第103話 少年、真実に踏み込む

 

「さぁ……もう大丈夫」


 カスティロス伯爵に助けられたヒロは、先ほどの小屋に再び戻っていた。

 伯爵の言葉によれば、この小屋は昔カスティロス家が管轄していた監視所だったらしい。今も時々、森周辺に不穏な動きがあれば伯爵自身が見回りに来ることもあるという。

 傷だらけのヒロをベッドに寝かせ、伯爵はすぐに左腕の傷を診た。


「すまなかったね。

 酷く雑な手当をされていたようだ」


 事もなげにそう言ってのける伯爵。

 ヒロから見ても、レズンの手当は確かに不器用だったが――

 それでもあの時の治療は、レズンの精一杯だったと思う。

 失われていたレズンの優しさを、わずかでも思い出せたから。


 ――それを何故、伯爵はこうも冷たく突き放すのだろう?


 伯爵は小屋に戻ってすぐに湯を沸かし、手慣れた様子で次々に薬や治療用の術具を取り出していた。

 熱湯で消毒したタオルで全身を包まれ、ヒロはそのぬくもりに一瞬だけほっとしたが。

 タオルごしに感じた伯爵の手つきは、対照的にどことなく冷たいような気もした。


 ボロボロになった包帯を解き、手早く消毒の術をかけながら、痛みも殆どなく薬を塗りこんでいくそのさまは、まさしくプロの医術だ。レズンの不器用さとは比較にもならない。

 それでも――


 レズンの必死の治療さえも、何故こうも伯爵は否定するのか。


 今もレズンは小屋に入れてさえもらえず、未だしとしとと雨の降る屋外に放り出されている。

 それも、ロープで両手首を柱に縛りつけられたまま。

 恐らくそんな行為も日常的に、当然のように、伯爵はレズンに対してやっていたのだろう。


 どれほど懸命に勉強しても、伯爵の望むレベルには到達出来ず。

 レズンが精一杯頑張ってようやく出した結果も、伯爵にしてみれば当然か、それ以下のものにすぎない。ヒロへの必死の治療を「雑」の一言で片づけたように。

 そんな父子のすれ違いの末、レズンに対する激しい暴力が日常的に行われるようになったのだろうか。



 ――全然、知らなかった。

 レズンの家庭環境が、こんなに酷いものだったなんて。



 今さらのように、ヒロは密かに無念を噛みしめた。

 そんな彼の感情などつゆ知らず、伯爵は無遠慮にヒロの服に手をかけようとする。


「さぁ、服を脱いで。

 こんなに泥だらけのままじゃ、傷口から雑菌が入ってしまうし、風邪もひいてしまうよ。

 脱ぎにくいなら、手伝おうか?」


 気持ち悪いほどの伯爵の優しさ。

 ヒロは慌てて身体を引いた。


「い、いいです!

 自分で……脱げますから」

「そうかい?」


 治療のおかげで、大分身体の痛みはおさまっている。

 ヒロは傷に触れないよう、慎重にワイシャツを脱ぎ捨て、上半身を空気に晒した。

 薄暗がりの中、まだ幼く白い背中が露わになる。

 その仕草を、じっと見据えている伯爵。

 やがて、ぽつりと呟かれた言葉は。


「……やはり君は、ユイカに生き写しだ。

 幼い頃の、可憐な彼女に」


 ユイカ――ヒロの母親。

 この前まで何故か記憶の彼方にあった、母親の名前。

 何故それを今、伯爵は。


 そっとヒロの髪を優しく撫ぜる伯爵。

 さっきまで実の息子を殴りつけ縛り上げた手で、撫でられている。赤の他人でしかない自分が。

 その不可解さに、ヒロは何となく不気味なものを感じていた。

 伯爵が一体何を考えているのか、まるで分からない。

 何故その優しさを、自分の息子に向けられないのか。


「そう……ユイカも、ちょうどこれぐらい髪を短く切っていた時期があったなぁ。

 まだあの頃は、私もユイカも幼く、喧嘩もよくしたものだったが――

 汚い大人の世界など、何も知らない頃だった。何もかもが懐かしい」


 そう言いながら、ヒロの後ろ髪から首筋にかけてを触っていく伯爵。

 ヒロは反射的に身体をよじり、その手を避けてしまった。


「あ、あの!

