第105話 崩壊の家族

 

 その後は恐らく、ヒロも知るとおりだろう。

 ユイカに関わる全ての者たちの記憶から、彼女の存在が消え失せた。実の親や夫、息子といった最愛の家族の記憶からさえも。



 そこまで語り切った後、伯爵は大きく肩を落とした。

 話せることは話しきった、と言いたげに。


「――勿論私も、ユイカの記憶を失った。あれだけ愛した彼女の記憶を。

 だから、あの魔妃を問いただすことさえもろくに出来なかったよ。そもそもあの女本人にも、ユイカについての記憶が全く残っていないようだったし」


 そうだったのか。

 事件の首謀者と見られるレーナさえも、ユイカの記憶が失われたということは――


 ヒロはごくりと唾を呑みこんだ。

 これはますます、じいちゃんや会長の推測が正しいことになる。

 レーナとの対峙の結果、母さんが周囲の人々全ての記憶から、自分の存在を消したということが。

 それも、魔妃の脅威から俺を守る為に。


「ただ、大切なものが失われた――

 その心の空白を埋める為に、私はそれまで以上に仕事に没頭したよ。

 しかし勿論、それ以後の私たちの生活は荒れに荒れた。

 私はユイカを忘れ去っても、あの女を愛することは到底出来なかった。

 レーナ本人も……思えば、哀れなものだった。

 自分の嫉妬の原因が思い出せず、私から愛されることもなく、次第に狂っていったよ」


 気づかないうちにレーナの名を口にする伯爵。

 ほんのわずかでも情けは残っているのか。ヒロはそう思いたかった。


「結果あの女は息子をさらに溺愛し、甘やかし。

 私は仕事に邁進し、家庭を顧みなくなった。ろくに屋敷やこの街にも帰らなくなったよ。

 大切なものが消えた故郷を見るのは、つらいものだからね。例えその大切なものが、何だったか分からなかったとしても」


 その点は、ヒロにも何となく分かる。

 大切なものが、その魂を失った時の悲しさは――

 操られ狂ってしまったルウや、昔の優しさをほぼ消失したレズンを見ていれば痛いほどに実感できた。


 そんなヒロの髪を、伯爵はそっと撫でる。


「だから――ヒロ君。

 どうか、謝らせてほしい。

 私が家庭をもっときっちり管理していれば、君がこのような酷い目に遭うこともなかった。

 たとえ愛してなどいなくとも、私はもっときちんとあの息子を育てるべきだった。

 あの魔妃に甘やかさせず、厳しく戒めるべきだったんだ。全ては私の落ち度だよ」


 その言葉には決して、偽りはないように思える。

 伯爵の謝罪は真摯そのものだったし、ヒロを見つめる眼差しには慈愛が溢れている。

 だが――


 ヒロには納得がいかなかった。

 レズンが荒れたのは、多分そういう理由だけじゃない。

 伯爵は肝心なところをはき違えている。そう思える。


 ヒロは伯爵の手を押しのけながら、敢然と言い放った。


「違う……!

 レズンが貴方に求めていたものは、そんな厳しさじゃありません。

 これ以上レズンに厳しくって、一体何をどうするつもりですか。今だって酷い暴力ばかりで、家畜みたいに外に繋いで!」


 気持ちを率直に言葉にしているうち、ヒロの感情が怒りで昂っていく。

 ヒロを適切に治療し優しく見守っているはずの大人が、自分の子供にまともな愛情を注いでいない。

 そのこと自体、ヒロには信じられなかった。


 ――俺の父さんだって、ここまで酷い親じゃない。

 仕事一辺倒だしぶっきらぼうで、人間関係は超がつくほど不器用で、じいちゃんや周りのフォローなしには仕事が成立しないほどだけど。

 ……それでも、何だかんだで俺のことをちゃんと見てくれる。


 その証拠に父さんは、ちゃんとじいちゃんと一緒に俺の修行の装置を作ってくれた。

 今までもよくよく考えてみたら、父さんは家に帰ってくるたび、俺用にって言いながら参考書や本を山ほど持ち込んでいた。どれも俺にはとんでもなく難しくて、解読すら不能だったけど。

