第72話 触手令嬢、復活する!!!


 ――声が、聞こえました。

 とても可愛らしい、それでいて、強い意思の秘められた声が。

 すぐ近くで、わたくしを呼んでいました。



「……ヒロ……さま?」



 そこは冷たい水の中。

 黒く染まった世界の中で、きらきら光る一筋の光が見えます。

 誰かに抱かれながら、わたくしは水の中を浮きつつ、空を眺めていました。



 わたくしは……いったい、どうしていたのでしょう?

 確か……ヒロ様と別れて学校へ向かい……そして……?

 ぼんやりと空の光を眺めていると、もうろうとしていた意識が次第にはっきりしてきます。

 すると――



「……ひ、ヒロ様!!?」



 最初に見えたものは、ヒロ様が無我夢中でわたくしに抱きついている姿。

 というか、わたくし自身がヒロ様を無数の触手で絞め上げてしまっております。

 そして……



 その全身は、見るも無残な傷だらけ。

 あの可愛らしかった水兵服はズタズタに切り刻まれ、布面積の半分以上が消失していると言っても過言ではありません。

 ズボンまでが膝から下の部分が何故かちぎれ飛んでおり、お尻のあたりまで縦に引き裂かれ、まるでボロボロのスリットスカートです。裂け目から覗くものは、ほっそりとしながらも筋肉のつき始めた裸足。

 袖は肩から先が殆ど消失しており、二の腕にわずかに残されたぼろ布が頼りなげに水の中を漂っております。そのさまは傷ついた羽衣と言っていいほど美しいですが、なんとも痛ましい……

 そして――

 破られた布の間から見え隠れする素肌は、ほぼ血にまみれていました。鉄の匂いが嗅覚を痛いほど刺激してきます。


 こんな状態でありながら、ヒロ様の右手はしっかりとわたくしの触手を掴んでいました。

 絶対に離さないとばかりに。指が食い込んできて痛いくらいです。


 いったい何が起こったのでしょうか。わたくしが最後に見た時のヒロ様は……

 ケンカはしたものの、まだ全然元気だったはずでしたのに。


 わたくしは確か、ヒロ様と口論をした後……

 サクヤさんと一緒にレズンと会い、そして――



 そこまで思い出した時、わたくしは気づいてしまいました。

 自分自身の触手が、なんと、ヒロ様の左肩に突き刺さっていることに!!



「ひっ……

 い、いやあぁああぁあああぁああぁ!!!

 な、なんたること……ヒロ様あああぁあああぁあ!!?」



 ヒロ様を抱えたまま慌ててじたばた触手でもがきまくり、水面へと浮上するわたくし。

 刺さった触手を思わず抜きかけましたが、何とか思いとどまりました。人の身体に突き刺さった触手を不用意に抜いたりしたら、逆に大量出血でヒロ様が死んでしまうかも知れませんから。


 そしてどうやらここは魔界の深部に近い湖のようで、浮力もかなりあるようです。わたくしの重量でも沈むことなく、簡単に浮くことが出来ました。

 何とか水面へと浮かびあがったわたくしは、ずぶ濡れのままぐったりしてしまったヒロ様を、精いっぱい抱きしめます。



「ヒロ様。ヒロ様……

 あ、あぁあ……どうか、どうか目を覚ましてくださいまし!

 いったいどうしてこんなことに……?」



 わたくし自身の姿も、いつもとなんか違います。上半身が人間のままで、下半身が触手形態という何とも中途半端で、ぶざまな姿。

 しかも上半身を覆うものは水着に似た紫色の鱗だけで、他には何もないというありさま。ヒロ様の前でこの恰好は正直、恥ずかしいですわ! 


 いや、この状況下で恥ずかしいなどと言っていられません。

 刺さった触手を少し動かすだけで、水兵服にじわりと血が滲んできます。

 一刻も早く、ヒロ様の治療をしなければ。そう思いながら、ゆっくりとヒロ様の身体を触手で抱き上げました。

 さすがは魔界の湖の浮力。わたくしがちょっと水面下で触手をじたばたさせているだけでも、何とか沈まずにいられます。

 ヒロ様が沈んでいたのはほんの少しの間だったのか、苦しげながらもちゃんと息はありました。

 濡れた布ごしに、肌の暖かさも感じます。とくんとくんと鳴る可愛らしい心音も。

 左肩の傷をあまり動かさないようにしながら、慎重に水から引き上げると――



「ん……っ……

 る……ルウ……?」



 ヒロ様のまぶたが微かに開いたかと思うと――

 若草色の美しい瞳が煌めき、ぼんやりとながらわたくしを見つめました。

 何故かずいぶんと久しぶりのような気がする、ヒロ様の瞳。

 まぶたが二、三度ぱちぱちと忙しなく瞬いたかと思うと、信じられないほど大きく見開かれました。


「ヒロ様。ヒロ様、大丈夫ですか!?

