第110話 触手令嬢、奪われる
その瞬間、わたくしは気づいてしまいました。
魂術の構えに入ったヒロ様を、靄の中からじっと見つめる何かに。
とてつもなくねっとりとした、冷たい視線に。
これは……
いけません。とんでもなくいけません!
ヤツはターゲットを切り替えました。それは勿論――
「ヒロ様! 逃げてください!」
黒の靄に向けて、瞬時に触手で攻撃を開始するわたくし。
しかし先ほどのA×MRもどきの音波攻撃はやはり全神経を鈍らせてしまっていたのか、思うように触手が動いてくれません。
その間に――
「う、うわぁあぁっ!?」
……やられました。
一気に黒の靄はヒロ様に襲いかかったかと思うと、まるで鎖の如くその形状を変化させ、その手足に絡みついていきます。
あぁ、なんということでしょう。瞬く間にヒロ様の姿がかき消えていく――
わたくしも会長も一瞬、動けなくなっている間に!
《うふふ……なんて可愛らしい。
ずっと、触ってみたかった。
ユイカ、これが貴女の子。貴女の分身なのね……》
「ぐ……っ!!」
再度魂術を発動する余裕すら与えられず、完全に靄にからめとられてしまったヒロ様。
魔妃そのものと言っても差し支えないキモチワルイ笑い声が、あたりに響きます。嫌悪しか感じない、あのA×MRな笑い声が。
それでもわたくしは必死で、ヒロ様の名を叫びました。
この状況は最早、どうにもならない。そう分かっていても。
「ヒロ様っ!
ヒロ様ぁああぁーッ!!!」
すると、靄の中からかすかに聞こえたのは――
ヒロ様の、叫び。
「ルウ……大丈夫!
俺はまだ、大丈夫だから!
この人はきっと、まだ何か知ってるんだ。俺の母さんのこと……
俺、知りたい。母さんは最後に、何を思ったのかを。
だから――!!」
それきり、ヒロ様の声は靄の中へと吸い込まれてしまいました。
靄はヒロ様の身体ごと彼を呑みこんだかと思うと、そのままその場から消失していきます。
まるで、用は済んだと言いたげに。
「待って!
待ってください、ヒロ様!!
こんなの、こんなの酷すぎます!! ここまで来て、何と情けない……っ!!」
あの声が聞こえなくなった途端に、今更のように自由に動き始めるわたくしの触手。
あらんかぎりの力でわたくしは靄のあったあたりに触手を振り回しましたが、既に時遅し。
――最早その場には、レーナの気配もヒロ様の感触も、何も存在しませんでした。
あれほど愛おしかった、ヒロ様の香りと体温すらも。
あまりのことに、がっくりと膝をつき――もとい、全触手を床に広げながらへなへなとうなだれてしまうわたくし。
情けない。あまりにも情けない。
せっかくヒロ様が、命がけでわたくしを救出してくださったにも関わらず――
彼の手助けをすることもろくに出来ないまま、またしてもまんまとヒロ様を奪われてしまうとは。
しかもその相手は、かつて世界を滅ぼしかけた最強最悪の魔妃、その末裔。
あまりの絶望に、気が付けばわたくし、人目も憚らず床に伏せて号泣してしまっておりました。
触手族の本気号泣は野獣の咆哮とさして変わらなくなってしまいますが、そんなこと今やどうでもいいです。
「お……おぉおぉおおぉう……っ!!
一度はヒロ様の敵に回り、ようやく目が覚めたと思ったら眠らされてヒロ様を奪われ、それでもようやくヒロ様を取り戻せたと思ったらこんな……ッ!!
最早わたくし、触手族の末代までの恥ですわ!!」
「ルウさん、落ち着いて」
「これが落ち着いてなどいられますか!
こんな情けない醜態、嫌われヒロインムーブなどという生易しいものではありませんッ!!