 それを俺は、「読めない」「つまんない」ですぐ放り出して。

 今思えばその時の父さんは、ちょっと寂しそうな顔で俺を見るだけだった。でも、決して無理矢理読めとか、頭ごなしに押し付けたりはしなかった。


 ヒロの中で、自分の父の姿が今更のように鮮明に思い出されてくる。

 ――あまりに酷すぎる父親像を見てしまったせいで。


 そういえば父さんは――たまに家に帰ってきて俺と話をする時、視線がすごく泳いでた。

 今まで俺はそれを、父さんが俺を嫌っているせいだと思っていたけれど。

 俺と何を話していいのか、すごく困っていただけなのかも知れない。母さんがいた頃は、父さんと俺も、母さんを間にしながら普通に会話出来ていたような気がするし。

 母さんがいなくなって、父さんは俺とどう会話したらいいのか、分からなくなって……

 結果、俺は父さんを誤解したのかも。あの、人づきあいに関しては壊滅的に不器用すぎる父さんを。


 ――父さんは父さんで、結構な問題抱えた人だけど。

 でも、俺に一方的に暴力をふるったり、俺が心から嫌だと思うものを強制的に押し付けてくるようなことは、絶対になかった。

 むしろ、難しい本を持ってきてじいちゃんや母さんに怒られていたのはいつも、父さんの方。

 そのたびに父さんは、すごい小声で俺に「ゴメン」と言ってたっけ。俺の頭に手を押し付けながら。

 あれは父さん的には、撫でているつもりだったのかも知れない。伯爵が今俺を撫でているより、数段不器用な撫で方だったけど。



 そう。父さんだって……

 俺を、ちゃんと、愛してくれていた。

 伯爵を見て、初めて気づくなんて。



 そんなヒロの心情に全く気付くことなく、伯爵はまたもやその髪に触れる。

 しかしその仕草にすら、ヒロは最早恐怖さえ感じていた。


「ふふ……ヒロ君。本当に君は、ユイカにそっくりだ。

 私も昔ユイカに説教されたものだよ。もっとちゃんと子供を見てやれと」


 髪を撫でていた手はそのまま、むき出しの首筋へと回されていく。

 太い指先が肌に触れるたび、背筋に寒気が走った。


「だったら……!」

「だが、私にはもう無理だ。

 あんな息子など、私には愛せない。そういうことだ」


 ヒロの言葉を強引に遮り、断言する伯爵。

 それはあまりにも絶望的な、伯爵の言葉だった。レズンにとっても、ヒロにとっても。


「じゃあ……レズンをどうするつもりですか。

 レズンにちゃんとしてほしいなら、貴方だって親としてきちんと、彼を愛するべきじゃないですか!!」

「あぁ……やはり。

 その言葉。全く同じ言葉を、ユイカが言っていたよ……懐かしい」


 うっとりと恍惚の表情でヒロを見つめる伯爵。

 だがその目はヒロを見てはいない。完全に、失われたユイカしか見ていない。

 そして。


「奴の処遇など、簡単なことだ。

 金輪際君に触れることのないよう、ここから遠く離れた全寮制の学校へ編入させる。

 私もあんなクズ息子に、二度と触れたくはないからね。

 既に遠縁の者に養子の話を出している。カスティロスの名をはく奪し、家には勿論、この地にも生涯、踏み入れさせはしない!」



 ――そんな。

 それでレズンは、本当に救われるのか。


 酷い絶望が、ヒロの心に満ちていく。

 確かにそうすることで、ヒロはレズンから解放されるのかも知れない。

 だけど、それは何かが違う。何かが絶対に違う。



「勿論、レーナ共々だ。

 あれほどの罪を犯した女だ。もはや実家に突き返そうがどうしようが、誰も文句は言えぬ筈!

