鼻水も、全部大好物ですから!」



 わたくしはそう呟きながら、ひたすらヒロ様の頭を撫でます。

 そうしているうち――



「ルウ……ありが、と。

 俺のこと、助けて、くれて……

 お前が、いてくれて……本当に……良かっ……

 う……うぅ、ぐすっ……う……

 うあ、あ、あぁあぁああああぁああぁぁああああああああぁあああ!!!」



 その言葉が、ずっと閉じ込めていた感情を爆発させたのか。

 大きくなってきたヒロ様の嗚咽は、やがて号泣となって、天に響きわたりました。

 恥も外聞もなく、わたくしに縋りついて泣きじゃくるヒロ様。

 その背を撫でながら、わたくしは彼が落ち着くまで、じっと待っていました。



「わたくしは、ヒロ様が弱いとは思いません。

 しかし、貴方が強くなりたいと心から願うならば――

 少しでも、そのお手伝いをさせていただきます」



 だから今は、たくさん泣いてくださいね。

 わたくしの、とっても大切な――勇者様。


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