第70話 記憶

 

 朦朧とする意識の中――

 どこからか、あたたかな気配を感じた。

 ヒロはゆっくりと目を開く。



 そこは、見慣れた自分の屋敷――そのリビングだった。

 魔界の風情に寄せられた黒い石造りの暖炉も、鉢に植えられた鬼魔百合も、いつもと変わらない。

 ただ――何故かいつもと違って、全体的に部屋や家具が大きいような気がする。



 赤々と燃える暖炉の前で、自分をなでてくれる人がいる。

 それは見覚えのない女の人だった。ヒロの頭をなでながら、優しく抱きしめてくれていた。

 ヒロと同じ、緋色の髪。柔らかなその感触が、頬をくすぐる。



 ――ヒロ、もう泣かないの。

 貴方は強い子でしょう?



 ヒロは思わず頭をあげて、まじまじと彼女の顔を見つめた。

 やっぱり、見覚えがない。それでも、何故かとても懐かしい感じがする――



 夢とも幻ともつかない、そんな空間の中で。

 ヒロはしゃくりあげながら、その女の人に抱かれていた。



 ――だって、だって……

 みんなのほうがわるいんだ。ボクをなぐって、いじめるんだ!

 ボク、みんなになんにもしてないのに……!



 ヒロはいつの間にか、5歳ぐらいの頃に戻ってしまっている。

 部屋が大きくなったのではない、自分の身体や感覚が子供になってしまったんだ。

 これは夢なのか、それとも自分の記憶なのか。分からないまま、ヒロはひたすら泣きじゃくっていた。


 すると彼女はそっと微笑みながら、ヒロを諭す。



 ――本当にヒロは、なんにも悪いことはしていないのね?

 自分から先に殴りかかったり、ウソをついたり、転んだところを笑ったり。

 お友達に、そういうことはしていない?



 ――してないよ。絶対してない!

 ひっく、えぐっ……ぐすっ……



 しゃくりあげながらも断言するヒロ。

 そんなヒロを膝に抱き上げながら、彼女は呟いた。



 ――それじゃあ、教えてあげる。

 お友達と仲直りするための、おまじない。



 ゆっくりと、彼女の唇が動く。

 その言葉はそこだけ、まるでヒロの心に刻むように、奇妙にはっきりと聞こえた。



 ――ドナルミ・フォトン、クリス・デ・クラーゴ。



 ぽかんとしたまま、ヒロは彼女を見上げる。


 ――ど、どなる……ど?


 わけが分からなくなっているヒロの頬を、優しく包み込む両手。

 焼きたてパンのいい香りがした。


 ――これはね。お友達が悪いことをして、ケンカになっちゃった時……

 仲直りするためのおまじないなの。

 僕に力をください、勇気の結晶よ……っていう意味。


 ――??


 ――ヒロ。遠い昔、魔物と人間がずっとケンカをしていたのは知ってる?


 ――うん……

 今はみんな仲良くやってるし、信じられないけど。


 ――そんな魔物と人間を仲直りさせたのが、『勇者』。


 ――ゆう……しゃ?


 ――そう、『勇者』。

 そしてヒロ。私にもあなたにも、その力がある。

 今の言葉は、勇者も使っていた、おまじない。


 ――ゆうしゃ……が?


 ――だから、本当にお友達が悪いことをして、どうしようもないケンカになっちゃったら……

 そのおまじない、使ってみて。




 彼女の言葉と同時に、急速に、周囲の景色が滲んでいく。

 見知らぬ女性の胸に抱かれながら――

 ヒロの中で鮮やかな映像が次々に甦り、春の雪解け水のようにこんこんと溢れていくような感覚がした。





 あぁ……そうだ。

 俺、あの後、何だかちょっと怖くなって。

 結局あのおまじない、使えなかったんだっけ。

 このこと……何で、忘れていたんだろう?

 何で、母さんのことを……



 ……母さん?





