貧血の令嬢 3ー①



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「分子料理? 何ですか、それは?」


「科学者とシェフが協力して、調理による食材の変化を分子レベルで分析したりして、従来の調理法を見直そうとする研究分野を分子ガストロノミーといって、それを応用した調理を分子クッキングとか分子料理というんだ。

オックスフォード大学の物理学者で料理愛好家のニコラス・クルティと、フランスの物理化学者エルヴェ・ティスが提唱したと言われている。

 ごく簡単に言えば、料理への科学の応用といったところかな」


「楽しそうですね。科学実験のようなものでしょうか?」


 平賀は瞳を輝かせた。


「まあ……そうとも言えるかな。身近な例では、最近、家庭でも取り入れられている真空調理なんかがあるね。鍋に入れた水を、温度制御できる加熱器で熱し、袋に入れた食材を入れることで、一定の温度で均一に熱を加えるといった調理法だ」


「成る程。つまり測温抵抗体やサーミスタを使用して、制御対象の温度を測定し、設定温度と比較演算するといった仕組みでしょうか」


 平賀の言葉に、ロベルトは肩をすくめた。


「加熱器の内部構造までは、僕は知らないよ」


「ロベルト。是非、私も分子クッキングをお手伝いしたいです」


「君が料理の手伝いを?」


「科学実験なら、私は得意ですよ」


 平賀は胸を張った。


「確かにそうかも知れないね。さて、そうなると、分子料理をする為の器材が必要だ」


「どのような器材が必要です? 私の方で手配できるかも知れません」


 メモを構えた平賀の頭には、いつも彼が奇跡調査で使用する大型のいかつい実験機器が浮かんでいるに違いない。


 ロベルトは苦笑しながら、首を横に振った。


「いやいや、大丈夫だよ。僕に伝手がある」


「伝手とは?」


「ああ、僕の友人に、ベルトランド・カラマーイという料理研究家がいるんだ。料理本も五冊程出していて、分子クッキングの本も書いている。彼なら分子料理の調理器具を持っている筈だ」


「そうなんですか。ロベルト、貴方は人脈が本当に広いですね」


「そうでもないよ。ただSNSで知り合って、たまにレシピ交換をしたり、料理の写真を送り合ったりする付き合いなんだ。一度、食事会に招かれたこともあってね」


 ロベルトは早速、スマホを取り出して、ベルトランドに連絡を入れた。


「お久しぶりです。ロベルト・ニコラスです」


『やあ、ロベルト神父! どうしたんだい、電話をくれるなんて珍しいね』


「突然で悪いんだが、実は頼みたいことがあるんだ」


『何だい? 遠慮なく言ってくれ』


「ベルトランド、君は分子料理の調理器具などを、持ってはいないだろうか?」


『ああ、基本的な調理器具なら持っているよ』


「それを使わせて欲しいんだ」


『構わないが、ロベルト神父が分子料理なんて、一体どういう風の吹き回しだい? 君は反対派だっただろう』


「詳しいことは会って話すよ。君の料理アトリエにお邪魔しても構わないかな?」


『いいよ。今夜は特に予定もないしね。何時頃に来る?』


「八時には着けると思うけど、どうかな?」


『分かった。では、準備して待っておくよ』




 平賀とロベルトは、徒歩でローマの中心地、メルカート(市場)にほど近い、ベルトランドのアパルタメントを訪ねた。


 築二百年を超しているだろう重厚な建物だ。大理石の階段を上り、天井の高い廊下を進んだ先に、ベルトランドの部屋はあった。


 インターホンを押すとすぐにドアが開き、髪を短く角刈りにした眼鏡の男性が現れた。非常に細身で、料理研究家というイメージからは遠い雰囲気だ。


「ようこそ、ロベルト神父。で、そちらの方は?」


 ベルトランドは、愛想のいい笑顔で出迎えた。


「僕の同僚で、平賀神父。信頼できる友人なんだ」


「そうかい。初めまして、平賀神父。ようこそ、僕のアトリエに」


「初めまして。平賀・ヨゼフ・庚といいます」


 ベルトランドが差し出した手を、平賀は握って答えた。


 通された室内は、広々としたキッチンに改装されていて、大きなアイランドキッチンも壁も床も、清潔な白で統一されている。


 広い作業台兼ダイニングテーブルが部屋の中央に置かれ、窓際にも小型のテーブルセットが置かれていた。


 壁際には、見慣れない調理器具がずらりと並んだメタルラックがある。


 ダイニングテーブルに着いた二人の前に、ベルトランドがエスプレッソとビスコッティを運んで来た。


「それで、ロベルト神父、君が分子料理をする理由って?」


 ベルトランドはエスプレッソを一口飲んで訊ねた。


「シンプルに言うと、成り行きなんだが……。君は、JS食品のカールミネ・スカッピ社長を知っているよね」


「そりゃあ知っているよ。この業界の超大物だ」


「彼の孫娘に関して、難題を受けたんだよ」


「ほう、面白そうな話だね」


「ああ、実は……」


 ロベルトは事の経緯を、詳しくベルトランドに語った。


「成る程、そういう事情か。いや、数々の一流料理人がスカッピ家に招かれているという噂は聞いてたんだ。確かにそれなら、分子料理はいい選択かも知れないね」


「そうだろう?」


「分子料理の調理器具なら、こっちだよ」


 ベルトランドは二人を、奇妙な調理器具の前に連れてきた。


まず、大きなガスタンクのようなものがある。


「この中には液体窒素が入っているんだ」


 ベルトランドの言葉に、平賀は頬を紅潮させた。


「液体窒素は、生物試料の保存や超電導磁石の冷却剤などにも用いられている、沸点がマイナス百九十六度の超低温物質ですね。常温では気体として存在している窒素を液化空気の分留により冷却し、液相状態としたものです」


 早口で言った平賀に、ベルトランドは少したじろぎながら、言葉を継いだ。


「と、とにかくだ。超低温の液体窒素の中に食材を入れると、一瞬にして凍らせることが出来る。

 冷凍庫などで食材を凍らせる場合は、時間もかかるし、氷の結晶が大きくなることで、食材の細胞が破壊され、品質が変化したりもする。

 一方、液体窒素による瞬間凍結なら、氷の結晶が大きくなる時間がないから、シャリシャリとした粒の細かなシャーベット状にすることが出来るんだ。

 調理の過程で煙が立ち上り、派手な演出を見せられるのも、魅力の一つだね」


「ほう……」


 平賀は大きく頷いて相槌を打ち、その隣の機械を指差した。


「これは遠心分離機ではありませんか?」


「その通りだよ。遠心分離機に食材をかけると、階層ごとに分かれた味わいと、美しいコントラストの食品に生まれ変わるんだ」


「ああ、成る程。私は遠心分離機が料理に応用できるなんて、思ってもみませんでした。では、これは何です?」


 平賀は魔法瓶の上に奇妙な二つの棒状の物が突き出た器具を指差した。


「それはエスプーマという器具だ。この器具を使うと、本来なら泡立たない食材も泡状にすることが出来るんだ。

 ここにペースト状にした食材と卵白やゼラチンのような凝固剤を入れて密封し、ガスの注入口から亜酸化窒素ガスのボンベでガスを封入して振れば、噴出孔から泡状になった食材が出てくるという仕組みになっている。

 食材を泡状にすることで、まろやかで優しい味わいや新食感を味わえるという訳だ。

 亜酸化窒素の代わりに二酸化炭素を使うことも出来るけど、その場合は少しピリピリとした食感になるね」


「興味深いです」


 平賀はしきりに感心している。

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