第101話 少年、暴力を目撃する

 

「あ……がっ……!!」


 レズンの指が、ヒロの首筋を圧迫していく。

 ヒロがどれだけ呻いても、狂気に染まったレズンはもう止まらない。

 その眼は異様な輝きを放ちながら、ヒロだけを見据えていた。

 ヒロも必死でレズンの手を振りほどこうとしたが、どれほど力を振り絞ってもその手は岩のように頑丈だった。

 傷ついた左腕には激痛が走り、執拗に殴られ続けた身体には力が入らない。

 まるで万力の如く、ヒロを絞め上げていくレズンの指。



 息が出来ない。

 言葉が何一つ出てこない。

 頭がぼうっとしていく。

 四肢が弛緩していくのが、自分でも分かった。



 あぁ――俺、死ぬのか。



 ヒロがほんの一瞬幻視したものは、ルウの泣き顔。

 苦しむ自分を見ながら、必死で叫びながら手を伸ばしている。

 あぁ。俺が死んじまったら、ルウはこんな風に泣いてしまうのか。



 ――そんなの、嫌だ。

 ルウは笑顔が滅茶苦茶可愛いんだ。俺を失って笑顔をなくしちまうルウなんて、俺は死んでも見たくない。



 ルウを想いながら、なお死に抗い、無我夢中でレズンの手を引き剥がそうとするヒロ。

 だが――




 ボガッ




 重く鈍い音と共に

 レズンの手から、急激に力が抜けた。

 同時にヒロを絞め上げていた力も、あっけなく解けていく。



 何が起こったか全く分からず、そのまま川へと倒れこんでしまうヒロ。

 空気を求めて激しくせきこみながら、それでも彼は見た――



 黒く大きな影が、空中でむんずとレズンの身体を捕らえているのを。



「だ、誰……?

 ルウ……?」



 一瞬そう思ったヒロだったが、すぐに違うと分かった。

 それは、レズンの倍近くも背丈のある偉丈夫。ヘタをすれば獣人のようにさえ見えたが、確かに黒髪の人間。それも、ヒロの父と同じぐらいの中年男性だった。

 よく見ると仕立ての良いコートを着ているが、雨に濡れてカラスのように真っ黒。

 ヒロを組み伏せていたレズンをいともたやすく掴み上げ、容赦なく大地へと叩きつける。

 鬼の如く赤く染まった、横顔。

 そのさまは、怒り狂ったルウ以上に凶暴に見えた。



「なっ……

 れ、レズン!?」



 思わず呼びかけたヒロだが、その声は最早レズンには聞こえていない。

 叩きのめされた瞬間、気絶してしまったのか。レズンは白目を剥いてあおむけに伸びてしまっていた。

 だが男はそれでもなお、倒れたレズンを容赦なく殴りつける。

 それも、何度も何度も執拗に。


「や……やめっ……!!」


 あまりの事態に、ヒロまでもが恐怖で固まってしまった。

 そんなヒロの声にも、男は無言のまま。

 叩きつけるような拳が、次々とレズンの頬を、胸を、腹を殴りつけていく。

 それに対し、レズンは完全に沈黙したまま、凍りついたように動かない。

 両目はそれぞれ別の方向を向き、口の端からは血が流れ出している。

 そんな彼を、男はそれでも殴りつけていた。



 ――あれは。あの背中は。



 寒さと恐怖で震えながらも、ヒロは思い出した。

 あれは、レズンの父親――カスティロス伯爵。

 小さい頃はそこそこ顔を合わせていたような記憶はあるけど、殆ど印象に残っていない。

 しかも最近では、めったに姿を見なかった。

 それが、こんな――

 こんな恐ろしい暴力をふるう男が、カスティロス伯爵? レズンの父親?



 目の前の事態がにわかには信じられないながらも、ヒロはどうにか立ち上がる。

 止めなければ。そんな衝動にかられて。



 ――こんなもの、見てられない。

 どんなに傷つけられたとしても、どんなことをされたとしても。

 それでもレズンはまだ、俺の大切な友達なんだから。



 痛む身体を無理矢理跳ね飛ばすようにして、ヒロは男の背中にしがみついた。


「やめてください!

 これ以上やったら、レズンは……っ!」


 だがそんなヒロの必死の叫びさえ、男には届かない。

 ヒロが背中に触れた途端、その怒りの拳はヒロの頬さえ激しく打ち払った。

 酷い怒号と共に。


「邪魔をするなっ!!」

「ぐ……!?」


 レズンの拳とは比較にならない、大人の体重が乗った重すぎる一撃。

 ただの一発で、ヒロは思い切り弾き飛ばされてしまった。

 そのまま川へと倒れこんでしまったヒロ。しかもあまりに重い打撃で、一時的に全身がマヒして動けない。



 ――こんな酷い暴力を……

 まさかレズンは、毎日のように?