 ――そうだ。

 俺、母さんのこと……生まれてすぐいなくなったって思ってたけど。

 顔も覚えていないし、ずっとそう思ってたけど……

 でも、違った。

 忘れてたんだ。今の今まで、俺、母さんのことを。

 泣き虫だった俺を、いつも抱きしめて励ましてくれたのに。

 あんなに優しい母さんだったのに……俺、忘れてた。



 そして今も何故か、母さんがいなくなった時のことを、思い出せない。

 いったい、どうして……?



 そう思った瞬間から――

 ヒロの身体の奥底に、再び力が宿り始める。

 嵐の中、今にも消えそうだった命の灯。それでも炎は熱くうねり、風に逆らい揺らめいた。

 絶対、負けない。絶対、ルウを取り戻す――その想いと共に。



「ど……

 ドナル僕 に……ミ……フォト力 を……」



 レズンにのしかかられ、ひどく苦しい息の中。

 それでも掠れた声で、ヒロは呟いた。母から教えられたはずの、その呪文を。

『お友達と仲直りするための、おまじない』を。



 ――その刹那。



 ずっと動かなかったはずのヒロの右手が、ふわっと地面から持ち上がった。

 掌いっぱいに広がっているものは、まばゆく煌めくエメラルドの光。

 それはまるで雷術の如くバチバチと閃光を放ちながら、ヒロの上に覆いかぶさっていたレズンを一瞬で吹き飛ばした。



「な……何だ!?

 ヒロ、てめぇ……っ!」



 思いきりしりもちをつくレズン。

 主の危険を感じ取ったのか、ルウが素早くその前に出る。

 だが、ヒロの放った光はレズンを吹き飛ばすだけに留まらない。それは最初の一撃に過ぎず、ヒロの掌の中でどんどん膨張を続け――


 その光はヒロを拘束していた蔓さえ、ブチブチ引きちぎっていく。

 光を通じて、溢れるほどの勢いで身体に満ちていく力。それはヒロの意識を強引に現実に引き戻し、ボロボロだった身体さえも再び起き上がらせたが――



「な……な、何だよこれ……!?

 あ、頭が、割れ……っ!!」



 力が、制御出来ない。ヒロ自身ですら。

 今にも爆発しそうな光を何とか抑え込もうとしても、キィンとよく響く音をたてながら、光は膨れあがっていく。

 そればかりか、光自体が持つ衝撃波が周囲に突風を呼び起こし、森じゅうの葉がちぎれとんで渦を巻いていた。



 ――もしかして、これも……いや、これこそが……

『魂術』の力?



 光の持つ不可思議な力で何とか起き上がれたものの、全身の痛みは変わらない。

 それどころかヒロ自身すら焼いてしまうほどの勢いで、光はその力を増していく。火花のように放射された閃光はヒロの肌にも突き刺さり、焦げた臭いが鼻をついた。



「ぐ……あ、駄目だ、やめ……っ!!」



 広がりつつある光を、どうにか両手で抑え込もうとするヒロ。

 まさか、そんな――ほんのおまじないのつもりで、呟いただけだったのに。



 ――こんなものをまともに浴びせたら。

 ルウは……レズンは!!



 ヒロの頭にまず思い浮かんだのは、ルウとレズンのことだった。

 こんな威力の術を放てば、二人ともその場で消滅したっておかしくない。



 そう判断したヒロは、咄嗟に光をルウとレズンの方向から無理矢理逸らそうとする。

 それだけで左肩に激痛が走り血が噴き出したが、二人が粉みじんになるよりはマシだ。

 両手が焼け焦げ、意識ごと吹き飛ぶ寸前ながら、それでもヒロは強引に光をコントロールしようと、両脚を踏ん張り立ち上がった。

 骨のどこかが折れているのか、右足首に走る激痛。太ももからの出血も止まっていなかったが、それでも関係ない。



 ――何とか。何とかしなきゃ。

 この力が弾けてしまう前に!


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