第71話 命を賭しても
頭蓋骨が内側から砕けるレベルの頭痛をこらえながらも、ヒロはそっと背後を確認した。
やっと拘束は解けた。逃げるなら今だけど、ここは確か湖の中の小島――
激しくざわめく森の向こうから、波の音もかすかに聞こえる。光の膨張で、森だけじゃなく湖自体も反応しているのか。
そう思いついた時にはもう、ヒロは懸命に地面を蹴って走り出していた。森の向こう、湖へ向かって。
単純に、炎は水で消せるかも知れない。そう思っての行動だったが。
「てめぇ……俺から逃げられると思ってんのか!
追え、ルウラリア!!」
レズンの絶叫が聞こえる。
同時に、ルウが自分を追って飛び出してくる気配も。
触手がバキバキ木々を折りながら突進してくるのが、手に取るように分かった。
痛む足を蹴り上げるようにしてヒロは懸命に走ったが、ルウのスピードにかなうはずもない。破られたズボンの裾も血まみれの裸足にからみつき、何度も転びそうになる。
ほんの少し振りかえると、ヒロの光を全く恐れず飛び込んでくる、触手令嬢の姿が見えた。
紅の眼球を冷たく光らせ全く無警戒にヒロに襲いかかるその姿は、ゾンビと形容してもいいだろう。
ただただ主たるレズンの命令を遂行するべく、操られた人形。
――でも。
それでも俺は、ルウを……
諦めたくない。
掌の光は、さっきの十数倍にまで膨れ上がっている。
ざわめく森は唐突に途切れ、そのすぐ向こうには黒く波打つ水面が広がっていた。
迫ってくるルウ。その後ろでニヤつくレズン。
頭の中では声が響く。鼓動と共に。
――おまじないはね。
最後まで唱えることで、ちゃんと効きめが出るの。
おくすりと同じ。
それは多分、おぼろげな記憶の中の母の声。
ヒロはまだ、呪文の全てを唱え切ったわけではない。それでもこれほどの力が発動しているということは――
力の全てを解放したら、どれほどの威力になるのか。走り続けながら、ヒロは思わず身震いした。
掌の輝きは膨れ続け、抑え込もうとしてもほぼ無駄だ。
完全に発動させる以外に、この光をどうにかする方法はないのかも知れない。だからこそ、頭の中の声はヒロに言い続けるのだろう――最後まで唱えろ、と。
足元で草がざわめき、その葉がヒロの素足を切る。
そこへ何度も飛んでくるルウの触手。レズンの怒声。
「ヒロ、諦めろ!
今度こそ、素っ裸にされてぇか?!」
その声と同時に、ヒロは右足を触手に薙ぎ払われた。
「!」
勢いあまって草むらを転げ落ちてしまうヒロ。
血まみれの足首に、さらに絡もうとするルウの触手。
眼前に迫るのは黒い湖面。背後には、眼球を真っ赤に染めて遮二無二突進してくる、変わり果てたルウの姿。
それでもヒロはギリギリで触手をかわし、よろよろと立ち上がり、走る。
――前の俺だったら一撃で気絶するか、すぐにつかまって終わりだったな。
これもやっぱり、修行の賜物か。
修行中のルウは、今よりよっぽど敏捷だった気がするし。
何度倒されても、何度つまずき転んでも、どれほど傷を負っても――
ヒロは諦めなかった。それでも立ち上がり、駆け続けた。
絶望の中の、ほんのわずかな光。それを必死に探りながら。
だがそこは不幸にも、狭い小島の中。
ヒロがルウから何とか逃げられたのは、ほんの十数秒程度だった。
気が付けば、森の端の端。足をほんの少し踏み外せば湖へ真っ逆さまという崖まで、ヒロは追いつめられてしまっていた。
肩でぜぇぜぇと苦しい息をしながら、ヒロは背後を確認する。
足元の土がほんの少し崩れ、塊となって数メートル下の黒い水面へと吸い込まれていくのが見えた。
――もう、逃げ場がない。
その時ヒロの脳裏に、かすかに閃いたものがあった。
――湖……水……
もしかしたら。
絶体絶命の中思い出したのは、ルウとの最初の出会い。
あの時――確か、ルウは……
そんなヒロの思考も無視して、飛び上がりながら全身で襲いかかってくるルウ。
ヒロの掌で輝く膨大な術力を目にしても、黒い湖を眼前にしても、彼女はまるで躊躇する様子がない。恐怖の感情すら失ってしまったのか。
殆どの触手を使って大地を蹴り上げヒロに組み付いてくるそのさまは、まるで戦車だ。
迷っている時間は、もうない。
――とても危険な賭けだ。ルウには悪いけど……
でも、もう、この方法しか!