 打たれた頬が、みるみる腫れあがっていく。

 口の中に溢れる、血の味。



 それでも何とか身体を起こしたヒロだったが――

 未だに、男はレズンを殴り続けていた。


「何故お前はこうも」「不出来の極みだ」「こんな息子など!」「お前さえいなければ!」


 男の喉から吐き出される怒号。

 断片的すぎてヒロには意味がよく分からなかったが、いずれもレズンを完全に否定するものであるのは確かだった。


 ――少なくとも、俺が父さんからこんな言葉を吐かれたことは、一度もない。

 勿論、じいちゃんからも。


 完全に無抵抗となってしまったレズンは、ひたすら殴られるばかり。

 降り続ける拳と、言葉の暴力。

 目撃しただけで、ヒロさえもその凄まじさにがくがくと震えてしまっていた。

 大人の怒声によって、恐怖が呼び起こされていく。それは大抵の子供を震え上がらせ、感情も動きも封じ込めてしまう。

 単純ではあるが、それ故に抗いがたい『恐怖』。



 だが同時に、ヒロの心によぎった想いは。



 ――駄目だ。

 こんなこと、絶対に止めなきゃ。

 こんなことをしていたら、レズンが死んでしまう!!



 そう思ったと同時に、身体の痺れは消え。

 ヒロは再び、無理矢理泥水を蹴とばすように駆け出していた。

 ただひたすらに男めがけ、何も考えず飛びついていく。



 だがそれさえも、相手にしてみればほんの子供の抵抗にすぎなかったのか。

 無言のまま、またしても一撃でなぎ払われてしまうヒロ。

 しかも男はあくまでレズンを殴ることに集中し続けており、ヒロなど眼中にない。

 まるで虫でも払うように叩き払われ、その怪力でヒロは吹っ飛ばされてしまった。


「!」


 ヒロの身体が、川へ背中から叩きつけられる。

 目の前が、血の赤で霞んでいく。全身に酷い痛みが走る。

 それでもヒロはもう怯まない。

 どれだけ痛みに震えても、それでも、目の前で理不尽に傷つけられる者を、放置は出来ない。



「やめろ!

 こんなこと、もう……やめてください! 伯爵っ!」



 ――かつて、ルウを止めた時と、全く同じに。

 全力で叫びながら、ヒロは男にもう一度飛びついた。今度はなるべく拳が届かないであろう、背中に向かって。

 必死で男の両肩に飛びつき、後ろから男を羽交い絞めにしようとするヒロ。だがこの大柄の相手ではうまくいかず、男におんぶするかのような体勢になってしまった。

 男はそれでもヒロを振り払おうと、遮二無二暴れた。まるで怪獣が暴れるかのように。

 激しく振り回され、意識が飛びそうになる。

 だが、ヒロは最後の力を振り絞り、しがみついた。レズンを解放するまで、絶対に離れない。その覚悟で。

 そして叫んだ。男の耳元で、力の限り。



「もうやめてくれ!

 レズンは貴方の子供でしょう!!」



 その絶叫が届いたのか。

 空中でぴたりと静止する、男の拳。



 ヒロの存在に初めて気が付いたかのように、男は背中ごしに振り返った。

 それはぼんやりとヒロの記憶にもある、少し気弱そうだが優しげなレズンの父親――

 間違いなく、カスティロス伯爵だった。



「ユイ、カ……?

 君は……」



 ヒロに気づいた途端、顔をくしゃくしゃに歪めるカスティロス。

 その口から出た名は、何故かユイカの名前。

 ヒロの母親。



 何故ここで、母さんの名前が?

 ――いや、どうでもいい。とにかく、レズンを殴るのだけは止められた。



 そう思った瞬間、ヒロの全身が一気に弛緩し、崩れ落ちていく。

 大人らしからぬ悲鳴をあげながら、慌ててそんなヒロを抱きとめるカスティロス。

 大きく暖かな両腕が、気絶寸前のヒロを包む。


 男の顔は、何故か涙でぐしゃぐしゃに濡れ。

 それまでの行為が信じられないほど優しい瞳で、ヒロを一心に見つめていた。


「おぉ……おぉ……!!

 私は……何ということを。

 ユイカ、君に何と申し開きを……!!」



 俺は、ヒロです。

 母さんじゃない。



 そう言葉にしようとしたヒロだが、唇が腫れあがり、うまく喋れない。

 びしょ濡れの身体は冷え切り、腕の激痛がぶり返してくる。

 乾きかけていたはずの制服は見る影もないほど泥にまみれ、しかもレズンとの争いでワイシャツは胸元から大きく引きちぎられ、元の形がどうだったか判別出来ないレベルにボロボロ。

 正直、じろじろ見られるのは非常に恥ずかしい姿だ。

 それでも伯爵はやや垂れた目を潤ませ、ヒロを上から下までじっと見つめていた。


「……美しい。

 その緋色の髪も、澄み切った緑の瞳も全て……

 まさしく、ユイカの生き写しだ」

「えっ?」


 相手が何を言い出したのか理解できず、きょとんとしてしまうヒロ。

 しかしそれにも構わず伯爵は、そのままヒロの身体を両腕でひょいと抱き上げる。



「愚かな息子が、本当に迷惑をかけた。

 詫びのしるしに、君の手当てをさせてほしい。

 詳しく話したいこともあるしね」

「え……えぇ?」

「君のお母さんのことだよ」



 ヒロをじっと見据える、伯爵の瞳。

 だがその柔らかな視線が、背後のレズンに向けられることは、決してなかった。


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