第8話 触手令嬢、決断する

 

 意図せずして直接目にすることになった、ヒロ様のお腹から胸元。

 そこにあったものは、想像していたような白い生肌――

 では、ありませんでした。

 いや、成長途上の少年の華奢な身体には違いなかったのですが。


「ひ、ヒロ様……その痣は?」


 お湯から顔を出したヒロ様は、慌てて両腕で裾を引っ張りお腹を隠しましたが、わたくしの目はごまかせません。

 彼のお腹から胸元にかけてが、幾つもの黒い痣で醜く汚されていました。

 明らかに、わたくしが暴れた時の傷ではありません。触手令嬢たるもの、自分でつけた傷か否かぐらいすぐに分かります。

 それも、一度や二度ではない。大分前から何度も何度も繰り返され、出来たであろう傷です。

 しかも服の下という、外からは容易に見えない部分を執拗に。わたくしの美学とは似ているようで正反対です。

 これは――

 明らかに、ドが複数つく卑怯者の所業です。

 一体誰が、何故、ヒロ様にこんなことを……?


「お……俺、そそっかしいからさ。

 よく、つまずいて生傷作っちまうんだ」


 必死で傷を隠しながら、目を逸らすヒロ様。

 その肩も声も、小刻みに震えております。


「ヒロ様はお得意ですね。分かりやすい嘘をつくのが」

「……!」

「きっとこのズボンの下も、痣だらけなのでしょう?」

「…………やめろ」


 濡れそぼったズボンの上から太ももをそっとつついてみましたが、強張るばかりの筋肉の感触が分かります。

 ヒロ様の心が、頑なに閉ざされてしまったのでしょうか。

 天井から落ちてくる水滴の音が、一瞬静まりかえったお風呂場に、やたらと響きました。



「ヒロ様。

 お話になりたくないのであれば、それでも構いませんが……

 ただ、今の痣を見てしまった以上、看過は出来ません」

「……」



 わたくしはヒロ様のお腹のあたりに触手を伸ばし、そっと治癒の術をかけます。

 ヒロ様はそれでも頑なに服をめくろうとはしませんでしたが、今はもう、濡れた服を通して黒い傷痕が透けて見えました。

 わたくしとしたことが、何故今まで気づかなかったのでしょうか。

 しかもさきほどの傷とは違い、容易に治癒しません。


「これはほんの悪戯や、ましてやヒロ様ご自身のうっかりで出来た痣などではありませんよ。

 かなり前から、度重なる暴行を受けて出来た痣なのではないですか?

 そのような類の怪我は、わたくしの治癒術でもなかなか簡単には治らないものです」

「……別に。

 今は、痛くないから」

「いいえ、痛いはずです。

 少なくとも、ヒロ様の心は」


 わたくしの言葉に、ヒロ様ははっと顔を上げました。

 大きく見開かれた無垢な若草色の瞳が、じっとわたくしを見つめます。

 その眦から、ぽたりと浄化の水が零れ落ちました。まるで大粒の涙のように。


 何か言いたそうで、それでもどうしても言えず、一人惑い続ける少年の表情――


 眼福眼福と叫んで抱きしめたいところですが、ここはヒロ様が落ち着くまで待ってみましょう。

 ヒロ様が、誰にもその心を打ち明けられず悩んでいるのなら――

 彼の運命の存在たるわたくしは、少しでもその心に寄り添わねば。例え、何も話してくださらずとも。

 お腹の痣の上にそっと触手を乗せ、痛くならない程度に静かに撫ぜてみます。

 ――本当は、こういう傷の上から容赦なくぎゅっと絞めあげ悲鳴を愉しむのが触手族の本能なのですが、そこは無理矢理抑えつけました。わたくしの強靭なる精神力で。



 そうしているうち、どれくらい時間が経過したでしょうか。

 やがて彼は、ぽつりとつぶやきました。



「……さっき、言っただろ。

 俺、お前に話があるって」

「そういえばそうでしたね。

 あれは、どういう意味だったのでしょう? それらしき内密のお話は、まだヒロ様からは……」



 ヒロ様は大きく息を吐き、わたくしの触手の一端をきゅっと握りしめました。

 あ、ヒロ様。それ、ちょっとくすぐったいです……



「俺が湖で何をやろうとしてたかは――

 ソフィや、この家のみんなには黙っててほしいんだ。

 勿論、この痣のことも。

 他の誰にも……じいちゃんにも、誰にも言うなよ」



 え?

 こ、こんな状態のヒロ様のことを、誰にも相談するなと!?


「な、何故ですヒロ様!?

 貴方のおじい様もソフィたちも、何より貴方のご両親も、ヒロ様を心配されているはず」

「親なんて、俺にはいないし」


 つっけんどんに吐き捨て、またそっぽを向いてしまうヒロ様。

 驚きのあまりわたくし、思わず触手をちょっと引っ込めてしまいました。

 なんと……ヒロ様はこのお年で、ご両親を……?

 というかわたくし自身も、そういえば父上に勘当されたばかりでしたが。

 でも、わたくしは既に成熟した大人の触手だから良いのです。わたくしの主義に口うるさく何やかんやと文句をつけてくる父上からは、いい加減離れるべき年頃ですから。

 しかし、ヒロ様はまだまだ保護者の庇護が必要な年齢のはず。

 それでも彼は力なく首を振りながら、気丈な態度を装っています。


「じいちゃんやあいつらに、変な心配かけたくないんだ。

 何だかんだで……ソフィたち、いい奴らだからさ」


 むぅ……

 健気なことは美点ではありますが、ここまでくると痛々しさすら感じます。

 ヒロ様への暴行の数々は、彼の言葉から推測する限り、このお屋敷内でなされた所業とも思えない。

 だとすれば――


「ならば、せめてわたくしには打ち明けていただけませんか。

 ヒロ様が何故あの湖で、ご自分の命を投げ捨てようとなさっていたのか。その痣は何なのか。

 理由を知る権利ぐらい、わたくしにはあるはずです」

「なんでお前に教えなきゃなんないんだよ」

「だってわたくし、ヒロ様の未来の妻ですもの」

「認めた覚えないけど」

「ヒロ様は、学校に行かれているのですよね?

 もしや、そこで何かあったのではないですか?」


 そんなわたくしの問いに、ヒロ様はぎゅっと唇を噛みしめます。

 沈黙もまた答えとは、よく言ったものですね。

 それにヒロ様。学校というワードを出しただけで貴方の全身がぶるっと震えたこと、わたくしが気づかないとお思いで?

 ふふ。もう、わたくしのとるべき次の行動は決まったようなものです。


「分かりました。

 気は進みませんが、努力はいたします。

 ソフィや他の使用人、おじい様にこのことを言わなければいいのですね?」

「……うん」

「但し、条件があります。

 わたくしも、ヒロ様の学校に入学させていただけませんか」

「……へっ?」


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