第98話 少年、傷を自覚する
脂汗を流しつつ、レズンは何とか身を起こしかけた。
ヒロの絶叫さえ、へらりと嗤いながら流そうとしている。
「へ……何、言ってやがる?
あいつは触手族だ。ヒロ、てめぇを無理やり脱がせて愉しむのがあいつらの本能なんだぜ?
俺には分かる。あいつらはただ、欲望のまんまに動いてやがるだけだ」
「違う……」
「あんなのに取り込まれたら、ヒロ。お前まで魔物になっちまうぜ?
だったら俺の方が全然イイだろ? 俺はお前と同じ人間。しかもお前のことをよーく知ってる、昔からの『友達』だ」
『友達』という部分を強調しながら、ゆらりと立ち上がるレズン。
ヒロの眼にはその姿は最早、欲求にとりつかれた亡霊にしか見えない。
――それがヒロには、単純に悲しかった。
『友達』――
ずっとそう思っていた。少なくともヒロ自身は、ずっと。
友達なんだから、ちゃんと話せば理解できるはず。そう思っていた。
家族のことで悩んでいるなら、力になりたい。そう願っていた。
――だが、レズン自身の口から明かされた真実は、まだまだ子供にすぎないヒロの想像を軽く超えていたのである。
――ごめん、レズン。
話をしたいと思っていたけど……全部を受け入れるのは、無理だ。
そんなヒロの想いにも気づかないまま、レズンは迫る。
しかしヒロは無我夢中でベッドから脱け出し、扉まで走っていた。
追ってくるレズンの声。
「あいつらはただの魔物。人間と違って、話なんか通じないぜ?
今は優しいフリしてるかも知れねぇが、ヒロ……お前を汚してぶっ壊して滅茶苦茶にして、それを自分の栄養にしてるんだ。キモいだろ?」
「違う!
お前とルウを一緒にするなぁっ!!」
咄嗟に床に転がっていた石ころを力まかせにぶん投げて、近づいてきたレズンを追い払おうとするヒロ。
それがまともにレズンの額に命中し、レズンは思わず顔を押さえた。
その顔面が真っ赤に染まっていく。血と怒りによって。
「てめぇ……
俺を受け入れるんじゃなかったのかよ!?」
レズンの猫なで声が、瞬く間に怒声に変わる。
だがもう、ヒロは怯えない。
ただ、悲しみだけがその心に広がりだしていた。涙と共に。
「俺は、レズンと……
ただ、話をしたい。本当のことを知りたいって……
レズンに、これ以上自分を傷つけてほしくないって……そう、思ってただけだ」
それは今ヒロに言える、精一杯の言葉だった。
しかしレズンには一切届かない。ただ、欲求のままにヒロに迫るだけだ。
「てめぇ、あの島で言ったよなぁ?
自分に出来ることなら何でもするって!」
確かにそう言った。
何とか昔のレズンに戻ってほしいあまり、口にした言葉。
しかし今なら、ヒロにも分かる――レズンも自分自身ももう決して、昔には戻れないと。
どうしようもない怒りと悲しみを抱えながら、ヒロは叫んだ。
「だけど、今のレズンを受け入れるのは、どうしたって俺には出来ない!」
同時に扉を蹴り飛ばし、森へと駆けだしていくヒロ。
外の雨はやむどころかますます激しくなっていたが、それでもヒロは全く迷わず飛び出していった。
******
走る。走る。走る。
土砂降りの雨の中を、ヒロはただひたすらに走っていく。
どこへ向かっているのか、どこまで行けばこの水晶の森から抜けられるのか、何も分からない。
ただ、ヒロは無我夢中で駆け続けた。
樹の幹や水たまりに足を取られては、何度も転ぶ。
治療したばかりの左肩から再びじわじわと出血が始まり、足も腕も痛み始めていた。
それでも、震える身体を起こしながら、背後を振り返ると。
――おぉ~い! ヒロ~!!
