第19話 触手令嬢、我に返る
声が聞こえました。
とても可愛らしい、それでいて、強い意思のこめられた声が。
「……ヒロ様?」
その声に導かれるかのように、わたくしは意識を取り戻しました。
とんでもない光景を見せられ、怒りを滾らせてクズどもに襲いかかって……
そのあたりから、意識も記憶もぼうっとしております。
気がついた時、わたくしは完全に触手本来の姿に戻ってしまい。
池でクズどもを叩きのめし、レズンなるクズオブクズを絞め上げておりました。
もう少し力を入れていたら多分、首の骨を折ってしまっていたことでしょう。
何回殺しても殺したりないくらいのクズですが、本当に殺ってしまった日にはわたくし自身も刑に処されてしまいます。人間の世界の刑は勿論、触手族の掟にも触れることになりますし。
それを寸前で止めてくれたのは、ぼんやりした意識の中、微かに響いてきたあの声。
間違いなく、ヒロ様の声でした。
わたくし自身泥だらけになって、池でクズンを掴んだままでしたが。
ふと気づくと、尻尾のあたりを何かにぎゅっと抱きしめられています。
振り返ると――
「……!?
ひ、ひひヒロ様!?
な、何故、このような……!?」
わたくしの尻尾に縋りついているのは、全身泥まみれのヒロ様でした。
胸のあたりまで池に浸かり、水兵服は色が判別できないレベルに酷いありさま。元気に跳ねていた緋色の髪も艶を失い、ぼとぼとと泥が流れ落ちるばかり。
それでもヒロ様の意識は、未だ失われていません。
ぜいぜいと激しく息をつきながら、決してわたくしから離れようとはしませんでした。うっかり動くとそのままずるずるとヒロ様も池の中を引きずられ、泥の波をかぶってしまいます。
あぁ、なんということ。
これほど酷い目に遭わされながら、それでもわたくしを止めようとして下さったとは……
わたくしは慌てて触手を全て伸ばし、彼を抱き上げました。
拘束していたクズン? 勿論そのまま、池にドボンです。
「ヒロ様! もうわたくしは大丈夫です。
大丈夫ですから……!」
助け出したヒロ様の姿を見て――
わたくしは、二の句が継げなくなってしまいました。
可愛らしかった水兵服は、ドロドロになって身体にへばりつき。
左の袖は大きく裂かれ、白い肩が丸見え。カフスだけが二の腕に、ぼろ布の如く絡みついています。その肩から指先まで、マダラ模様を描きながら流れ落ちる泥。
ほどかれたスカーフは臙脂色が真っ黒になるまで泥を吸い、胸の上でぐしゃぐしゃに絡み。
菖蒲を象った小さな金色の校章までが、左胸のポケットからちぎれかかっています……
あまりにも痛々しい。
本来ならば――
そう、本来ならば、こういう光景はわたくし……大好物のはず、なのに。
そしてこういう時こそ、触手としては栄養補給のチャンスなのに。
今はただ、怒りしか湧きません。
自分でやっていないからでしょうか。それとも――
あぁ。父上にこんな状況を見られては、たちどころに怒られてしまうでしょう。
ズボンまで無理矢理脱がされかけたのか。ベルトが外され、その中にまで執拗に泥が塗りこめられています。
おかげで、せっかくのヒロ様の下着の色が不鮮明に……恐らくこれは白と薄水色のストライp……
って、そんなことはこの際どうでもいいですね。いや、決してどうでもよくはない大切なことですが、どうでもいいです。今は。
それに――
一体何でしょう? ヒロ様の唇の周りに漂う、脳の髄まで痛めつける強い匂いは。
まさかこれは……お酒?
それも、嗅いだだけで酔ってしまいそうな。わたくしは勿論、触手族はお酒にめっぽう強いモンスターのはずなのに、それでも刺激臭を感じるということは――
汚された襟元や唇をよくよく観察してみると、泥の中に何故か赤色が混じっています。
奇妙に粘ついた、半透明の赤が。
その時、わたくしは気づいてしまいました。
ヒロ様のすぐ横に転がっていた、ガラスの小瓶に。
栓があけられ、中の液体が地面に流されるままになっています。
瓶から漂ってくる強烈な匂い。思わずそれを取り上げてみますと――
「!!?
