第82話 少年の記憶と祖父の告白
「わが娘ユイカ、その記憶の殆どを。
わしもつい先ほどまで――忘れていた」
へ?
意味が分かりません、おじい様。
愛娘のことを忘れていた? ヒロ様がショックで忘れたのも解せませんが、おじい様までが同じように忘れたと??
「いや……正確には、自分にユイカという娘がいたことは覚えていた。そしてユイカがヒロの母親だったのも。
勿論、自分が娘の葬式をやったのも覚えておる。ヒロをどうするかで、あの阿呆――
ヒロの父親と散々にもめたのもな」
何とも痛ましい記憶を、淡々と語るおじい様。
しかしその内容、にわかには信じられません。
「だが――わしが覚えていたのはそこまでじゃ。
ユイカにまつわる、それ以外の記憶は……
先刻まで何故か殆ど、わしの脳から抜け落ちてしまっていた。
ヒロ、お前がユイカを思い出したであろう瞬間まで――父親たるわしも、ユイカを忘れていたんじゃよ。
幼子のユイカを散々抱きしめて嫌がられた思い出も、反抗期には喧嘩しまくった思い出も、あれが結婚すると決めた時の悲喜こもごもも……その全てを。
わしに残されていたのはただ、ユイカの忘れ形見たるヒロを守る。その想いのみよ」
あまりの驚きで、大きく目を見開きながらおじい様の言葉を聞いているヒロ様。
おじい様までが、これほど不可解な記憶喪失に見舞われていたということは――
やはりこれは、単なる精神的ショックによるものではなさそうです。
「じいちゃんも……母さんを、忘れていた?
じゃあ何で葬式の時、じいちゃんは俺に母さんのことを聞いてきたんだ?
俺、今なら思い出せる。じいちゃんが必死で、俺に母さんを覚えているかって聞いてきたのを」
ヒロ様の問いに、おじい様の声が震えます。
「お前と違い、わしやあの阿呆親父にはまだ、ユイカの記憶がほんの少しだけ残っていた。
だからどうにか、ユイカを弔うことも出来たのじゃ……
だが、残された記憶は本当にわずかなものでな。わしが覚えていたのはユイカという娘の存在、そしてその笑顔ぐらい。必要最低限は残してやるという神の意思すら感じるほどだったよ。
ただ、ヒロ。お前から完全に母親の記憶が抜け落ちてしまったのが、わしは不憫でならなくてな。
だからこそあの時、必要以上にお前を責め、父親とも派手にやらかしてしまったかもしれん……すまぬ」
なんと……おじい様ご自身さえ、愛娘の記憶をほぼ失っていたとは。
そのような状況でユイカ様の葬儀を執り行った上、完全に母親の記憶を失った孫を目にしたら――
あぁ、地獄以外のなにものでもありません。
それでもヒロ様はそっと頭を振り、おじい様に向き直ります。
「ううん……ありがとう、じいちゃん。
そんな中でも、必死に俺を守ってくれて……
俺、ずっと知らなかった」
ヒロ様は身を乗り出して、おじい様の両手をぎゅっと握りました。
いつもはあれだけ堂々としているおじい様が、今は何故かとても小さく見えます。
「あれの葬儀の後――
わしは調べた。消えてしまった娘の記憶と、その原因を。
何しろ、愛情をこめて育てたはずの娘――記憶のみならず、わしの中でその情までが消えかけていたのじゃ。何が何だかわけが分からんままに、わしはあらゆる手を尽くして調べた。
何より、母親の記憶を失くしてぽっかりと虚ろになってしまったヒロがどうなってしまうか。それが恐ろしくてな」
おじい様はあくまで淡々とお話になりますが、恐ろしいことです……
わたくしの中からヒロ様への愛情が、丸ごと消えてしまうようなものでは。
それはもはや、わたくしではありません!
「調べた結果――
ユイカの記憶が消えていたのは、わしだけではなかった。ヒロの父親もわしと同じような状態だったが、ユイカを知るはずの殆どの人物――学生時代の旧友も親戚もメイドもママ友も、殆ど全員がユイカを忘れ去っていた。
僅かに記憶が残っていたのはわしと、お前の阿呆親父のみと言っていいだろう」
「じいちゃんと、父さんだけ……?
一体どうして、そんなことが?」
あまりのことに、ヒロ様だけでなくわたくしも恐れおののきながらお話を聞いているしかありませんでした。
夫に息子に父親のみならず、知人縁戚全員の記憶から、ユイカ様がまるごと消えた?
そんなとんでもない現象があっていいのでしょうか。
会長が眼鏡をそっと直しながら、改めておじい様に尋ねます。
「グラナート子爵。ひとつ確認させていただきたいのですが……
そもそも、ユイカさんが亡くなられた原因とは、何だったのでしょう?」
あぁ……そうです!
どうも決定的なことが分かっていないと思っていました。
どうして、ユイカ様は亡くなられたのでしょう?
何となく、病による死亡ではないような気がしてなりませんが。
おじい様はひとつため息をつき、再び話し始めました。
「それも――恥ずかしいことじゃが、未だに分かっていないのじゃ」
「分かっていない?
それは、どういう……?」
「今ならはっきり思い出せる。
ユイカはあの時、不意に行方をくらましたかと思ったら――
数日後、エスピリトの森で倒れていた。学園のそばにある、妖精族のたむろす森だ。
発見された時には何故か傷だらけ。そして既に――息はなかった」
「――!?」
その場の全員が息をのみました。
スクレットがぴょんと飛び上がって叫びます。
「だ、旦那。そりゃ……
ヒロの母ちゃん、事故で死んだってことか!?」
「そこまでは分からん。何しろ当時、誰の記憶からもユイカは消えてしまっていたからな。
ただ、今思うのは……
あの日、不意に出かけていったユイカの表情は、いつも以上に厳しかった。
確か、ママ友の誰ぞとトラブルを抱えていると悩んでいたような……
うぅ。ずっと忘れていた記憶ゆえ、わしも容易に思い出せんのが悔しいぞ!!」
思わずぐしゃぐしゃと頭をかきむしるおじい様。
ヒロ様が慌ててそんなおじい様を支えます。
「お、落ち着いてくれよじいちゃん。
そうだったんだ……俺、何となく分かってきた。
母さんのことを、俺が生まれてすぐに死んだってじいちゃんがずっと言ってたのって……
俺を混乱させない為だったんだな」
おじい様の言葉が本当であれば、恐ろしいことです。
ユイカ様はその死の真相を誰にも知られぬまま、誰からも忘れ去られていたと――?
「ヒロ……これはあくまでわしのカンなのだが。
もしかしたら――お前をはじめとする全ての人々の記憶から、ユイカが消えたのは。
魂術の影響もあるかも知れん。わしはそう考えておる」
「魂術? 母さんも使えたの?」
「あぁ。周囲の者たち全ての記憶を操るほどの強烈な術となると、魔王か勇者の使う術ぐらいしかない。
あやつにも確かに、魂術の素養はあった――
以前言ったとおり、勇者がどう生まれるかは全くの謎じゃ。血筋によるものかも知れんし、突然変異もあるかも知れん。
わしの記憶では、ユイカには確実に勇者の力が宿っていた。わしには全くその力はないし、恐らく突然変異によるものだが――
今のヒロと同等かそれ以上の力を持ち、さらにはある程度独学で魂術を覚え、使いこなしていたと言っていい」
えぇと、おじい様……それはまさか。
「つまり、自分の存在を忘却させたのは――
ユイカ自身の願いだったのかも知れぬ。
ヒロを何らかの危険に近づけさせまいとして、ユイカは……」
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