第69話 少年、絶望に呑まれる
カシャッ、カシャッ……
あの音だ。
ミラスコで、また撮られている。
そう気づいたところで、ヒロにはもう何も出来なかった。
真っ赤に染まった視界の中、レズンが自分に馬乗りになっているのは辛うじて分かる。
魔草の分泌液から発せられる悪臭だけで酷い眩暈がしていた。血と涙で視界がぼんやりして、レズンの顔も、その背後のルウも……
自分がどうなっているかさえ、よく見えない。
ぼろぼろになった襟元はレズンの両手で勢いよく裂かれ、何故かその間へ何度もレズンは頭を埋めていた。
激しい息遣いが、ヒロにも聞こえてきたが――
だがもう、恐怖と激痛をこらえるだけで精一杯だ。口も魔草に塞がれ、呼吸すらおぼつかない。
さらに響き続ける、ミラスコの音。顔のみえないままのレズンが、片手を上げながらヒロを撮っている――
トイレに閉じ込められて制服を切り裂かれた、あの日の悪夢。
その恐怖の記憶が、ヒロの思考も身体もさらに硬直させていた。
全ての現実を遮断するかのように、眼をつぶる。それでも瞼の裏に浮かぶものは――
集団に暴力をふるわれ、一切の抵抗も許されなかったあの地獄だった。
――あの日と一緒だ。
どうして、レズン……信じていたのに。
カシャ、カシャッ……
ミラスコの無機的な音が一層近くなり、何故かレズンの息が荒くなる。
どうしようもない悲しみが、ヒロの心に押し寄せてくる。
しかしそんなヒロの想いも知らず、全身を縛っている枝とは違う何かが、肋骨の下から鎖骨にかけてを蠢いていた。
その感触は、生暖かく湿っぽい。ヒロがどれほど強く目をつぶっても、容赦なく首筋から頬まで這い上がってくる。レズンの吐息と共に。
嫌だ、嫌だ、嫌だ……
レズンが何をしようとしているのか、分からない。
俺にこんなことばっかりして……何がしたいんだよ、ちくしょう。
奥歯でほんの少し、最後の抵抗とばかりにぎりっと魔草を噛みしめようとする。だがもう口にさえろくな力が入らず、ただ呻きが増すばかり。
すると、ヒロの口を塞いでいた魔草が突然、引き抜かれた。
歯が折れるかと思うほど強引に引っ張られ、ヒロは思わず激しく咳き込んでしまう。ずっと口から漏れ続けていた粘液も、大量に吐き出してしまった。
ピィイとやたら甲高く聞こえた悲鳴は、魔草の声だろうか。
「げほっ……!!
がはっ、げはっ、ぐ……はぁ、ああぁ……」
やっと呼吸だけはまともに出来るようになり、空気を求めて喘ぐヒロ。
だがその頭上から、どぼどぼと粘液が滝のように落ちてくる。ほんの少しだけ目を開いてみると――
すぐ上に、魔草の口が見えた。その喉から飛び出したままの、ちろちろと蠢く細い舌まで。
にやにやとヒロを見つめるレズンの目。その手は魔草の茎――人間で言えば首にあたる部分をむんずと握りしめている。
陸にあげられた魚のように、レズンの手の中でのたうち回る魔草。その喉からヒロに向けて、思いきり分泌液が吐き出されていた。
レズンの声。
「そうだ……
お前こないだ、俺のとっておきのクスリ、飲んでなかったよなぁ。
せっかくイイ気持ちになりたかったのに、バケモンに邪魔されてさ。
あのクスリほどじゃねぇが、この魔草もそれなりにクるんだぜ?」
そう言いながらレズンはミラスコをポケットにしまうと、その手でヒロの髪をぐっとわし掴んだ。
魔草をその上に振りかざすと、まるで泥でもぶちまけるように、魔草の分泌液をヒロの顔じゅうにぶちまけていく。粘液に混じって飛び出したゼラチン状の塊までが、ぼとぼとと落ちてくる。
赤に染まっていた水兵服が、今度は白く汚れた。
ヒロの髪に、襟に、頬に、粘液が塗りつけられていく。
レズンの笑顔が、すぐそばにある。
歪み、狂ってしまった笑顔が。
「俺のもんだ。俺のもんだ……
誰にも渡さねぇ」
微かに聞こえたものは、そんな呟き。
粘液の異臭によって喚起された強い眩暈と共に、視界がさらに赤く染まっていく。
覆いかぶさってくるレズン。その向こうで、依然としてヒロを冷たく見据えたままの、ルウの姿が揺らめいた。
――駄目だ。身体じゅうが痛くて……眩暈が、止まらない。
誰か……誰でもいい。どうか、ルウを……
枝が絡みついたままの身体に、のしかかってくるレズン。
それを拒むかのように、ヒロの意識は急速に遠くなっていく。
――もしかして、レズンは……
ううん、違うよな。そんなはずない……俺の思い上がりだ。
仮に……そうだとしても、俺は……
ヒロの心が、閉塞していく。
全ての現実を、苦痛を、拒むように。
――俺、強くなりたかった。
ルウも、レズンも、みんなも、助けられるくらいに。
なのに……
また胸のあたりから、金属の冷たさと同時に全身を貫くような衝撃が走った。
もう分かっている――校章による電撃だ。
目を閉じていても、瞼の裏を走る血管が一瞬チカチカ光る感覚さえする。
それでももう、ヒロの意識は浮上しない。
絶望で心を閉ざし、深い闇の底に沈んでいくがままだ。
「お……おい、ヒロ?
……冗談だろ?」
少し戸惑ったような、レズンの声がする。
それを最後に、ヒロの耳にはもう、何も聞こえなくなってしまった。
冷たくなっていく唇から漏れたものは、震えるような呟き。
――誰か……
お願いだ……ルウを、たす……け……
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