第79話 触手令嬢と、少年の忘れもの
「……母さんのこと?」
わたくしの問いが思いもよらなかったのか、何度かまばたきするヒロ様。
「えぇ。
先ほどのヒロ様のお話では、お母様を亡くされたショックで、ヒロ様はお母様の記憶を全て忘れてしまった、ということですが……
わたくしには、どうもそうは思えないのです」
「なんで?」
そんな彼の背中に何本か触手を回しつつ、わたくしは続けます。あぁ、濡れそぼった後ろ襟の裏地の感触もとても……
いや、それはとりあえず横に置いておいて、ですね。
「周辺の状況からしておかしいです。
まず、おじい様がそんなヒロ様を放置しておくとも思えませんわ。お母様の存在を忘れるほどの精神的ショックがあったのなら、あのおじい様のことです。
何とかして、ヒロ様にお母様のことを思い出させるようにするはずです」
きょとんとして首を傾げ、わたくしを見つめるヒロ様。
しかしやがて、その視線はうつむきがちになってしまいます。
「うん……でもさ。
俺、母さんの夢を見たあの時まで、母さんのことをまるで思い出せなかったんだ。
今思えば、葬式の時にじいちゃん、何度も俺に母さんのこと、泣きながら聞いてきた気もするけど……
それ自体、殆ど覚えてない。というか母さんの葬式自体、さっきまで全然思い出せなかった。
母さんにまつわる思い出は、何故か全部、俺の中から消えてしまっていた」
――それが事実だとすれば、想像するだけで痛ましい光景です。
亡くなった娘と、その存在を忘れてしまった孫。そんなヒロ様を前にして、おじい様は一体どう思われたことでしょう。
「でもいつ頃からか、じいちゃんは全然母さんのことを聞かなくなった気がする。
俺もそれ以上、母さんについて知ろうとは思わなかったし……
父さんも、何も言ってくれなかった。
その頃からじいちゃんも父さんも、俺のことで喧嘩ばっかりでさ。
何がなんだか分からないうちに、俺はじいちゃんに引き取られて――今に至るってわけ。
きっと、俺のせいだ。俺の心が弱すぎて、母さんを忘れてしまったから……父さんも、俺に愛想つかして……」
間髪入れず、わたくしは断言しました。
ヒロ様の両肩をつかみ、揺さぶります。
「そこですわ、ヒロ様。
ヒロ様の心が弱すぎるなどということはありえません!」
「え?
いや、ルウは知らないかも知れないけど、お前に出会う前の俺ってホントに弱かったんだぜ?」
「いーえ、ヒロ様は最初から心根の強いかたですわ!
だってその強さのおかげで、わたくしは命を救われたのですもの!!
見ず知らずの魔物にさえ手を差し伸べる、その強さのおかげで!!」
気が付いたら熱弁していたわたくし。
ヒロ様はそんなわたくしを、びっくりしたようにまじまじと見つめていましたが――
やがてわたくしの胸に、そっと寄り添ってきました。
「ありがと……ルウ。
今になって……思い出してきちゃったんだよ。母さんも、よく言ってたなって……
ヒロはとっても強い子だって。
あんなに優しい母さんだったのに、俺……なんで、今まで、忘れてたんだろう。
そう思ったら……すごく、苦しくなって……」
ぎゅっとわたくしを抱きしめ、子供のように頭を振るヒロ様。
やがてその背中が、大きくしゃくりあげました。
胸のあたりに触れているヒロ様の目や頬のあたりが、じわりと熱くなってくるのを感じます。
濡れた艶やかな髪の毛が胸に触れ――ひゃぁ、くすぐったい。気持ちいい。昇天してしまいそう
……い、いや、そんな場合ではありません。
「こんな風に、急に今になって色々思い出してくるというのもおかしいです……
わたくしのように、邪悪な術によって意識を封印されていたというならともかく
――あっ」
「?」
きょとんとして顔を上げるヒロ様に、思わず饒舌になってしまうわたくし。
「閃きましたわ。その可能性なら十分ありえます!」
「閃いたって……何を?」
「何らかの理由で、ヒロ様はお母様にまつわる記憶を封じられてしまった。
そう考えると、ある程度つじつまが合いませんか?」
「いや……合わないだろ。
じゃあ誰が、何のために、どうやって、母さんに関する俺の記憶を封じたんだ?
しかも何で今、それが突然蘇ってきたんだよ?」
「理由までは分かりません。しかし、そう考えた方がしっくり来る気がするのです。
ヒロ様はそうは思いませんか?」
思わねぇよ。そう返ってくるかと思いましたが――
ヒロ様はふと考え込んでいる様子。
「……じいちゃんに、聞いてみよう。
俺、まだ……やらなきゃいけないこと、たくさんある」
ヒロ様は顔をあげ、ゆっくりとわたくしから自分の身を離しました。
その頬にまだ涙は残っていますが、表情は既に引き締まっています。
おぉ……この顔つきはまさに、伝説の勇者そのもの。
洞窟のはるか上に、わずかに開いた穴。そこからはほんの少し夜空が見えました。
ほのかな月の光が洞窟の中まで届き、水晶がきらめいています。
その光を求めるように泉へ進みながら、そっと呟くヒロ様。
「母さんのことも、レズンのことも。
俺、納得いかない。全然、納得いってない。
母さんに何があったのか。レズンはどうして、俺をあんなに嫌っているのか。
それを知るまでは――俺、納得できないよ」
泉から生まれた水晶の光はヒロ様の身体の周囲を妖精のようにくるくる回り、その傷を癒していく。
しっとりと濡れた水兵服の背中。裂け目からは火傷の跡がちらりと見えました。
それだけではありません。肌に張りついた布地を通して、肩や胸、あらゆる場所にはっきりと透けて見える傷跡――
わたくしの治療により痛みと出血はおさまったはずですが、傷つけられた跡は簡単には消えず、ヒロ様の身体中に色濃く残っております。それはそのまま、散々に痛めつけられたヒロ様の心をも表していると言っていいでしょう。
それでも――そんな傷ついた小さな身体さえも、美しい。
多くの傷をかかえ、それでも前に進もうとする純なる魂。この世にこれ以上美しいものがあるでしょうか。
「……分かりました、ヒロ様。
わたくし、ヒロ様とならどこまでも、一緒に行きますわ。
失くしたものを、取り戻していきましょう」
わたくしは思わず、ヒロ様にそっと触手を伸ばしていました。
ヒロ様はそれに気づくと、優しくわたくしの触手の先端を握りしめ、胸元まで引き寄せてくださいます。
その手のひらからは、ほのかにあの、柔らかなエメラルドの光が漏れ出ていました。そう、あの『魂術』の光が……
あぁ。これはもう、イケメン中のイケメンそのものですわ!
「……ありがとな、ルウ。
お前が元に戻ってくれて、本当に良かった」
「大丈夫ですよ。
ヒロ様はわたくしを取り戻せたのです。お母様の記憶だって、きっと取り戻せます」
――そうしているうち、またおぼろげに、わたくしの中で記憶が蘇ろうとしていました。
この感触。ヒロ様がわたくしを抱きしめて……魂術で包んでくださった……
その時感じたものは、とても暖かく、愛おしく……
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