 いったい何があったのです? わたくし、何故ヒロ様にこのような……」

「…………」


 ヒロ様はぽかんとわたくしを見つめたまま、答えてくれません。

 ただその右手は、微かに震えながらもぎゅうっとわたくしの触手を掴んできます。

 やや腫れあがった頬とまぶたが痛々しい。それに……


 首筋にまとわりついた緋色の髪。乱暴に引きちぎられた水兵服の襟元。その間からちらちら覗く鎖骨……

 しっとりと濡れて素肌に張りつき、身体の線が露わになった服。滲んだ血の赤さえ美しい。

 ちぎれたスカーフの端から滴る水。

 ボロボロになった裾からはおヘソまでがちらちらと見えて――ズボンもベルトが外れ、水の重みでずり落ち腰骨あたりまで……しかもちょっと端がちぎれかけたおパ〇ツまでが……

 こ、これ以上の描写は出来ませんわ!!



「あ、あ、あの、ヒロ様……

 さすがのわたくしでも、寝覚めにコレは刺激が強すぎますわぁ!!」

「…………」

「何があったかは分かりませんが、その、あの……

 とりあえず今のヒロ様、えっちすけっちが過ぎますの。

 ただでさえヒロ様の水兵服姿は素晴らしいのに、これは世界が消し飛ぶレベルでヤバすぎですわ!」

「…………」


 ヒロ様はわたくしをただ見つめたまま、答えてくれません。

 いつもだったら可愛らしく突っ込んでくれるはずなのに、ヒロ様はただただじっと黙ったまま。

 まさか、わたくしのことをお忘れになってしまったのでは。そんな危惧さえ抱きましたが。


「いや、でも、わたくしとしては勿論大歓迎なのですが、あの……」

「……ルウ」



 見ると、大きく開かれたヒロ様の瞳が、うるうると震えながら潤んでおりました。

 いっぱいにたまった涙が頬から次々とこぼれおちるさまは、まるで宝石が転がるよう。

 その煌めきに一瞬、心を奪われておりますと――



「う……うぅ……うわああぁあああぁあああああぁ!!

 ルウだ……元のルウだ!!」

「!?」



 あ、あわわわ?!

 心臓をえぐるような勢いで絶叫しながら、ヒロ様は一気にわたくしに抱きついてきました。



「良かった……良かった!

 元に戻ったんだな、ルウ!!」

「あびゃぁあ?!?!?! ひ、ヒロ様、お胸が、おヘソがわたくしの顔に……っ」

「俺……ルウとケンカして、そのままになって……

 ルウに謝れないまま、学校もあんなことになって。

 ルウが元に戻らなかったら、本当にどうしようって思って……俺……俺……!!」

「あの、ヒロ様……」

「本当に、本当にごめんよ、ルウ!

 俺がレズンとちゃんと向き合わなかったから、ルウを酷い目に遭わせて……!!」


 堰を切ったようにとは、まさしくこういう時の為にある言葉なのでしょう。

 子供のようにわぁわぁ号泣しながら、わたくしに抱きついてくるヒロ様。

 と、とっても可愛い……

 どくどく鳴っている心音をすぐそばに感じます。濡れた肌と布の心地よさだけで昇天してしまいそう。

 濃厚な血の匂いさえ、とても愛おしい。しかし。


「ひひひヒロ様、傷が、触手が深々と刺さってしまいます!

 あまり激しく動かないでくださいまし。今すぐ治療をさせていただきますので」

「えっ?

 あ……そ、そうだった。嬉しすぎて……

 痛いの、全部忘れてた。へへっ……」


 涙をぽろぽろ零しながら、それでも傷だらけの顔で微笑むヒロ様。

 その笑顔に、わたくしは思わずドキドキしてしまいました。

 可愛らしさは変わらないですが、どこかひと回り大人の男性になったような……

 そんな感覚さえするのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る