 そのかわり……」


 ヒロの心情も知らず、熱のこもった目でヒロを真っすぐ見据えながら、一方的に語り続ける伯爵。


「ヒロ君。

 君を、カスティロス家に迎え入れる」

「へっ?!」


 あまりのことに、思わずぽかんと口を開けてしまうヒロ。

 冗談じゃない。俺にはちゃんと、じいちゃんも父さんもいる。

 レズンが気に入らなかったからって……俺を、かわりの子供にしようって?



「大丈夫。あの魔妃には決して手出しなどさせない。

 ユイカの忘れ形見たる君を、私は今度こそ守ってみせる!」



 燃え滾るほどの熱い視線と共に、伯爵はヒロの肩を両手で痛いほどに掴む。

 だがヒロにはもう、その心が分からない。話がまるで通じない怪物を相手にしているような感覚だ。


 ルウとはまるで正反対だ。彼女も一方的で話を聞いていないように思えるが、それでもちゃんと俺を理解してくれているのに――

 俺の何もかもを分かっているという顔をしながら、全く俺を見ず、話を聞かず、母さんの面影しか見えていない伯爵。


「いい加減にしてください!

 俺もレズンも、貴方の操り人形じゃない。

 俺には家族だっているし、家を離れて貴方のところに行くつもりなんて全くない!」

「まぁまぁ。何が不満だい?

 グラナート子爵にはきちんと話をつけるさ。それに君の父親は大変な変人だと噂だよ……

 仕事ばかりで家に滅多に戻らないばかりか、自分の家族とさえろくに会話が出来んとも聞く」


 ニコニコと温和な表情ながら、伯爵は流れるようにヒロの父を罵倒する。

 ヒロの頭に、思わずカッと血がのぼった。


「貴方は……自分を棚に上げて何を!」

「何故ユイカがあんな奴と結婚したのか、未だに理解できんね。

 そんな親の元では、君も苦労が絶えんだろう」

「だから!

 俺の話を、聞いてくだ……っ!?」


 叫びかけたヒロの背中を、強引に抱き込もうとする伯爵。

 その腕力の強さに、思わず声を失うヒロ。

 荒い鼻息が、頬にかかる。

 笑いの形に歪み、細かい皺の寄った目。それがずいっとヒロの眼前に寄っていく。


「恐れることはないよ、ヒロ君。

 必ず私が、今度こそ幸せにしてみせる。

 さぁ。本物の家族に――」


 その奥の真っ黒な瞳に、光はない。

 呑みこまれる。そう感じたヒロは、思わず目をつぶってしまった




 ――その刹那。

 鋭利な何かがズブリと肉に食い込むような、嫌な音がした。




「ぐ……っ!?」



 くぐもった呻きと共に、伯爵の動きが不自然に止まった。

 ヒロの眼前で、その大きな身体ががくりと崩折れていく。



 突然止まる伯爵の声。

 ヒロは恐る恐る目を開き、何が起こったかを確認する――

 しかし次の瞬間、声も出せずに凝固してしまった。



 床へと力なく倒れていく伯爵。

 その向こうに突っ立っていたのは

 泥まみれのまま、憤怒に顔を歪めたレズン・カスティロス。



「……許さねぇ。

 てめぇだけは、絶対に許さねぇ」



 汚れた顔の中で、真っ赤に血走った目だけが大きく見開かれ、父親を凝視していた。

 その手にはどういうわけか、鈍く輝くナイフが握られている。

 勿論血にまみれていたが、その赤の狭間から覗く刃の光が、ヒロの目には異様に白く煌めいて映った。

 そして、ぶるぶる震えるレズンの両手を包んでいたものは――


 腐った血の如く赤黒く、カビのように嫌な臭いを放ちながらも、こちらを惑わせ呑みこんでくるような妖気を秘めたもや

 ヒロの知識でもはっきりそれと分かる、魔の瘴気だった。


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