雨の飛沫の中、静かに光り続ける水晶の森。
ほのかに光を放つ木々の向こうから、やたら間延びした声が聞こえる。
余裕たっぷりのレズンの声が。
――駄目だ。追いつかれる。
そう思った途端、ヒロの全身がぞわっと震え上がった。
予想以上に早く、レズンに追いつかれている。
思った以上に傷が痛み、うまく身体を動かせないせいかも知れない。それでも――
雨で煙る視界の向こうでゆらりと蠢く、レズンの影。
恐怖と寒さで、歯が微かにガチガチと鳴った。
しかし心のどこかで、何かがまだ必死で呼びかけてくる。
――どうして逃げるんだ、俺。
やっと、レズンの本心を知れたのに。
やっと、レズンのことが分かったのに。
レズンの助けになるなら、自分に出来ることなら、何でもする。そう決めてたのに――
しかし、今なら何となく分かる。
今のレズンを受け入れるのは、今の自分には「出来ない」から。
そう――少し前なら、出来たかも知れない。でも、今は。
ざぁざぁと滝のように身体に打ちつける雨。
乾きかけていたワイシャツもあっという間に水を吸い込み、重たく身体にへばりつく。
しかも何度も転んだせいで、身体中泥まみれだ。どこかの枝に引っかけたのか、ズボンも裾から大きく裂けている。
靴もいつの間にか片方脱げて、真っ黒になった靴下に血がにじんでいた。
それでもヒロは立ち上がり、手近な樹を支えにしながらよたよたと歩きだした。
――何としても、ここから出なきゃ。
ルウのところへ、戻らなきゃ。
懸命にそう念じながら、ヒロは痛みをこらえて道を探した。
雨と共にその頬に流れるものは、涙。
――レズン。
本当に俺を好きなら……どうして。
どうして、あんなことばかりしたんだよ。
思い浮かぶものは、学校で散々に傷つけられた記憶ばかり。
トイレで大勢に制服を裂かれ、池に沈められ、教科書もノートも汚され、誰からも無視された。
幼い頃の楽しかったレズンとの想い出は、どんどん壊されていった。レズン自身が引き起こした、酷い虐めによって。
水晶の幹をパシャパシャ叩く雨音が、あの音と重なる。
半裸にされ痛めつけられる自分を容赦なく撮影する、ミラスコの音に。
それでも――
本来のレズンは、とても優しい奴なんだ。そう信じていた。
母さんがいなくて寂しかった時も、ずっと一緒にいてくれた。俺が泣いていたら、いつも励ましてくれた。
イーリスに入って、何故か疎遠になったと思って寂しかったけど、あのオークたちからだって助けてくれた。
――そう思っていたのに、それさえも欺瞞だったなんて!
そんなヒロの心をさらに打ちのめしていたのは、レズンのとある一言。
『そいつぁ悪かったと思ってる』――?
許せなかった。
自分を傷つけたことばかりじゃない。サクヤやスクレットやソフィや会長――
何より、ルウを傷つけ利用したことが。
なのにそれを、「好きだったから」という理由だけで済まそうっていうのか。
好きだと言いさえすれば、今までのことは「悪かった」で済むとでも思っているのか。
レズンの行為は最早、照れ隠しとかそんな次元で済まされるものではない。それぐらいはもう、ヒロにも分かっている。
しかもレズンはヒロとの行為に及ぶ為に、まるでそのついでのように『悪かった』と口にした。
ヒロの脳裏で幾度も繰り返される、あのいい加減な口調。
『結構酷いこともした』『そいつぁ悪かったと思ってる』
とりあえずこう言っておけばいいんだろ。そんなことどうでもいいから、さっさとヤろうぜ――
いかにもそう言いたげだった、あの口ぶり。
思い出すたび、全身が震えた。
あぁ。俺――やっと分かった。
俺は、レズンに謝ってほしかったんだ。
俺が、レズンに一番望んでいたこと。それは――
心からの謝罪だった。
そう気づいた時、ヒロは思わず両膝から崩れ落ちてしまった。
目の前では雨が濁流となり、幾つも小さな渦を巻いて流れている。元は小道だった場所が雨のせいでほぼ川と化していた。
その岸辺で茫然とたたずみながら――ヒロはようやく、気づいた。
自分自身がどれほど、深く傷ついていたかを。
レズンからの謝罪を、どれほど待ち望んでいたかを。
そして今、その想いがあまりにもぞんざいに片づけられてしまった現実を。
「そんな言葉だけで……ルウにしたことが……みんなにやったことが……
俺にやったことが、許されると思ってんのかよ!!」
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