う、うう、うぅあぁあああぁあああぁあ~~!!!」
「ルウさん……
すまない。僕も無力だった」
会長が必死でわたくしを宥めてくださいますが、それでもわたくしは嗚咽を止められませんでした。
これではせっかくカシムや父上がわたくしを解放した意味も、全くないではありませんか! 会長とおじい様にも、ここまで協力していただいたのに!!
「ルウラリア、落ち着くのじゃ。
とりあえず泣き止まんか。ただでさえボロい小屋が吹き飛んでしまうぞ」
おじい様の声も響いてきますが、わたくしの絶叫号泣はそれでも止まりません。
でも、このまま泣きぬれて涙で溺れ死んだとしても構いません。触手令嬢の風上にもおけぬ、このようなダメ触手など……
しかしその瞬間、小屋中に鳴り響いたものは、おじい様の怒号でした。
「ルウラリア!
お主が諦めてどうする。まだ、ヒロがどうにかなったわけでもあるまいに!!」
厳しいながらも優しさのこもったその声に、わたくしは思わず頭部をもたげました。
見ると、わたくしの号泣があまりに凄まじかったのか、その場のほぼ全員が耳を塞いでおります。
それでもおじい様は落ち着いた声で、わたくしを諭してくださいました。
「ヒロは言っておったな……ユイカが最後に何を思ったのか、知りたいと。
恐らくあやつは、自分の母親の真相を確かめたいのじゃろう。だから敢えて、魔妃の元へ囚われたのかも知れん」
そんなおじい様の言葉に、わたくしは救われた思いでした。
レーナの元に赴くことでヒロ様がお母様の真実を知ることが出来るなら、確かに全てが悪いことでもないのかも知れません。ただ、ヒロ様がご無事であればの話ですが!
会長もわたくしのそばに膝をつきながら、静かに諭してくださいます。
「それに、ルウさん。
ヒロ君の行動のおかげで――ちゃあんと、『彼』はここに残ったじゃないか」
会長がゆっくり振り返り、視線を向けた先には――
魂が抜けたかのように茫然としたままのクズ……もといレズンが、床にぺたんと座りこんでおりました。
全く――なんて腹ただしい事態でしょう。
ヒロ様が奪われたというのに、何故このクズがここにいるのでしょうか。
「ヒロ……おふく……ろ……
なん、で……?」
その乾いた唇からブツクサブツクサ、うわごとのような言葉が聞こえてきます。あぁ、もう、その汚らわしい口でヒロ様の名を呼ばないでもらいたいですわ!
それでも会長は冷静なものでした。
「ヒロ君のおかげで、レズンはレーナに再び囚われずにすんだ。
おかげで、レズンが再び力を暴走させることもなくなった。
ヒロ君の勇敢な行いを、決して無駄にしてはいけない――」
そして会長はじっと、レズンの顔を覗き込みました。
やはり魔王の風格。穏やかに膝をつきつつも、その眼鏡の奥に光る紅の瞳からは、得体の知れぬ凄味を感じます。
それを前にすると、さすがのわたくしも泣いてなどいられません。
全てを失い、抜け殻のようになってしまったレズン。そんな彼も、半分朦朧とした状態ながら、のろのろと顔を上げました。
「レズン。
君は、どうしたい?」
「……」
むぅ……このクズに、今更会長は何を問おうというのでしょう。
ヒロ様に拒絶され、父親からも見捨てられ、そして今や母親さえも自分よりヒロ様を優先した――
そんなレズンの口から、不意に出た言葉は。
「俺には……
もう、何もねぇよ」
その通りです。というか、何もないどころか負の要素が多すぎます、貴方は。
ようやくそのことに気づいたのでしょうか――
クズには十分相応しい末路ですが、それでも会長はレズンの両肩を掴み、顔を上げさせました。
「今の君は全てを失ったかも知れない。
だけど――何かを少しでも取り戻すことは、出来るはずだ。
レーナ・カスティロス――暴走するあの母親を止められるのは、レズン。
息子たる君しかいないと、僕は思っているよ」
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