こ、これは……あの、憤激の竜火酒!?」
それはなんと、本来大型の魔物を倒す為に作られた、伝説のお酒。
このお酒を兵器として使用され、どれだけの魔物がとち狂ったか。父上やそのまた上の父上から、嫌というほど聞かされたものです。
毒やお酒に強いはずの魔物ですらそうなるのですから、人間が飲んだ日には大概、ろくなことになりません。
今はマニアの間でしか出回っていないレア物。しかし、これをうっかり飲んで喉が焼けた上、数日間足腰が立たなくなったという噂はかなり聞いております。魔物でも人間の大人でも。
お酒というより、劇薬と言った方が正しいレベルの危険物。
子供が飲めば、ヘタをすれば命が――!
こんな状態であっても、まだ意識があるのか。
ふう、ふぅうと、ヒロ様の唇から漏れる苦しげな息。
悔しそうに歯を食いしばりながらも、小刻みに震え続ける身体。
髪や顎から滴り落ちる泥さえも飲みたくてたまらないですが、今はそういう欲求は止めておきましょう。
「ルウ……
よ、よかった……
……止まって、くれたんだ」
苦痛の中、僅かに開かれた瞳。
その若草色は、こんな状況でもなお、無垢に澄み切っていました。
泥土の中でも輝きを放つエメラルドとは、これほど美しいものでしょうか。
眦からは痛みのあまりか、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちています。
酷く痛めつけられ、魔物すら倒れるほどの強いお酒を飲まされて。
意識が飛びそうになりながら、それでも、暴れるわたくしを止める為に動いた――
それが、ご自分を痛めつけた輩を庇う結果になったとしても。
湖で助けられた時も、その胆力に驚かされたものですが。
間違いない。ヒロ様は――勇者です。
そんな小さな勇者様は、すっかり掠れ切った声で呟きました。
「あんまり……見るなよな。
……恥ずかしい、から……」
脱がされかけたズボンを、必死で引き上げようとしているヒロ様の両手。
昨夜、彼がそっと呟いた言葉を思い出します。
――どんなにみっともないことになってもさ。
俺のこと、嫌いにならないでほしいんだ。
わたくしから見れば、このような健気な少年、好きになる以外の選択肢などないのですが。
そこはやはり、年頃の男の子ですね。弱々しい姿を人目に晒すだけでも、死にたくなるほど恥ずかしく感じてしまうのでしょう。
その羞恥心さえ容赦なく踏みにじり、無理矢理このクズどもは――!
「ヒロ様。
ともかく、口を開けて下さいな。
喉が焼かれてしまっては一大事です。すぐに治療いたしますから!」
怒りを抑えつつ、わたくしは自分の触手をヒロ様の唇に差し込みました。
「ん……っ?
ん、んー、んんー!!」
一瞬、力なく頭を振りながら拒絶するヒロ様。涙と泥にまみれた頬が真っ赤です。
それでもわたくしは、濡れた身体を精一杯優しく抱きしめ、背中を支えました。
無理にでもお口をこじあけ、その喉に触手の先端を差し入れ、治癒魔法をかけていきます。
喉の奥まで浸み込んだ液体を吸い込んだだけで、わたくし自身もちょっと酔いそうになってしまいました。
これほどまでに強いお酒を、強引に……
全くどんな育ち方をしたら、他者にこんな真似が出来るのでしょう。
治癒術をかけると同時に、触手の先端から体液を放出し、喉の傷を洗います。
これは勿論、術をかけた浄化の水ですから大丈夫。濃度を調節しながら、慎重に体液をヒロ様の喉に流し込んでいきます。
触手がいっぱいに差し込まれたヒロ様の口。その端から、唾液と吐しゃ物の混じった水がどんどん溢れてきました。
絵面がとてつもなくヤバイとか、そんな馬鹿なことは言っていられません。
そうしているうち、苦しげだったヒロ様の呼吸は、少しずつ落ち着いてきました。
あのお酒が肺にまで達していたら、流石のわたくしでも対処し切れなかったかも知れません。そこまでの事態には至らず、ほっとしましたが――
その時でした。
背後から、小さな悲鳴が響いたのは。
「ヒロ君!
ど……どうしてこんな……!?」
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