 何か、知ってるんですか。俺の……母さんのこと」


 慌てて話題を切り替えようとするヒロ。

 得体の知れない悪寒が、伯爵の全身から感じられる。

 このままでは何をされるか分からない。そんな警告が、頭のどこかで響いている。


 というより、頭の中で誰かが複数で大騒ぎしているような気さえした。

 その誰かとは――ルウに、じいちゃんに、ロッソ会長。

 決して破れないガラス窓の向こうで、その三人が滅茶苦茶に暴れているような感覚がする。

 特にルウ。あの可愛い人間体の顔を真っ赤にして、ギャースカ喚いているようだ。

 ――ヒロ様、素っ裸は危険すぎます! すぐその男から離れてください! などと。


 下まで露出しているわけではないが、確かにこの伯爵の前で上半身を曝したのは迂闊だったかも知れない。

 ヒロがそうしなければ、多分無理矢理にでも脱がされていただろうけれども。



 それより――

 思いがけないところで出た、母の名前。

 今はそれを探ることが大事だ。自分の記憶からさえ消えてしまっていた、母の存在を。


「伯爵がどこまでご存じか、分からないんですけど。

 俺、母さんのこと、何故かずっと忘れていて。

 俺には最初から母さんという存在なんていないって、思い込んでたんです」

「……ほう?」

「この前の騒動でやっと、母さんのこと思い出して。

 それでやっと、俺は気づいたんです。自分にはちゃんと、母さんがいたって」

「それは、あのクズが学校を破壊した挙句君を拉致した、あのろくでもない事件のことかい」


 あのクズ。

 自分の息子を当然の如くそう表現する伯爵に、ヒロははっきりと苛立ちを覚えた。


「伯爵!

 レズンはずっと、貴方とのことで悩んでたんです。

 父親である貴方に認められなくて、いつも暴力を振るわれて、ずっと苦しんでた。

 だから学校でも、あれだけ暴れたんじゃないですか。

 昔はいつでも優しくて頼りになって、俺を助けてくれたのがレズンだったのに!」

「奴が君にやったことは、ほぼ把握しているよ。

 君を日常的にいたぶり、暴行や脅迫まで行い、君を追いつめた。しかも性的な暴力までふるっていたようだね……

 本当に嘆かわしい、情けないことだよ。アレが自分の息子だなどと、今でも信じられん」

「ですけど……!」


 そんなヒロを見つめながら、目を細めて微笑む伯爵。

 何も知らない第三者から見れば慈愛の笑みにも見える表情だが、今のヒロにはやたら冷たく、かつねっとりとした笑顔にさえ見える。


「君はあの愚かな息子の、一番の被害者だ。

 なのに、未だ息子を庇うとは。君は本当に、慈しみに溢れているね……それに勇気もある。

 やはりユイカにそっくりだ」

「俺が言いたいのは、そういうことじゃない!

 伯爵。貴方がちゃんとレズンを認めていれば、レズンもあそこまで酷いことにはならなかったんじゃないですか? 

 例えレズンが貴方の求める才能を持っていなかったとしても、それでも、レズンは懸命に頑張っていたはずです。なのに……!」


 思わず感情的になるヒロ。

 しかしそんな彼に、やれやれというように伯爵は首を振り、こともなげに言い捨てた。


「そんなことより、ユイカの話をしようじゃないか」


 そんなことより?

 自分の息子のことを、『そんなことより』で片づけるのか。

 レズンのことをまるで、蠅以下のゴミみたいに……


 だが伯爵はヒロをじっと見据えながら、そっと耳元で囁いた。


「君だって、知りたいだろう? 自分の母親のことを。

 いい子にしていれば、教えてあげよう。私の知る限りの、ユイカの思い出を」


 ――そう言われると、ヒロも何も言えない。

 母さんのことを知りたいのは、事実なんだ。


 うなだれてしまったヒロを満足そうに眺めながら、伯爵は話し始めた。


「そう……ヒロ君。

 実は私も、つい最近まで、ユイカの記憶を失っていたんだ。

 あれほど愛したはずの、ユイカの記憶をね」



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