第99話 「好き」は決して免罪符ではない


 叫んでいた。

 全身で叫ばずにはいられなかった。追いつかれると分かっていても。

 ヒロの傷ついた左肩から、じわりと溢れる血。水を吸った重みのせいか、レズンが巻いた包帯が音もなくほどけていく。



 痛かった。

 苦しかった。

 悲しかった。

 大切だったはずの『親友』に何度も殴られ、蹴られ、傷つけられて。

 幾度も恥ずかしい姿にされ、みんなから嗤われ、無視され、痛めつけられた。

 今、やっと分かった。自分がどれほど深く傷ついていたか。



 そう――俺が一番知らなきゃいけなかったこと。

 それは、俺自身が、どれだけ傷ついていたかという事実。

 そしてどれだけ、レズンの心からの謝罪を求めていたか。



 ヒロはようやく自覚した。自らの心の傷を。



 今まで俺はずっと、自分の傷を見ないようにして。

 レズンはきっと、話せば分かるって思い込んでいた。

 俺に悪いところがあるから、レズンが俺を痛めつけるんだって。

 ――でもその一方で、俺の心は身体と一緒に、どんどん傷ついていた。



 だから俺は――あの日、湖に行ったんだ。

 誰にも相談できなくて、自分自身がどうしたいのかも分からなくて、何もかもがイヤになって。

 自分なんかいなくなれば全部解決じゃないかって思ったけれど、いざとなると身投げなんて、どうしても怖くて出来なくて。

 その瞬間にルウに出会えたのは、やっぱり運命だったのか。

 あいつは最初から、運命だとか何とか言ってたけど――まさか、本当に?



 再び蘇ってくるのは、ルウの言葉。



 ――いいえ、痛いはずです。

 少なくとも、ヒロ様の心は。



 身体の傷を見た時から、あいつは分かってたんだ。俺が、心から傷ついてるってことを。

 俺自身さえ見ないようにしていた傷を、ルウはすぐに見抜いて、ずっと癒そうとしてくれていたんだ。


 そういえば、会長も言っていた。

 自分の傷を自覚しろって……こういうことだったのか。

 こんなにも、苦しいことだったのか。

 あまりに惨めすぎて、見ないようにしていた自分の傷。

 怒涛の如く脳裏を駆け巡るものは、散々に汚され、傷つけられ、無視され、脅され、痛めつけられ続けた――

 学校での日々の記憶だった。

 そう、俺は見ないようにしていた。『親友』に傷つけられる自分を。

 聞かないふりをしていた。投げつけられた汚い言葉を。

 思い出さないようにしていた。多くの友達が遠ざかっていく哀しみを。



 直視しないようにしていた。

 レズンが、俺に、何をしたかを。



 魂を振り絞るかのような絶叫が、ヒロの喉から溢れた。

 痛い、つらい、苦しい、哀しい、寂しい、恥ずかしい、怖い、悲しい、憎い――

 死にたい。でもやっぱり、生きていたい。

 あらゆる感情が入り混じった叫びが、雨を切り裂くように森じゅうにこだまする。



 そんなヒロの背後に、ゆっくりと近づいてくる足音。

 樹から落ちた水晶をパキリと踏み砕く音と共に、声が響く。



「ったく、手間かけさせんなよ。

 ガキみてぇに泣きわめいても、助けなんか来ねぇぞ?」



 それは勿論、レズンの猫なで声。

 ヒロが振り向こうとするより先に、背後から両肩を押さえつけられた。


「ぐっ……!!」


 そのまま背中から前のめりに押し倒されたヒロ。

 すぐ前を流れていた濁流に、まともに顔を突っ込んでしまう。空気を求めてもがこうとしても、レズンの手がヒロを無理やり水中に押し込んでいる。

 それは学校で彼にやられた暴行と、何も変わっていなかった。


「や……やめっ……!!」

「へへっ」


 窒息寸前になったところでレズンの腕力が弱まり、何とかヒロは濁流から顔を上げる。

 しかしびしょ濡れになった上半身に、するりとレズンの両手が回された。

 指でヒロの胸を弄りながら、レズンはその耳元に口を寄せる。

 はぁはぁと熱い呼吸と共に、やたらと激しい心音が直接ヒロの背中にも伝わってきた。


「どうせ毎晩、あのバケモンとこんな風に乳繰り合ってんだろ?

 だったら少しぐらい、俺に分けてくれたっていいじゃねぇか」

「違う!

 俺もルウも、そんなこと……絶対に……ぐっ!!」


 抵抗した途端強く突き飛ばされ、再び濁流へと押し倒されるヒロ。

 今度はその上にそのまま、レズンはのしかかってきた。

 荒れ狂う水の中で強引に仰向けにされ、最早何の躊躇もなくレズンは服の中へと手を突っ込んでくる。

 熱い息と共に、レズンの口から吐き出された言葉は。


「ヒロ。好きだ」

「……!!」

「そこらの女なんかより、ずっと可愛いと思ってた。これはホントだぜ?」


 だが、ヒロももう負けてはいない。

 痛みをこらえ、レズンの手を振り払いながら、声を荒げる。


「好きだって言えば……

 何でも許されると思ってんのかよ!?」


 そして吐き出した。

 レズンから告白された瞬間から、ずっと抱えていた想いを。


「本当にそう思ってたなら、最初から……

 一番最初から、素直にそう言ってくれれば!

 俺だって、ちょっとは考えたかも知れなかったのに!!」

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