全身の力を振り絞り、両手の光をルウから逸らし、空へとかかげる。
膨大な術力に耐えきれないのか、両腕が肩から引きちぎれるかのような激痛が走った。
巨大な万力で腕を無理矢理引きちぎられるかのような苦痛。左肩の傷口からも一気に血が噴き出す。
「ぐ……!
う、うぐっ……!!」
そんな無防備な体勢になったヒロに、当然ルウは一息に襲いかかっていく。
無数の触手がヒロを抱きしめるように、身体じゅうに絡みつき――
そのうちの一本が、無情にもヒロの左肩、その傷口に突き刺さった。槍のように。
「ぐ、あ、うああぁあああああぁああっ!
る、ルウ……っ!!」
あまりの激痛に絶叫するヒロ。
それでも彼は決して、かかげた光を降ろしはしなかった。
少しでも腕を下げれば、光はルウを直撃してしまう。だから――
ヒロの悲鳴と同時に、レズンの笑い声が森に響く。
完全に勝ち誇ったような声が。
「いいぞ、ルウラリア!
そのまま気絶させてしまえ!!」
眼前に迫るルウの真っ赤な眼球。宙に舞う長い銀髪。身体に絡む冷たい感触。
左肩に食いこんだ触手はギリギリと音までたてながら、肉を食い破って奥深くまで侵入していく。
あと数秒もすればレズンの言葉どおり、出血と痛みで自分は気絶してしまうだろう。
もしかしたら、死んでしまうかも知れない。
それでも――
――俺、やっぱり、生きたいんだ。
ルウと一緒に。
ルウの紅の眼球に、魂術のエメラルドの光が反射している。
それは微かにルウの眼の奥で震え、元の青さに似てきているようにヒロには思えた。いや、思いたかっただけかも知れないが。
「……ぐ……あっ……はぁっ……
く、クリ……ス……!」
もう、声を出すだけでも精一杯だ。
既に四肢はルウの触手に絡めとられ、首まで絞め上げられている。
それでもヒロは叫んだ。声を限りに、『おまじない』を。
「――
その瞬間。
ヒロの両手に掲げられた膨大な術力の光は一気に空へと伸び
巨大な光の剣の如く、その形状を球から直線へと変化させた。
ヒロの意思で抑えに抑えられていた力はそのエネルギーをひと思いに噴出させ、レーザーの如く天を裂いていく。
「な……なんだ!?
う、うわぁあああぁっ!!」
ルウとヒロを追って至近距離まで近づいていたレズンは、光自体が放った衝撃波だけで吹き飛ばされ、背中から木に叩きつけられていた。
線となったその光は加速度的に太さを増し――
発射から数秒後には、天を支える光の柱と言っても遜色ないレベルの脅威となり。
黒く染まっていたはずの空が、太陽でも現れたかのようにこうこうと照らされた。
そんな光景を見ながら――
ヒロ自身はルウの触手に囚われたまま、衝撃波によって彼女ごと宙に弾き出されていた。
全身から恐ろしい勢いで、力という力が抜けていく。手から解放された光はヒロの指先でちりちりと砂のように弾け、消失していく。
――よかった。
この光が……ルウを吹き飛ばさなくて。
冷たい触手の感触を身体じゅうに感じながら、それでも安心したのか。
力を失いながらもヒロは、唇に微笑みさえ浮かべていた。
重力に一切逆らわないまま、ヒロとルウの二人はそのまま、黒い水面へと落ちていく。
ヒロは最後の力を振り絞りながら、まだ動く右腕でルウの身体にしがみついた。
もう、離れない。その想いをこめて、ぎゅっと。
――ルウ……ごめん。
最初の時と同じ、苦しい思いをさせるかも知れないけど……
俺、きっとまた、助ける……から……
だから――!
かつて、死のうとしても湖に飛び込めなかった少年は――
今、果敢に湖に飛び込んだ。
死ぬ為ではない。大切な存在と、共に生きる為に。
最後に聞こえたものは、空のどこかで薄いガラスが割れるような破砕音。
その響きを聞いたとほぼ同時に、背中が冷たい水面に叩きつけられ。
ヒロの意識は、すうっと消えていった。
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